三、「八いつ(はちいつ) 第三」 徳永岫雲斎訳述

平成28年4月9日--5月12日

原文 読み 現代語訳
4月
10日

一、
孔子謂(こうしき)(しを)(いう)八いつ舞於庭(はちいつていにまわしむ)是可忍也(これしのぶべくんば)孰不可忍也(いずれをかしのぶべからざらん)

孔子、季氏を謂う。
いつ、庭に舞わしむ。是忍ぶべくんば、敦れをか忍ぶべからざらん。
孔子が季氏のことを論評された。
「天子しか許されぬ八列六十四人を家の廟の庭で舞わせた。これを平気で行なうのであれば、どのようなことでも平然と行なうことになってしまう。
11日

二、
三家(さんかしゃ)者以雍(ようをもって)(おさむ)子曰(しのたまわく)相維辟公(たすくるものこれへきこうあり)天子穆穆(てんしぼくぼくたり)奚取於(なんぞさんか)三家之堂(のどうにとらん)

三家者、雍を以て徹む。子曰く、相くるものこれ辟公あり、天子穆穆たりと。なんぞ三家の堂に取らん。

孟孫・叔孫・季孫の三家老は彼等の祖先祭祀を執り行った。
雍の詩に「祭を助ける諸侯、天子の気高く奥ゆかし」がある。三家老の天子気取りは僭越そのものだ。

12日 三、
子曰(しのたまわく)人而(ひとにして)不仁(ふじんならば)(れいを)(いかん)(せん)人而(ひとにして)不仁(ふじんならば)(がく)(をいか)(んせん)

子曰く、
人にして不仁ならば、礼を如何せん。人にして不仁ならば、楽を如何せん。

孔子が申された。
「人として思いやりのないものが、礼を習得してどうなるのだろう、何にもならない。人として仁のないものが楽を歌って何になるのだろう何にもならない。
13日 四、
林放問礼之本(りんぽうれいのもとをとう)子曰(しのたまわく)大哉(おおいなるかな)(といや)礼与其奢也寧倹(れいはそのおごらんよりはむしろけんせよ)喪与其易也寧戚(そうはそのおさまらんよりはむしろいためよ)
林放、礼の本を問う。
子曰く、大なるかな問いや。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪は其のおさまらんよりは寧ろいためよ。

林放が礼の根本を問うた。
孔子が申された。
「とても良い質問です。儀礼を行なう時、本来の在り様は、派手にするよりも質素にするものだ。葬礼も同じで、行き届くよりも悲しみの為で、多少整っていないほうがいいのだよ」

14日

五、
子曰(しのたまわく)夷狄之(いてきの)(きみ)(あるは)不如諸夏之亡也(しょかのなきにしかず)

子曰く、夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かず。

孔子が申された。「夷狄にも首長はあるが、君主のいない()遠く及ばない。

15日 六、
季氏旅於(きしたいざんに)泰山(やままつりす)子謂冉有曰(しぜんゆうにいいていわく)不能救(なんじすくうあたわ)(ざるか)対曰(こたえていわく)不能(あたわず)子曰(しのたまわく)嗚呼(ああ)曾謂(たいざんは)泰山不如林放乎(りんぽうといういっかいのにんげんにしかず)

季氏、泰山に山まつりす。子、冉有に謂いて曰く、汝救うこと能わざるか。対えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、ああ、泰山は林放という一介の人間にしかず。

季氏が泰山で大きな祭儀を執り行った。先生が冉有を招いて「お前はその大祭を止めることが出来なかったのか」。冉有は答えた。「出来ませんでした」、先生は言われた。「ああ、何と言うことだ。泰山の神々の祭礼への思いが、先日私に礼について問うた林放にも及ばないと思っているのか」

16日 七、
子曰(しのたまわく)君子無所争(くんしはあらそうところなし)必也射乎(かならずやしゃか)揖譲而(ゆうじょうにして)升下(しょうかし)而飲(しかしてのましむ)其争也(そのあらそいや)(くんしなり)
子曰く、君子は争うところなし。必ずや射か。揖譲にして升下し而して飲ましむ。その争いや君子なり。 孔子が申された。教養人は角を突き合わせて競争するようなことはせぬ、強いて言えば弓術の試合の時だけか。弓射の礼により、礼儀を守り昇り降りし、互いに会釈し譲り合う。終われば勝者に酒を飲ませる。その弓争いの様子こそ君子と言える。
17日 八、
子夏問曰(しかとうていわく)巧笑倩兮(こうしょうせんたり)(びも)目盻兮(くへんたり)素以為絢兮(そもってけんをなすとは)何謂也(なんのいいぞや)子曰(しのたまわく)(かいじ)事後乎(はそをあとにす)子曰(しのたまわく)(よを)(おこす)者商也(ものしょうなり)始可与言詩已矣(はじめてともにしをいうべきのみ)
子夏問うて曰く、巧笑倩たり、美目盻たり、素以て絢と為すとは。何の謂いぞや。
子曰く、絵事は素を後にす。子曰く、予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。

子夏が尋ねた。詩に笑窪あらわ、目元涼やか、白粉の美しさ、この詩は何を意味しているのか。
孔子が申された、「絵を書く時には先ず色を使う、胡粉を後で加えて完成する」、子夏言う、仁が先にあり礼が最後の仕上げになるのですか、孔子が言われた。「私を啓蒙して気づかせてくれるのは子夏だ、ようやくお前と一緒に詩を談ずることが出来る。
 

18日 九、
子曰(しのたまわく)夏礼吾能言之(かのれいはわれよくこれをいえども)(きち)不足徴也(ようするにたらざるなり)殷礼吾能言之(いんのれいはわれよくこれをいえども)(そう)不足徴也(ちょうするにたらざるなり)文献(ぶんけん)不足故也(たらざるがゆえなり)足則吾能徴之矣(たらばすなわちわれよくこれをちょうせん)
子曰く、夏礼は吾能くこれを言えども、杞徴するに足らざるなり。殷の礼は吾能くこれを言えども、宋、徴とするに足らざるなり。文献、足らざるが故なり。足らば則ち吾能くこれを徴せん。 孔子が申された。夏王朝の礼制は十分に説明することができるが、夏王朝の子孫の杞の国には証拠が足りない。殷王朝の礼制は十分に説明できるが、殷王朝の子孫の宋の国には殷の礼制の証拠が足りない。杞の国と宋の国には史料文献と博学な賢人が残っていないからである。十分ならば自説の証拠となる。
19日 十、
子曰(しのたまわく)蹄自既灌而往者(ていすでにかんしてよりのちは)吾不欲観之矣(われこれをみることをほっせず)

子曰く、蹄、既に灌してよりのちは、吾これを観ることをを欲せず。

孔子が申された。祖霊を祀る国の大祭で、神酒を地面に注いで神霊を呼び、懲らすまではよいが、後の儀式は礼にかなわないことがあり、見るに耐えない。

20日

十一、
或問蹄之説(あるひとていのせつをとう)子曰(しのたまわく)不知也(しらざるなり)(その)其説(せつをしる)者之於(もののてんか)天下也(におけるや)其如示諸斯乎(それこれをここにしめすがごとし)(その)(たなごころ)(をさせり)

或るひと蹄の説を問う。
子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れこれをここに示すが如し。其の掌を指せり。
ある人が蹄の祭祀について尋ねた。
孔子は申された。
「知らない。テイについて理解している者であれば、ちょうどこれを見るようなものだ」とその掌を指された。
21日 十二、
祭如在(まつればいますがごとし)祭神如(かみをまつればかみ)神在(いますがごとし)子曰(しのたまわく)(われ)不与(まつりにあず)(からざれば)(まつら)不祭(ざるがごとし)
祭ればいますが如し、神を祭れば神在すが如し。
子曰く、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し。
先祖の祭礼には先祖がそこに居られるように、神々の祭儀には神々が正にそこに居られるように真心を尽くされた。孔子は申された、
「祭礼に実際に参加していないので祭礼をしなかった思いがする。」
22日

 

十三、王孫賈問曰(おうそんかとうていわく)与其媚於(そのおくにこびん)(よりは)寧媚於(むしろそうにこび)(よとは)何謂(なんのいいぞや)子曰(しのたまわく)(しか)(らず)獲罪於天(つみをてんにうれば)無所祷也(いのるところなし)

王孫賈問うて曰く、其の奥に媚びんよりは、寧ろ竈に媚びよとは、何のいいぞや。
子曰く、然らず。罪を天に獲れば、祷る所なし。
王孫賈問うて曰く、その奥の神の機嫌を取るより竈(かまど)の神の機嫌を取れとは何を意味するのか。
孔子は言われた。
「至高の天に対し罪を犯し叱られては何処にも祈る場所などはない」。
23日 十四、
子曰(しのたまわく)周監於(しゅうはにだいに)二代(くらぶれば)郁郁乎(いくいくことして)文哉(ぶんなるかな)(われは)(しゅうに)(したがわん)

子曰く、周は二代にかんがみ、いくいくことして文なるかな、吾は周に従わん。

孔子が申された。
周の礼制は夏・殷の二代に較べると華やかに発展している。私は伝統に従う。

24日

十五、
子入(したいびょ)大廟(うにいりて)毎事(ことごとに)(とう)或曰(あるひといわく)孰謂聚人之知礼乎(たれかすうひとのこれいをしるといえるか)(たい)大廟(びょうにいりて)毎事(ことごとに)(とう)子聞之曰(しこれをききていわく)是礼也(これれいなり)

子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、たれかスウ人の子、礼を知ると謂えるか、大廟に入りて、事ごとに問う。子これを聞きて曰く、是れ礼なり。

孔子は大廟に入り、儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が言った。「誰が、スウの田舎から出てきた役人(孔子)が礼を知っているなどと言ったのだ。あれは大廟の中で儀礼について一つ一つ尋ねていた。
孔子は申された、前任者に一つ一つ丁重に質問をすることこそ礼なのだ。

25日 十六、
子曰(しのたまわく)(しゃ)不主皮(はしゅひせず)為力(ちからをなす)不同科(やかをおなじくせず)古之道也(いにしえのみちなり)
子曰く、射は主皮せず。力をなすやかを同じくせず。古の道なり。 孔子が申された。
礼射は的を射抜くことが第一ではない。これが古代のやり方である。
26日

十七、
(しこ)(うこ)欲去告朔之餽(くさくのきようを)(さらんとす)子曰(しのたまわく)賜也(しや)(なんじ)(はその)(ひつじを)(おしむ)(われは)(そのれい)(をお)(しむ)

子貢告朔の餽羊をさらんとす。子曰く、賜よ、汝は其の羊を愛しむ、我は其の礼を愛しむ。

子貢が、羊を捧げる朔日の儀式を廃止しようとした。
孔子は申された、子貢よ、羊が惜しいのだろうが私は失われる礼のほうが惜しい。
27日

十八、
子曰(しのたまわく)事君尽(きみにつかうるにれいを)(もってせば)人以為諂也(ひともってへつらいとなす)

子曰く、君に事うるに礼を以てせば、人以て諂いとなす。 孔子は申された。
君主に仕える時、当然の礼を尽くすと、愚かな世人はご機嫌取りという。
28日

十九、(てい)(こう)(とう)(きみし)使臣(んをつかい)臣事(しんくんにつ)(かうること)如之(これをい)(かん)孔子対曰(こうしこたえていわく)君使臣以(くんはしんをつかうにれい)(をもってし)臣事君以(しんはくんにつかうるにちゅう)(をもつてす)

定公問う、君、臣を使い、臣、君に事うること、これをを如何。
孔子こたえて曰く、君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす。

魯の定公が尋ね。「君主が家臣を使い、臣が君主に仕える時にはどのようにすればいいか」。
孔子は答えて申された「君主は家臣を人間として遇し、臣は君主に真心をもって臨むことです」

29日

二十、
子曰(しのたまわく)關雎(かんしょは)樂而不淫(たのしみていんせず)哀而(かなしみて)不傷(やぶらず)

子曰く、關雎は楽しみて淫せず、哀しみてやぶらず。

孔子が申された。
關雎の詩は楽しいが過度に到っていない、悲しいところも行き過ぎはない。

30日 二十一、
哀公(あいこうしゃ)()社於(さいが)()(とう)宰我対曰(さいがこたえていわく)(かこう)后氏以(しはしょうを)(もってし)殷人以(いんひとははくを)(もってし)周人以(しょうひとはりつを)(もってす)曰使民戦栗也(いわくたみをしてせんりつせしむ)子聞之曰(しこれをききてのたまわく)成事(せいじは)不説(とかず)遂事(すいじは)不説(いさめず)既徃(きおうは)不咎(とがめず)
哀公、社を宰我に問う。宰我、対えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。曰く民をして戦栗せしむ。
子これを聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諌めず、既往は咎めず。

哀公が(樹木を神体として祭る)社のことを宰我にお尋ねになった。宰我はお答えした。「夏の主君は松を使い、殷の人は柏(ひのき)を用い、周の人は栗を使っています。栗を用いるのには、(栗の神木の下で行われる死刑・刑罰によって)民衆を戦慄させる意味があります。」
孔子は申された、
「既に終わったことについて論じてはならない、既に為してしまったことについて諌めてもいけない。過ぎ去った事柄の責任を追及すべきではない。」

5月1日 二十二、
子曰(しのたまわく)(かん)仲之器(ちゅうのうつわ)小哉(しょうなるかな)或曰(あるひといわく)管仲倹乎(かんちゅうけんなるか)(いわく)(かん)(しさ)有三帰(んきあり)官事(かんじ)不摂(かねず)焉得倹乎(いずくんぞけんなるをえん)(いわく)然則(しからば)管仲知礼乎(かんちゅうれいをしるか)(いわく)(ほうく)君樹(んはたてて)塞門(もんをふさぐ)(かんし)(もた)亦樹(てても)塞門(んをふさぐ)邦君為両君之(ほうくんりょうくんのこのみ)(をなすに)有反貼(はんてんあり)(かん)(しもま)亦有反貼(たはんてんあり)管氏而(かんしにして)(れいを)(しらば)(いずれか)不知(れいを)(しらざらん)

子曰く、管仲の器小なるかな。或るひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰あり、官事かねず、いずくんぞ倹なるを得ん。曰く、然らば則ち管仲は礼を知れるか。
曰く、邦君は樹てて門を塞ぐ、管氏もたてて門を塞ぐ。邦君、両君の好みを為すに反貼あり、管氏も亦た反貼あり。管氏にして礼を知らば、孰れか礼を知らざらん。

孔子が申された。
「天下の名宰相・管仲の器量は小さい。ある人が尋ねた。「管仲はケチだったのか」孔子は申された、管氏には三邸宅あり、官の役人を兼務させず専任させた。どうしてケチなのか。いや、そうではない。ある人が尋ねた。「それでは、管仲は、礼を知っていたのか」。
孔子は申された。「国君は、目隠し塀を立て、門の正面をふさぐのが礼だが、管氏も家臣ながら塀を立て目隠しをしていた。国君が二人で友好する時、献酬の特別な台を設けるが、管氏も、家臣ながら特別な台を設けていた。管氏が礼を知っているならば誰が礼をわきまえていないと言えるのか、誰も礼を弁えていない。

5月2日

二十三、子語魯大師楽曰(しろのたいしにがくをつげてのたまわく)楽其可知已(がくはそれしるべきなり)始作翕如也(はじめおこすやきゅうじょたり)従之純如也(これをはなってじゅんじょたり)激如也(きょうじょたり)繹如也(えきじょたり)(もって)(なる)

子、魯の大師に楽をつげて曰く、楽は其れ知るべきなり。始めおこすや翕如たり。これを従って純如たり、激如たり、繹如たり、以て成る。

孔子が魯の音楽団楽長に音楽について語られた。「音楽の仕組みは知っている。最初は金属の打楽器の鐘が盛大に鳴り響く。その鐘の音を放た後、色々な管弦楽器合奏が静かに調和を保って流れる。更に管弦楽器のそれぞれの音が独奏ではっきりと聞こえ、最後に心地よい余韻を長く残しながら終わる。

5月3日 二十四、
儀封人請(ぎのほうじんまみえんことを)(こう)(いわく)君子之至於斯也(くんしのここにいたるや)吾未嘗不得見也(われいまだかってみゆるをえずんばあらず)従者見之(じゅうしゃこれにみえしむ)出曰(いでていわく)二三子(にさんしなん)()患者於喪乎(うしなえることをうれえんや)天下之無道也久矣(てんかのみちなきやひさし)天将以(てんまさに)夫子(ふうしをも)(って)木鐸(ぼくたくとなさんとす)
儀の封人、まみえんことを請う。曰く、君子の斯に至るや、吾、未だ嘗て見ゆるを得ずんばあらず。従者これを見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪えることを患えんや。天下の道なきこと久し。天、将に夫子を以て木鐸と為さんとす。

衛の儀の国境役人が(孔子に)面会したいと願って言った。「ここを通過した人で立派な君子である人と、私はまだお会いしたことがないのです。」そこで、孔子の従者が、国境役人を孔子と会わせてあげた。孔子の元を退出してから国境役人は言った。「諸君、亡命して流浪しているからといって、どうして心配することがあるだろうか(いや、心配する必要などない。)天下に道義が行われなくなって久しい。天(天上の神)は、今にもあの先生(孔子)を、天下に正しい道義を打ち立てるように諸侯にふれ回る木鐸にしようとしているのだから。」

 

4日 二十五、
子謂韶(ししょうをいう)尽美矣(びをつくせり)又尽善也(またぜんをつくせるなり)(ぶを)(いう)尽美矣(びをつくせり)未尽善也(いまだぜんをつくさざるなり)
子、韶を謂う。美を尽くせり、又た善を尽くせるなり。武を謂う。美を尽くせり。未だ善を尽くさざるなり。 先生が、伝説の聖王・舜の制作した楽曲である韶を評された。『美しさが完全、また、善さ(道徳性)においても完全。』更に、周の武王が作った楽曲である武を評して言われた。『美しさは完全であるが、まだ善(道徳性)において完全とはいえない。』
5日 二十六、
子曰(しのたまわく)(かみに)(おいて)不寛(かんならず)(れいを)(なして)不敬(かんならず)臨喪不哀(そうにのぞんでかなしまずんば)吾何以観之(われなにをもってこれ)(をみんや)

子曰く、上に居いて寛ならず、礼を為してかんならず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てこれを観んや。

孔子が申された。
「高位高官ながら、寛容の徳を持たず、礼の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにその人を評価すればよいのか、どこにも見るべきところなどない」