人生の意味   4     
        現成公案(げんじょうこうあん)(
道元禅)
「現成公案」に寄り道をしてみたい。その前に色々の事前準備として用語の研究を取りまとめて置く。本文は下旬頃からの開始となる。平成174

 1日

人生の意味1.

宗祖・道元によると、人生の意味は「生き生きと生き抜くことにある。生命の火を思いきり燃え上がらせ、白熱化し、燃えつくして消える。一かけらの余燼をも残さない完

全燃焼、それが道元の意図する人生である」と言う。中途半端な人生は道元の最も忌み嫌うところだという。道元は、「行動こそ生きている証」と考えたという。
 2日 人生の意味2.

道元は、行動に関して「色は目だけで聞く、と思うな。身と心とを一体にして色の中に、音の中に溶け込む時、本当の色か視え、音が聴こえるのだ」と言う。学問も、ただ本を読み暗記する、職場の人は

ただ物作りさえすればよい、というのではない。「身と心が一つになり、学問に、仕事に溶け込んで、そのものに成りきり、完全燃焼することを要求する」それこそが道元の言われる「生きること」であり「行動すること」だという。
 3日 禅とは 禅の文字は「示偏」に「単」である。簡単に、単的に示されるべきものが禅である。禅は、不立文字である、以心伝心である。 これは、ごたごたと、言葉や文字を羅列して禅は説明しても無益だということを意味するという。
 4日 現成公案 道元の正法眼蔵は九五巻の難解なものであるが、一巻に「現成公案」がある。これこそ道元禅の核心である。 禅はインスタントでは駄目だという。繰り返し、繰り返しが必要という。深く進めば、自分の身心に浸透し、共に考え、そして共に行動してくれるという。そして「生き生きと、生き生きと生き抜ける」という。私は挑戦する。
 5日 禅の基本構造 マクロは即ミクロ、全体は個、個は全体、全宇宙は一粒の麦であり一粒の麦は全宇宙である。逆は例外なく常に真理であるとする。瞬間に永遠をのぞき、脚下の一点に無限の 空間を感じるのである。禅は形式論理で律できない。禅は常に「真実」のみを語る。元来、禅は単純そのもの、用語・文体は特異であるが単純で数も少ない。
 6日 文字

禅の思考は、全体即個、個即全体に終始している。

個と全体は相対立しないで、一体として考える。相対として考えない、絶対である。
 7日

只管(しかん)打座(たざ)

ただひたすら座禅する。そして、身心(しんじん)脱落(だつらく)し人生の大事を悟るならば「一文字」も知らないでも、人に仏法、仏道を説き明かすに事欠かない。 この故に、僧が「要するに、語録が何の役に立つか」と言った。只管、座禅なのである。
 8日 無自性 一切の事物(諸法・万法)は、種々様々の諸要素の有機的組み合わせにより成立し、それ独自の特性というべきものは何一つ無いの意である。目は人間の体から離れたら、もはや目の働きをしない。 目は人間の他の器官と一体でこそ目たり得る。

この考え方を禅は、全宇宙にまで拡張し、諸法は、全宇宙と一体として存在し、全宇宙と一如となり運動すると観ずると言う。
 9日 無常 一切の事物(諸法・万法)は、生滅、転変し常住で無いとの意である。道元は、個別的でなく「一体として無常」であるとする。 一般的な、日本人的なあわれ、はかないの無常感とは異なり、聊かも「ウエット」なものは無く、ただ諸法は絶え間なく「流れる」とか「変化する」とかいうドライなものであるに過ぎないと観る。
10日 一体・一如 「一体」とは、自己がこととものに対する「一体感」を言うという。「一如」とは、自己がことを行うにあたり、それに関連或いは一切の事物と「一体」となり「同時参加」することであるという。 別の言い方をすれば、「一体」とは、すべての事物と有機的関係に立つことであり、「一如」とは、すべての事物と有機的に行動することである。一体とは一如の前提である。一如的行動する前に一体になっていなければならないのである。
11日 道元の無常観 それは
「万物
(自己を含めて)流転」「万物(自己を含む)は一体として運動」
ということにほかならない。
「一体」として無常」
とは「一如」ということである。

一如とは三昧と同じ意である。
12日 身心(しんじん)脱落(だつらく)

諸法は一体として存在、一如として行動している。人間だけが一体にも一如にもなりきれない。一体・一如の本質は「慈悲」即ち「無我愛」という。

この「無我愛」は自我を捨てさえすれれば、おのずから現成(げんじょう)するという。この自我を捨てることを、道元は「身心脱落」または「自己を忘れる」と言う。臨済系の禅家は「無になる」と言う。
13日 事実を事実として 諸法を一体・一如として観ずることは、事実を事実として観ずることであると言う。 我々は知の作用によりそれを認識するだけであって、「自己」が諸法と一体、一如であり、無自性・無常であるという実感は知の作用からは沸いてこない。この実感は感情の作用から生ずる。
14日 只管打坐 万法は物理的視野では、無自性・無常である。禅的視野では、一体・一如である。然るに、万法の中の一法である人間のみが、中々一体・一如になれない。 それは人間には「我」があるからである。

そこで無我になればよい、身心脱落すればよいと道元は言う。
15日 身心脱落するには 身心脱落するには、どうすればよいか。道元は「只管打座」と教える。「ひたすら」、「ただ」座禅せよと言う。 常に弟子達に「只管打坐」
「身心脱落」と口にした。
16日 悟り もともと「悟り」(身心脱落)は、極度の緊張に続く極度のリラックスの瞬間、ひらめくものである。 これは、釈迦も、達磨も、慧能も、師の如浄も、歴代の祖師にはすべて当てはまる。このことを心得ておれば誰でも悟られると言う。
17日 全機現 道元禅の本質は、一言で言えば「身心脱落」につきる。道元は、人生の意義をこれにより把握したと言う。道元の言う「人生の意義」とは、単的には「生き生きと生きよ。それこそ生きがいのある人生なのだ。それには「身心脱落」しなければならない」ということである。 そこで「生き生きと生きる」とはどういうことか。道元はそれは「全機現」であると言う。それは「自己の持つ機能をすべて発揮することである」、全力投球ということである。人々は現実には「全機現」していないとの意味が含まれている。
18日

全機現の範囲

食事、遊び、睡眠、一服の煙草、一杯のお茶、の時でも「全機現」するのだという。ゆったりと、しみじみと「全機現」するのだという。 そこに満ち足りた、しかも豊かな人生がある。生き生きと躍動する人生がある。全力を尽くしたことによる満足感がある。
19日 結論 「只管打坐―身心脱落―一体・一如―全機現」となる。道元の禅の究極の目的は「全機現」である。その為には自己は一体・一如にならなければならない。 「一体・一如」になるためにはし「身心脱落」しなければならないということになる。
20日 道元禅の基本構造 道元の目標「生き生きと、生き抜く」、これを「生也(しょうや)全機現(ぜんきげん)」という。生きるとき行なうことである。道元は行動を二分類した。「知」と「行」である。現代人なら、観察―計画―実行―評価、プラン・ドウ・シーである。これも知と行である。 「全機現」とは「一つこと」に打ち込むことである。

道元は、これを「身心を
()して・・する」という。
「身心を挙して、知する」、「身心挙して、行ずる」とはが問題となる。
21日 知するとは

身心挙して「知」するとは、

「万法
(すべての物事)は、自己と一体である、と心底から感ずること」だという。

自己の全身心を一つことに傾けること、当然に自己意識は消滅する。身心脱落する。そして自己は対象と一体になる。道元禅に重要なことは、「知」でも「観」でもなく「感」だという。「真に対象と一体感になつた」と感ずることだという。
22日 行ずるとは これは「行動に一如になること」だという。行動の流れの中に「自己」を没入せしめ「自己」を忘れて行動することだという。 「一体」と「一如」はペアーである。
一体になれば一如になる。
23日 無常 すべての物事は、常に一時の休みもなく転変・流転し続けている、との意である。 無自性・無常は、自然の大法則てであり、ここから道元の禅が展開されるという。(明日から愈々、現成公案に入る)
24日 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)

現成公案下調べ

正法眼(しょうぼうげん)」とは、正しく事象を見る目である。
「蔵」はおさめ持つである。そのような書であるという意。

現成(げんじょう)公案(こうあん)」はその正法眼蔵九五巻の中の一巻、「現成」とは、あらわれなる、「行動」のことである。

「公案」はバランスのとれた意で、完全ということ。自己が対象と一体となり、行動に一如(三昧)になることである。

25日 現成公案 従って「現成公案」とは「完全行動」とも「一体・一如的行動」或いは「一如的行動」とも言えるのである。

正法眼蔵により正しく「存在」を見る立場から完全な「行動」をなすべきことを教えるものである。

26日 思想詩 国文学者の西尾実氏は、正法眼蔵は、気品に富み、美しい文章で書かれた思想詩だという。 思想であるるが故に論理的であり、詩であるが故に超論理的とも言える。真なるものは美でなくてはならぬ美なるものは、真でなくてはならぬ。
27日 正法眼蔵 美しい、詩的であるがそれに幻惑されて、一言一句に囚われると、文章全体に漲る「論理」を見失う。

この書に流れる「一貫した論理の流れ」を確りと把握することが肝要だという。

28日 先ず、この書の思想を知的・論理的に理解する。 それを理解してから原文の私的な美しさを味わうのがよいとされる。
29日

そして、常に身辺に置いて繰り返し繰り返し朗読するが良いとされる。

そうすることにより、道元の思想を情緒的にも自己自身に浸透させると良いという。
30日 田辺元の言葉

哲学者、田辺元の言葉。

私は道元の思弁の深さ綿密さに打たれて日本人の思索能力に対する自信を鼓吹せられた 私は道元に対する感激と広く世に伝えることを以って自分の義務であると感ずる。