佐藤一斎「言志晩録」その八 岫雲斎補注 

       平成25年5月1日-31日

1日 190
貧富は天定

富人(ふじん)は羨むこと勿れ。()れ今の富は、(いず)くんぞ其の後の貧を招かざるを知らんや。貧人を侮る勿れ。渠れ今の貧は、安くんぞ其の後の富を(たい)せざるを知らんや。畢竟(ひっきょう)(てん)(てい)なれば、各々其の分に安んじて可なり。 

岫雲斎

富める人を羨んではならぬ。
彼の今の富が後日の貧を招かないものか分らない。
貧して人を軽侮してはならぬ、後日の富のもとかもしれない。
貧富は天の定めるものであるから各人はその分に安んじておればよい。

2日 191.
人事は予想しない所に赴く
人事は期せざる所に赴く。(つい)に人力に非ず。
人家の貧富の如き、天に係る有り。
人に係る有り。然れども其の人に係る者は、(つい)に亦天に係る。
世に処して能く此の理を知らば、苦悩の一半は省かん。

岫雲斎
人間に関する事は予期しない所にしばしば行くものだ。この事は人間の力ではない。例えば、世間に貧乏と金持ちがあるようなもので、これは天運もあれば人力に係るものもある。考えて見るに、人力によると考えられるものは突き詰めれば天に係ることなのである。我々が世に処して行くのに、この理を会得すれば、苦悩を半減することが出来ると思われる。

3日 192.
人を見て自分の幸福を知る
人の()有るを見て、我が禍無きの安らかなるを知り、人の福有るを見て、我が福無きの穏かなるを知る。心の安穏なる処は、即ち身の極楽なる処なり。 

岫雲斎
他人の禍を見て我が身に禍がなく安らかである事がよく分る。他人の幸福を見て自分は幸福でない為に他人から妬みを受けず却って心の平安なことを知る。心の安穏な所が肉体的にも極めてよい場所なのである。

4日 193.
過去は将来への路頭なり
人は皆将来を図れども、而も過去を忘る。
殊に知らず、過去は乃ち将来の路頭(ろとう)たるを。
分を知り足るを知るは、過去を忘れざるに在り。
 

岫雲斎
人はみな未来のことを思案して過去の事を忘れてしまっている。殊に、過去が結局は未来の出発点であることが分っていない。己の分限を知り現状に満足していることはつまり過去を忘れないということに在るのだ。

5日 194.
履歴を顧りみて安穏の地を占めよ

人は当に従前の履歴を回顧して、以て安穏の地を占むべし。
若し
かん(ぜん)として駐歩の処を知らずんば、必ず淵壑(えんがく)()ちん。
 

岫雲斎
人間というものは常に過去の履歴を振り返り安らかな地におるように心掛けるがよい。もし、ひた走りに走り(かん止まる所を知らないと必ず深淵や谷(淵壑(えんがく))に墜ちて身を亡ぼすことになるものだ。

6日 195.
好んで逆らうは失徳のみではない
人は好んで触ご(しょくご)を為す者あり。但だに失徳なるのみならず。
怨を取るの道も(まさ)
に此に在り。戒む可きの至なり。
 

岫雲斎
世間では触ご(しょくご)、即ち他人に逆らって楽しんでいる者がある。かかる事は己の徳を失うばかりではなく、人から怨みを買う所以である。戒めなくてはならぬ。

7日 196.
他人に不好話をさせるのも良くない
人有り、自ら不好話(ふこうわ)を談せずと雖も、而も他人を誘導して談ぜしめ、己は則ち(かたわら)に在りて、衆と共に聞きて之を快咲(かいしょう)し、以て一場の興を取るは、(はなは)だ失徳たり。
究に自ら不好話を談ずると一般なり。
 

岫雲斎
自分はよからぬ話はしないが他人を誘導して良からぬ話をさせる人間がいる、自分は傍らにおり大勢の者と一緒に聞いて愉快に笑いその場の興をそそるのである。これは大変に徳を失う行為である。結局は自分で良からぬ話をするのと同罪である。

8日 197.
背撻の痛さと癢さ

背撻(はいたつ)の痛さは耐え易く、脇ちく(きょうちく)かゆ(かゆ)さは忍び難し。 

岫雲斎
背中を鞭で打たれるのは耐えられるが脇の下をくすぐられるかゆさは我慢できない。(風刺的に揶揄されるのは耐えられぬ)

9日 198.
愛敬の二字は交際の要道
愛敬(あいけい)の二字は、交際の要道たり。傲視(ごうし)して以て物を凌ぐこと勿れ。侮咲(ぶしょう)して以て人を調すること勿れ。旅?(りょごう)に「人を(もてあそ)べば徳を(うしな)う」とは、真に是れ明戒(めいかい)なり。 

岫雲斎
愛と敬の二字は、人と交際する上で大切な道である。傲慢な態度で、何もの対しても見下してはならぬ。侮り笑って人を嘲笑してはならぬ。「書経」の旅?(りょごう)篇に「人を侮ったり、からかったりすることは結局は己の徳を喪失することになる」とあるのは実に立派な戒めである。

10日 199.         
人は礼譲を甲冑とせよ

甲冑(かっちゅう)(はずかし)()からざるの色有り。
人は礼譲を服して以て甲冑と為さば、誰れか敢て之を辱めん。
 

岫雲斎
甲冑(よろいかぶと)で身を固めた武士は侮り難い威容を備えている。同様に人は礼儀の(よろい)互譲(ごじょう)(かぶと)を身につけていれば誰が辱めたり侮ったりするものか。

11日 200.
物事は七、八分でよいとせよ

太寵(たいちょう)は是れ太辱(たいじょく)(さん)にして、奇福は是れ奇禍(きか)()なり。 

岫雲斎
特別の寵愛を受けることは大いなる恥辱を受ける前兆である。思いもよらぬ幸福を得ることは、思いもよらぬ禍が引き起される餌である。物事は七、八分でよいとせよ。

12日 201.         
自己本来の徳は捨てるべからず
(なんじ)の霊亀を()て、我を観て(おとがい)(うごか)す」霊亀は()つ可からず。
凡そ(これ)を外に(うかが)う者は、皆()()の観なり。
 

岫雲斎
易経には「自らを養い得る徳を捨てて、却って貧乏人を見て物を欲しがる状態を作るのは凶である」と。自分を養い得る徳を捨ててはいけない。養いを他に求める者はみな頤を垂れ動かして物乞いを求める状態を呈するものだ。
(
易経、頤の卦にある文章。霊亀は神明にして食わざるもの。明智にして自に守り、養を外に求めないものの比喩。()()は食わんとす欲するのかたち。)

13日 202.         
学問は足らざるを知るべし
人各々分有り。当に足るを知るべし。
但だ講学は則ち当に足らざるを知るべし。
 

岫雲斎
人には夫々天分というものがある。それに満足して心安らかに過すべきである。ただ、学問をすることだけは、常に足らないことを知らねばならない。

14日 203.
「堯舜の上、善尽くるなし」
天道は窮り尽くる無し。故に義理も窮り尽くる無し。
義理は窮り尽くる無し。故に此の学も窮り尽くる無し。
「堯舜の上、善尽くる無し」とは、此れを謂うなり。
 

岫雲斎
天の道には窮め尽きる所のものはない。だからそれを表す義理も尽きる所はなく、義理が尽きる所がないのだから、これを窮めようとする学問にも窮め尽きる所はない。王陽明の言った「堯舜の上、善尽くる所無し」とはこの事を言うのである。

15日

204.
艱難の教訓その一

薬物は、(かん)の苦中より生ずる者多く効有り。人も亦艱苦を閲歴すれば、則ち思慮自ら(こまや)かにして、恰も好く事を(すま)す。
此れと相似たり。
 

岫雲斎
薬では甘味が苦味(にがみ)の中から出てくるものに効能多い。同様に、人も艱難辛苦を経験すると考えが自然に細かなことに行き届き物事がよく成功する。これと良く似ている。

16日 205.
艱難の教訓 
その二
艱難は能く人の心を堅うす。故に共に艱難を経し者は、交を結ぶも亦密にして、(つい)に相忘るる能わず。
糟糠(そうこう)の妻は堂を下さず」とは、亦此の類なり。
 

岫雲斎
辛く苦しい経験をした人間は心が堅固である。だから艱難を経験した者は交際を結んだら緊密で、いつまでも互いに忘れられないようになる。「酒の(かす)や、米の(ぬか)をなめて共に苦労した妻は、成功しても引っ込めないで大切にする」とはこの類の話である。 

17日 206.
人との接触、仕事の巧みな人

人に接すること衆多なる者は、生知、熟知を一視し、事を処する練熟なる者は、難事易事(いじ)(こん)(かん)す。 

岫雲斎
多くの人間に接触する人は、少ししか知らない人も、良く知っててる人も全く同じように視てゆくものである。事務に手馴れ熟知している人は難しい事も易して事も同じように見て処理してゆくものである。

18日

207.
老僧や老農の話は真面目に聞け

修禅の老弥(ろうみ)(ぼく)(じつ)の老農は、()往々にして人を起す。但だ(かれ)をして言わしめて、而して我れ之を聴けば可なり。
必ずしも詰問(きつもん)せじ。
 

岫雲斎
禅を修めた老僧とか真面目な老農の話は往々にして人を感動させる。

我々儒者は、ただ彼らの話を聞くだけでよい。
立入って質問などすべきではない。

19日 208.
儒者は武人や禅僧に学べ
武人は多く是れ(きょう)()明快にして、文儒(かえ)って闇弱(あんじゃく)なり。禅僧或は自得有りて、儒者自得無し。
並に()ず可し。
 

岫雲斎
武芸者は多くの人が胸中さっぱりしていた気持ちよい。処が学問修養をしている儒者達は却って愚かで臆病である。禅僧達は自ら悟り得た所があるが儒者にはそれが無い。これらを考えると儒者たちは洵に愧ずべきものである。

20日 209.
他人を騙さない人は騙されない
人を欺かざる者は、人も亦敢て欺かず。
人を欺く者は、(かえ)って人の欺く所と()る。
 

岫雲斎 
他人を騙さない人は他人も騙さない。他人を騙す人は却って他人に騙されるものだ。

21日 210.
真と偽はいつわれない
真偽は()う可からず。虚実は欺く可からず。邪正(だま)す可からず。 

岫雲斎
真を偽とし、偽を真とすることは出来ない。嘘と真実は欺けない。邪と正ときごまかせない。

22日 211.
自分を欺かない人は他人も欺けない
自ら欺かざる者は人を欺く能わず。自ら欺かざるは誠なり。
欺く能わざるは(かん)無ければなり。(たと)えば生気(せいき)毛孔(こうもう)より出ずるが如し。
 

岫雲斎
自分を欺かない人は他人も欺くことはできぬ。自分を欺かないということは心が誠であるからだ。他人が欺くことが出来ないというのは、欺く隙間がないからだ。例えば生々とした気が毛穴より出るようなもので、その気が盛んであれば外からの邪気が侵入することが出来ないようなものだ。

23日

212.
世を渡る法

「言を察して色を()(おもんばか)りて以て人に下る」、
世を渡るの法、此の二句に出でず。
 

岫雲斎
孔子は「達人は相手の言葉の意味を深く洞察すると共に、顔色を通して其の心を知り、思慮深く用意周到でありながら(へりくだ)るものである」と云われた。この二句以上の渡世の法はない。

24日 213.
恕と譲

(えん)に遠ざかるの道は、一箇の(じょ)の字にして、争を()むるの道は、一箇の譲の字なり。 

岫雲斎
人から怨まれないようにする道は、恕の一字即ち思いやりである。争いをやめる道は譲りの一字、則ちへり下って相手に譲ることである。

25日 214.
赤子の泣き笑いと老人の一話一言
赤子(せきし)一啼(いちてい)(いち)(しょう)は、皆天籟(てんらい)なり。老人の一話一言は、皆活史(かつし)なり。 

岫雲斎
赤子の泣き声笑い声は何の偽りもなく天然自然の声である。老人の話とか言葉は皆その経験を語る生きた歴史である。

26日 215.
得意の時と失意の時
人、得意の時は(すなわ)ち言語(おお)く、逆意の時は即ち声色(せいしょく)を動かす。皆養の足らざるを見る。 

岫雲斎
人間というものは、得意の時は言葉数が多く、失意の時は音声、顔色を動揺させて落ち着きがないものだ。これはみな修養の足りないことを現しているのだ。

27日

216
存養の有無は

(そん)(よう)の足ると足らざるとは、宜しく急遽なる時に於て自ら験すべし。  

岫雲斎
精神修養が足りているか否かは、差し迫った事件が発生した時に自分自身で判断してみるがよい。

28日 217.
求道の要領
道を求むるには懇切なるを要し、(はく)(せつ)なるを要せず。
懇切なれば深造(しんぞう)し、迫切なれば助長(じょちょう)す。
深造なれば是れ誠にして、助長なれば是れ偽なり。
 

岫雲斎
道を求めるには懸命でなくてはならぬが、急ぎ焦ることは良くない。懸命であれば、道の深奥にまで至り窮めることが可能だが、急ぎ焦ることは無理をすることとなる。道の深奥を窮めることは誠の道であり無理は偽りの道である。

29日 218
学は心事合一を要す
学は須らく心事の合一を要すべし。吾れ一好事を()し、自ら以て好しと為し、(よっ)て人の其の好きを知るを(もと)む。
是れ即ち(きょう)(しん)の除かざるにて、便(すなわ)ち是れ心事の合一せざるなり。
 

岫雲斎
学問をする上では人の心と行為が一致するものでなくてはならぬ。自分が一つの良い事をして、それを是認しそれにより他人にその良さを認めるように求めるとすれば、それは人に矜る心が取り除かれていないことであり、これこそ心と行いの不一致である。

30日 219
志は師に譲らず
人事百般、()べて(そん)(じょう)なるを要す。但だ志は則ち師に譲らずして可なり。
又古人に譲らずして可なり。
 

岫雲斎
世間の色々な事柄に関しては、人にへりくだり譲ることが肝要である。然し、志だけは師に譲らなくてもよい。古人に譲らなくてもいい。

31日 220.
学問に卒業はない
人は此の学に於て、片時(へんじ)も忘る可からず。昼夜一串せよ。老少一串せよ。缶を()して歌うも亦是れ学、(かい)(むこ)うて宴息(えんそく)するも亦是れ学なり。 

岫雲斎
人はこの道徳を修めて聖人を目指す為に学ぶからには、その目的を片時も忘れてはならない。昼も夜も一貫しなくてはならない。若い時から老人となるまで一貫しなくてはならぬ。缶を鳴らして歌い楽しむことも学問である。夜になり安息するのも学問なのである。