鳥取木鶏会  「安岡正篤先生の言葉」平成25年5月例会 

人間完成の九段階 

その一(野と従)

 老荘家の人間完成の九段階というのがある。これは荘子の雑篇(寓言)にある有名なものでありますが、例えば、あるがままの人間の状態を「野」と言う。粗野、野蛮の野。これはまだ垢抜けがしていない、修養の加わらないあるがままの状態。これが真理を聞き、道を学んでやや出来てきた状態、と言うよりは、あるがままの無知な素朴な状態ではなく、真理とか道に傾けだす状態、そういう状態を「従」という。

その二(通と物)

 一年にして野なり。二年にして従なり。三年にして「通」。これは真理を聞き、道を学んでだいぶ通じてきた、ある程度の所まで進歩してきた状態である。そこで四年にして「物」、いわゆる物になる。とにかく、あるがままの最初の野より、従、通じて別の物になった。どうやら只の人間ではない、一つの本物になったと言うこと、四年にして物。これが第一次完成である。        

その三(来、鬼入、天成)

 そうすると、道を聞かざる前には無かった何ものかが、即ち別の力、或いはインスピレーションが現れてくる。これを「(らい)」という。五年にして来。新たなるものが第一次完成から出てくる。つまり道の中にぐんぐん入ってゆく。出て行くのではない、入って行くんです。そうすると第一次完成の後にインスピレーションがやってきた、何か精神的なもの、つまり霊的なものが入ってくる。これを霊と言わずに、老荘流に「()」という。六年にして「鬼入(きにゅう)」。そして七年にして「天成(てんせい)」。第二次完成に到達する。

その四(不知死、不知生、大妙)

 「物」までは人成だ。まだ人間的だ。そこから新たなるものが入ってきて、そこに何か神秘的作用が起って初めて第二次の完成、天成となる。人成でなくて天成。つまり人間から天に入った。そうなると、もう人間の生死などというものは問題ではない。八年にして死を知らず、生を知らず。「不知死、不知生」かくして九年にして大いに妙なり。「大妙」。

こう言うのが老荘流の心境、或いは人格発達の段階、道程である。まことによく表している。色々の法というものを最初からつけ加えてゆくのではない。全て去っていく。だんだん奥深く入ってゆく。そうして最後の幹に、根に到達する時に本当の生が働く。即ち大妙になる。

深遠な理法

()があるから敵があり、我がなければ敵はありません。敵とは元来対峙の名であります。陰陽水火のようなものです。およそ形のあるものは必ず相対するものがありますから、我が心に形がなければ対立するものはありません。 

心と形と共に忘れる

従って、争うものがないから敵もなく我もないと言ってよろしいでしょう。心と形と共に忘れて、静かで無事の時は和して(ひとつ)であります。敵の形をやぶると言っても我も知らず、知らぬのではなく、そのようなことを考えもせず、思いのままに動くだけです。又、この心が澄み切って静かで且つ無事であれば、この世界は我が世界となって、良いの、悪いの、好むだの(にく)むだの、執着だの停滞だのがない造化そのものであります。みな自分の心から苦とか楽とか、得とか損とかの境界をつくるものです。天地は広大であると言っても、結局は心の外に求むべきものはありません。

その他 言志晩録より

176.視聴・言動を慎め

視聴を慎みて以て心の門戸を固うし、言動を謹みて以て心の出入を厳にす。

岫雲斎
視ること、聴くことを謹んで、心の門を固くして悪い方向へ進まないようにする。また発言、行動を謹んで心が濫りに出入りしないように厳重に取り締まって身の禍の種を蒔かないようにする事が肝要なり。

178人欲を去る工夫

人欲を去れとは、学人皆之れを口にすれども、而るに工夫(はなは)だ難し。余(かつ)て謂う、「当に先ず大欲を去るべし」と。人の大欲は飲食男女に()くは()し。故に専ら此の二者を戒む。余中年以後、此の欲漸く薄く、今は則ち(たん)(ぜん)として、精神、壮者と太だ異なること無し。幸なりと謂う可し。岫雲斎
欲を去れと学者は皆言うが、これが実行の工夫は心もとない。自分は過去に「真っ先に大欲を除け」と申した。大欲とは飲食と色欲の二つに勝るものはない。だからこの二つを戒めることが重要。我輩は、中年以後、これらの欲が漸く薄らぎ現在は淡白なもので、精神は壮年の者と殆ど変わらない。幸いなことである。