政治は死んでいる 亀山郁夫氏 東京外大学長  

私は今、一人の文学者として自由に語る。今の政治がどう見えているか。

端的に、声が弱く、他者の存在が見えていない。

誰の目から見ても政治は死んでいる。

政治とは、自らのヴィジョンを説得する言葉である。

言葉とは批評であり、魂であり、お金である。

今や、そのすべてがない。 

では、その元凶は誰なのか。むろん第一義的には、戦後の歴史である。

第二義的には政治家だが、むしろシステムそのものである。

然し、政治を壊している罪は、私たち国民一人一人のほうがはるかに重い。 

今や多くの国民の情報源は、ウェブのトップページに載る簡易版である。そこで、常にシニズムの味付けがなされており、人々の目にはすべてが茶番にしか映らない仕組みだ。なぜなら文脈を欠いているから。

逆に、すべてが茶番としか見えないほど私たちの想像力が衰えきっている。なぜなら渇望がないから。渇望は貧しさからしか生まれ得ないので、逆にそれは日本が物質的に豊かすぎることの証になる。 

翻って、政治もまたその悪しき「豊かさ」の反映である。「豊かさ」とは、基本的に既得権そのものであり、現状維持の本能である。 

今、私たちは岐路に差しかかっている。グローバリズム戦争に勝ち組を狙うか、ローカリズムの成熟を目指すか。前者を狙うなら、今すぐ国家レベルでトップダウン方式による意思形成のシステムを構築しなければならない。新しい、ソフトな専制主義だ。

もし、後者を目指すなら、国は、文化と教育にもう少し気を使う必要がある。気ではなくお金を。

日本には技術力があるという驕りが、これまで上っ面な強硬論に拍車をかけてきた。だが、技術力が、常に追い越される運命にあることに漸く気づき始めた。そこで慌てている。 

然し、お金は、この技術革新からしか生まれないという矛盾もある。となると、結論は明らかだ。中間の道である。

その為には、まず物質的豊かさの基準を大きく引き下げなくてはならない。団塊の世代は犠牲を覚悟すべきだ。しかし、その基準が世界レベルで引き下げられた時、日本の誇る技術は無用の存在となる。