佐藤一斎「(げん)志後録(しこうろく)」その十三 岫雲斎補注  

平成24年5月1日から5月31日 

1日 81.    

道心は性、

人心は情

昔人(せきじん)謂う、「道の大端(だいたん)は、道心、人心に在りて、其の節目(せつもく)は、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友、五者の倫に在り」と。
余は謂えらく、道心は性なり。
人心は情なり。精一にして中を執るは、情を性に約するなり。
本体に工夫存せり。

其の功を()くる処は、則ち五倫の(こう)()りて、親、義、別、序、信の(おしえ)有り。則ち感応自然の条理にして、性を情に見るなり。
工夫に本体存せり。後の道学を講ずる者、往々にして(きょ)(げん)に馳せ、高妙に過ぎ、悠渺空曠(ゆうびょうくうこう)にして、性を言語道断(みちた)え、(しん)行路(こうろ)絶ゆるの際に
もとむ。
(あに)果して人倫ならんや。或は功利と為り、或は()(しょう)と為るは、則ち人倫に於て亦(ますます)遠し。

岫雲斎
道徳の元は道心と人心にあると古人は言う。私はそれを、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五つの人倫に分類する。道心は人間の本性、人心は人情、心を一つにして中庸を守れば本性に従って情を制約できるが、ここは最も工夫しなければならない。工夫次第で最もよくなるのが五倫の道である。父子には親、君臣には義、夫婦には別、長幼には序、朋友には信がその教えの核心である。このことは、人情と本性の自然に感応するものが分かり、本性が人情に現れて見える所である。正にここが工夫所であり本体の存在が確認できる。後世の学者たちは、ややもすると空虚な幽玄に走り、高尚微妙に過ぎて道理や実際から離れ、本性たる言語では何も言えず、思慮分別もなく、心にも考えられない、身に行うこともできない遠い所のものを求めている。これが果して人倫であろうか。道徳を講ずるものが、自己の名誉や利益の為とか、文字文章で表現することを旨とするようでは、人の常道から遠く離れてしまうのである。

2日 82.          

習気(雑念)を除け
性の動くを情と為す。畢竟断滅すべからず。唯だ発して節に(あた)れば、則ち性の作用を為すのみ。然るに自性を錮閉(こへい)する者を習気と為す。而して情の発するや、毎に習気を(はさ)みて、黏着(ねんちゃく)する所有り。是れ錮閉なり。故に習気は除かざる可からず。工夫()(かつ)は一念発動の上に在り。(すな)()ち自性を反観し、未発の時の景象を?(もと)め、以て之を挽回すれば、則ち情の感ずる所、(もつぱ)ら性を以て動き、節に中らざる無きなり。然れども工夫甚だ難く、習気に圧倒せられざる者少なし。故に常々之を未だ感ぜざるの時に戒慎(かいしん)し、猶失う所有れば、則ち又必ず之を(わずか)に感ずるの際に挽回す。工夫は此の外に無きのみ。 

岫雲斎
本性により動くのが情、これを断ち切ることは不可能。ただ情が発動して適性であれば本性が作用する。だが、この本性の作用を抑えてしまうのが習気即ち雑念、クセである。情が発する度にこのクセに邪魔されて粘着してしまう。即ち本性が封鎖されるのだから、この習気を除去しなくてはならぬ。この工夫の大切な機会は、一念の発動時である。自分の本性をよく反省し観察して、まだ情の発動しない時に、本性の原点に返ることが出来たら、則ち情が本性に従って動くようになればクセの(ふし)に当たらないのである。だが、この工夫は中々困難、常に習気により圧倒されない人は少ない。だから、平生の工夫で、まだこれを感じない時に自戒し、それでも本性を失うようであれば、僅かに動き出した時に、元に戻れるように心かげることだ。これ以外に工夫の方法はないのである。

3日 83

読書と静座
学者にて書を読むを(たしな)まざる者有れば、之を督して精を励まし書を読ましめ、大に書を読むに耽る者有れば、之に教えて静坐して自省せしむ。是れ則ち病に対して之れを補瀉(ほしゃ)するのみ。 

岫雲斎
学問をする者で読書をしない者がおれば、これを督励し読書させる。また読書に耽りすぎている者がおれば、静座と自省を指導する。これは病気に対して補血したり下剤を与えたりするようなものである。

4日 84.

学と問

学は()れを古訓に(かんが)え、問は諸れを師友に質すことは、人皆之を知る。
学は必ず諸れを()に学び、問は必ず諸れを心に問うものは、其れ幾人有るか。
 

岫雲斎
学問の学は、古人の(おしえ)を参考にすること、問は、師とか友に質すことであるとは人々は知っている。だが学は必ず自分が実践し、問は我が心に自問自答し反省するものであるが果して何人がそれを実践しているであろうか。

5日

85.

(ごん)
は君子の(しょう)

(ごん)篤実(とくじつ)輝光(きこう)と為す。君子の象なり。物の(じつ)有る者は、遠くして益々輝き、近ければ則ち之に()れて、美なるを覚えざるなり。月に面して月を()るは、月に(そむ)いて月を観るに()かず。花に近づいて花を看るは、花に遠ざかりて花を()るに如かず。 

岫雲斎
(ごん)は易の卦である。篤実輝光の意味でいうなれば君子の相である。内容が充実しておれば、全て、遠く離れていても益々輝く。近くでは、これに狎れて美を感じない。それは丁度、月に向って月を見るのは、月を背にして月を観るのにかなわないし、花に接近して花を観るのは、遠ざかって花を見るのにかなわないようなものである。

6日 86.順境と逆境

順境は春の如し。出遊(しゅつゆう)して花を観る。逆境は冬の如し。堅く臥して雪を看る。春は()と楽しむ可し。冬も亦悪しからず。 

岫雲斎
順境は恰も麗かな春の日に外出して花を観るようなものだ。逆境は意のままにならぬのだから、寒い冬のようなもので、閉じこもって雪を眺めているようなものである。春は楽しむが宜しい、然し冬も悪くない。

7日 87.仮己と真己

()()を去って真己(しんこ)を成し、(きゃく)()()うて主我を存す。(これ)を其の身に(とら)われずという。 

岫雲斎
仮りの自己を捨て去り、本物の自己を成立させ、また外から来たお客の自己を追い出す。そして真の主人公たる真我を確立するようにする。これが我見、我執に囚われないということである。

8日

88.
敬と勇気

敬は勇気を生ず

岫雲斎
孟子の「勇は義により生ず」の如く、敬に徹すれば勇気が湧いてくるものだ。

9日 89.
謙と敬
謙は徳の(へい)なり。敬は徳の輿()なり。以て師を()(ゆう)(こく)を征すべし。 

岫雲斎
謙譲は徳の()である。恭敬は道徳の乗物である。この謙虚という柄、即ちハンドルを取り、敬という車に乗って軍隊を率いて行くならば、相手の国を征伐できる。謙と敬を以てすれば修身できる。

10日 90.
静と動

静を釈して不動と為すは、訓詁(くんこ)なり。静何ぞ曾て動かざらむ。動を釈して不静(ふせい)と為すは、訓詁なり。動何ぞ曾て静ならざらむ。 

岫雲斎
静の解釈を不動とするのは、文字に拘泥したもので、静は決して動かぬという事ではない。同様に、動を静かならずと解釈するのも文字に拘泥した解釈で、静は決して動かぬという意味ではない。静中の動、また動中に静ありか。

11日

91

.(しん)
(しん)の効用

(しん)(しん)なり。心の(はり)なり。非幾纔(ひきわずか)に動けば、即便(すなわ)ち之を(しん)すれば可なり。増長するに至りては、則ち効を得ること或は少し。()()(しん)を好む。気体(きたい)(やや)(せい)(かい)ならざるに()えば、(すなわ)ち早く心下(しんか)を刺すこと十数(しん)なれば、則ち(やまい)未だ成らずして(かい)す。(よつ)て此の理を悟る。 

岫雲斎
聖賢の箴言は心に刺す針である。悪念が僅かでも動いたら直ちにその箴言を心に刺すがよい。悪念が増長してしまつてからはその効果は薄い。自分は鍼を刺すのが好きで気分が勝れないと直ぐ胸下に十数本の鍼を打つ。さすれば病が起きない間に治癒する。この体験から先述の理を悟ったのである。 

12日 92.

気付かない恩沢(おんたく)

人は嬰孩(えいかい)より老耋(ろうてつ)に至るまで、恒に徳を(いん)(あん)(うち)に受けて、而も自ら知らず。是れ何物ぞや。()(じょく)枕席(ちんせき)是れなり。一先輩有り。甚だ被褥を敬し、必ず手に之を展収して、之を(そう)(かく)()せざりき。其の心を用うる亦(ここ)に厚し。 

岫雲斎
人間は誰でも幼児から老年に至るまで、暗々裡に恩陰を受けているが気がつかないでいる。それは夜具、蒲団、枕である。ある先輩は夜具蒲団を大変大切にして必ず自分で手ずから敷いたり片付けて決して下男や下女に任せない。心の用い方は誠に厚いものがある。

13日 93         
寝食を慎むは孝
能く寝食を慎しむは孝なり。

岫雲斎
毎日必要な寝食を慎むことは、健康に結びつくものであり孝行なのである。

14日

94.
天と地と人を以て得るもの

天を以て()る者は固く、人を以て得る者は(もろ)し。

岫雲斎大自然の法則により得てものは確かであるが、人為的に得たものは崩れやすい。 

15日 95

.赤子(せきし)
は好悪を知る

赤子は先ず好悪(こうお)を知る。(こう)(あい)(へん)に属す。仁なり。悪は(しゅう)(へん)に属す。義なり。心の霊光は自然に是くの如し。 

岫雲斎
赤ちゃんでも物の好き嫌いを知っている。好きということは愛に属する。これは仁、即ちなさけである。嫌いということは恥に属し、義であり正しい道である。このように人間の心の霊妙なものは自然に発生するのである。

16日 96.
君子と小人

君子は自ら(けん)し、小人は則ち自ら欺く。君子は自ら(つと)め、小人は則ち自ら棄つ。上達と下達(かたつ)とは一つの自字(じじ)に落在す。 

岫雲斎
君子と言われる人間は、自己に満足することはない。小人は自分を欺いて自己の言動に満足している。君子は常に足らぬとして努めてやまないが小人は自分を簡単に捨て去って自棄に陥る。上達して聖賢へ近づくか堕落してしまうかは、(けん)と欺、彊と棄の一字違いなのである。

17日 97.
怒りや欲を押えるは養生の道

忿熾(いかりさかん)なれば則ち気(あら)く、欲多ければ則ち気(もう)す。忿(いかり)(こら)し欲を(ふさ)ぐは、養生に於ても亦() 

岫雲斎
怒りが盛んであれば、気が荒々しくなる。欲望が盛んであれば気は消耗する。だから、怒りや欲望を抑えることは心身の修養であり身体の養生ともなる。 

18日 98.
心の安否を問え

人は皆身の安否を問うことを知れども、而も心の安否を問うことを知らず。宜しく自ら問うべし。「能く闇室(あんしつ)を欺かざるか否か。能く(きん)(えい)()じざるか否か。能く安穏快楽を得るか否か」と。時々是くの如くすれば心便(すなわ)ち放れず。 

岫雲斎
人は身体の安らかなことを問うばかりだが、心が安らかかどうか問うことを知らぬ。こうして自分の心に問うて見るがよい。「暗室の中でも良心を欺くようなことをしていないか。独りの時、自分の影に恥じることはないか。独り寝る時、夜具に恥じることなく自分の心が安らかで穏やかかどうか」と。時折このように反省すれば決して心は放縦にはならない。

19日 99
増さず減らさず

古往(こおう)今来(こんらい)生々(せいせい)()まず。精気は物を為すも、天地未だ()って一物(いちぶつ)をも増さず。(ゆう)(こん)は変を為すも、天地未だ嘗って一気をも減ぜず。 

岫雲斎
古来から今日まで天地は生々として休むことはなく、精気は物を産む、だが天地の間に未だ何ら一物(いちぶつ)をも増えるという事はない。

20日 100.     
誠と敬三則 

その二
(その一は60)

為す無くして為す有り。之を誠と謂い、為す有りて為す無き、之を敬と謂う。 

岫雲斎
殊更になそうと思わないで、自然に為しているのが誠である。為した仕事が恰も為したことにならないようなのが敬である。

21日 101.      
誠と敬三則
その三
聖人は事を幾先(きせん)に見る。事の未だ発せざるよりして言えば、之を先天(せんてん)と謂い、幾の已に動くよりして言えば、之を後天(こうてん)と謂う。中和も一なり。(せい)(けい)も一なり。 

岫雲斎
聖人は、事の起こらない間に先を見て事を処理し機先を制する。事の発しない間に処理するのは先天の本質である誠である。機が動きだしてから処理するのは後天の工夫であり敬である。「中」は先天であり「和」は後天である。これらは聖人の徳の現出であるから中も和も一つのものであり、誠も敬も一つのものである。

22日 102.    
活道と活学

道は()とより活き、学も亦活く。儒者の(けい)(かい)に於けるは、(てい)(ろう)縄縛(じょうばく)して、道と学とを併せて(ほと)んとど死せしむ。(すべか)らく其の釘を抜き、其の(ばく)を解き、()(かい)するを得しむべくして可なり。 

岫雲斎
道は生きている、だから学問も生きたものである。だが儒者が経書を説くと、その生きものを釘付けにしたり、縄で縛るようにして身動きのできないようにしてしまう。道も学問も殺してしまうようなことにしている。早くその釘を抜いて蘇生させなくてはならぬ。

23日 103.     
中和ならば人我一体

心に中和を得れば、則ち人情皆(したが)い、心に中和失えば、則ち人情皆(そむ)く。感応(かんおう)の機は我に在り。故に人我(にんが)一体(いったい)情理(じょうり)通透(つうとお)して、以て(まつりごと)に従う()し。 

岫雲斎
平静な心で、偏することなければ人々の気持ちはみな順応して行くけれども、心が中和を失えば人情は背いてしまうものだ。人々の心が感応するキッカケは自分に在る。他人も自分も一体と考えて、人情にも理屈にも通じる人間であって始めて政事に関与してよいのである。

24日 104.         
道心とは

人は(まさ)に自ら我が()に主宰有るを認むべし。主宰は何物たるか。物は何れの処にか在る。(ちゅう)を主として、一を守り、能く流行し、能く変化し、宇宙を以て体と為し、鬼神を以て(あと)と為し、(れい)(れい)明明(めいめい)至微(しび)にして顕わるるもの、呼びて道心と()す。 

岫雲斎
人は自分の身体に自己を主宰するものがあることを認める必要がある。その主宰者とは何者であるか。どこにあるのか。そのものは、中正の道を主として第一に守り、あまねくゆきわたり、変化し、宇宙を本体となし鬼神のような働きをし、霊妙かつ明々たるものであり、至って微細であり而も顕著なものである。人はこれを道心と呼ぶのである。

25日 105.         
人心とは
人は当に自ら我に()有ることを認むべし。躯は何物たるか。耳は天性の聡有り。目は天性の明有り。鼻口は天性の臭味(しゅうみ)有り。手足(しゅそく)は天性の運動有り。此の物や、各々一に(もつぱら)にして、而も(みずか)ら主たる能わざれば、則ち其の物と感応して、物の外より至るや、或は耳目を塗し、鼻口を(こう)し、其の牽引する所と為りて、以て其の天性を(よう)する有り。故に人の善を為すは、(もと)より是れ自然の天性にして、悪を為すも亦是れ(よう)()の天性なり。其の体躯(たいく)に渉り、是くの如く危きを以て、呼びて人心と()す。 

岫雲斎
人間は自分には身体があると認識せざるを得ない。身体とは何物であろうか。耳は音を聴く聡明さ、目には物を見る明、鼻や口は臭い、味を知る、手足には運動の作用がある。これらの器官は一部門の専任であり全体を司るものではない。だから、外物に感応し外物により耳目が潰されたり鼻孔が膠で貼り付けられたりしてしまい自然自由の働きが歪められてしまう。だから、人が善をなすのは自然の本性によるが、悪をなすのも外物に曲げられるという天性の作用によるものである。このように人間本性の他の一面としての作用は、身体各部門に渉っており外物の影響を受ける危険があるので、これを我欲、即ち人心というのである。

26日 106.         

心は二つあるに非ず
心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之れを道心と謂う。性の本体なり。其の体躯に渉るよりすれば、則ち之れを人心と謂う。情の発するなり。故に道心能く体躯を主宰すれば、則ち(けい)(しょく)其の天性の本然(ほんぜん)を失わず。唯だ聖人能く精一の功を用いて、以て其の形を()むのみ。然れども此の功を知覚するも、亦即ち道心の霊光にして、二つに非ざるなり。 

岫雲斎
心は二つあるわけではない。心の本体は道心、本性の姿の謂いである。身体に関係する観点から言えば、人心であり、これは人間の情の発露である。だから道心がよく身体を支配し得ているならば、形体や顔色は天性本然の活を失っていない。だがこれは至難なことで、聖人のみがよく道心による身体支配が出来るのである。聖人は身体の器官の夫々の性能を損わずに正しく発揮させ得るのである。だが、この純粋な心の作用を知覚するのも道心の不可思議な働きによるものであり、道心と人心が二つあると云うものではない。

27日 107.  
常に目前の事を為せ
人の事を()すは、目前に粗脱多く、徒らに来日(らいじつ)の事を思量す。譬えば行旅の人の齷齪(あくせく)として前程(ぜんてい)を思量するが如し。(はなは)だ不可なり。人は須らく先ず当下(とうか)を料理すべし。居処(きょしょ)(うやうや)しく、事を執るに敬、言は忠信、行は(とく)(けい)なるより、()ぬるに()せず、居るに(かたち)づくらず、一寝一食、造次顛沛(ぞうじてんぱい)に至るが如きも、亦皆当下の事なり。其の当下を料理し、恰好を得る処、即ち過去将来を併せて、亦自ら格好を得んのみ。 

岫雲斎
人間と云うものは、目前の事に手抜かりが多い癖に、徒に将来の事に思いを巡らすものだ。旅行者があくせくと行き先を考えるようにである。これは決して宜しいことではない。人間は先ず目の前の為すべき事をなさねばならぬ。仕事しておらない時に荘重な顔をしており、仕事をする時は慎んで過ちの無いように心掛けたり、言動も誠実、寝る時は死人のような寝方をしない、何も無い時には容貌を飾らないで、寝る時、食事の折、少しの間も「仁」を忘れないなどは皆、目前になすべき事柄である。時々の問題を処理して先ず先ずよく行くと、過去から未来までを通観して自然に巧く物事が見通せて処理が可能なのである。

28日 108.         

老人の心得

老人は、衆の観望して矜式(きょうしよく)する所なり。其の言動は当に益端(ますますたん)なるべく、志気は当に(ますます)(そう)なるべし。尤も宜しく衆を容れ才を(いく)するを以て志と為すべし。今の老者、或は(みだり)に年老を唱え、頽棄(たいき)に甘んずる者有り。或は猶お少年の技倆(ぎりょう)を為す者有り。皆非なり。 

岫雲斎
老人に関しては佐藤一斎先生の時代とは隔世の感あるが・・。「老人は大勢の人々が仰ぎ見て尊敬するものである。だからその言動は益々、端正でなくてはならぬ。その志気は益々壮んでなくてはならぬ。そして多くの人々を包容し、才能ある者を育てるということを本志とする事を望みたい。だが、今の老人は、むやみに、年を取ったと云って、自分を廃棄物として甘んずる者あり、或は少年のような腕前しか示さないものもいる。どちらも宜しくない。

29日 109.
百年、再生の我なし
百年、再生の我無し。其れ(こう)()すべけんや。 

岫雲斎
百年たったらまた自分が生まれて来るというのではない。だから、一日、一日、空しく過してよいわけはない。

30日 110.修養の工夫 「羊を()きて(くい)亡ぶ。」操存(そうそん)の工夫当に此くの如くすべし。 

岫雲斎
羊を進ませるのに前から()けば、後ろに戻って中々前へ進まない。後ろから追いかけるとよく前へ進み悔いがない。志を持ち、心を入れて修養するのもこの羊を曳く要領が必要である。即ち衆の後に従うとも前に進み得るならば後悔はない。

31日 111.

()
(かい)
(かん)(かい)にして俗情にさからわざるは和なり。立脚して、俗情に()ちざるは(かい)なり。 

岫雲斎
懐を深くして俗社会に逆らわないのが和である。自己の立場を正しく守り俗情に墜ちないのが介である。どちらも時には必要なのである。