人つくり本義」その9 安岡正篤 講述 「人つくり本義」索引
人づくり入門 小学の読み直し
三樹 一年の計は穀を樹うるに如くはなし。
平成23年5月度
1日 |
疏広、太子の大傳たり。上疏して骸骨を乞う。黄金二十斤を加賜し、太子五十斤を贈る。郷里に帰り、日に家をして供具し、酒食を設けしめ、旅人・故旧・賓客を請うて相与に娯楽す。数々其の家に金の余り尚幾斤有りやを問ひ、趣し売って以て供具す。居ること歳余、広が子孫、竊かに其の昆弟老人の広が信愛する所の者に謂うて曰く、子孫・君の時に及んで頗る産業の基址を立てんことを冀ふ。 |
2日 |
今日飲食の費且に尽きんとす。宜しく丈人・君に勧説する所に従って田宅を置くべしと。老人即ち間暇の時を以て広が為に此の計を言う。広曰く、吾・豈に老悖して子孫を念はざらんや。顧ふに、自ら旧田廬有り。子孫をして其の中に勤力せしむれば、以て衣食を共するに足ること凡人と斉し。 今復た之を増益して以て贏余を為さば、但だ子孫に怠惰を教ふるのみ。 |
3日 |
賢にして財多ければ則ち其の過を益す。且つ夫れ富は衆の怨なり。吾既に以て子孫を教化する無きも、其の過を益して、而て怨を生ぜしむるを欲せず。又過を益して、而て怨を生ぜしむるを欲せず。又此の金は聖主が老臣を恵養する所以なり。故に楽しんで郷党・宗族と共に其の賜を享け、以て吾が余日を尽す、亦可ならずや、と。 |
4日 |
前漢書の列伝にあります。「骸骨を乞う」とは公職にある間は身を犠牲にして働くために、骸骨のように痩せ細る。従って、辞職の意味に用いる。大賛成で誠に嬉しい一文であります。愚人が沢山金を持つと必ず失敗する。賢者も同じことで、どうしても志を損じ、理想精神を失い勝ちであります。 |
5日 |
柳へん(嘗って書を著し、其の子弟を戒めて曰く、名を壊り己に災し、先を辱め、家を喪ふ。其の失尤も大なる者五つ。宜しく深く之を誌すべし。 |
6日 |
其の第一、自ら安逸を求めて澹泊に甘んずること靡く、己に苟利あらば、人の言を恤へず。 |
7日 |
其の二、儒術を知らず、古道を悦ばず、前経にくらくして而もは恥ぢず。当世を論じて而て頤を解き、身既に知寡くして、人の学有るを悪む。 |
8日 |
其の三、己に勝る者は之を厭ひ、己に佞ふ者は之を悦び、唯だ戯談を楽みて、古道を思ふこと莫く、人の善を聞いて之を妬み、人の悪を聞いて之を掲げ、頗僻に侵漬し、徳義を鎖刻す。簪裾徒に在り。厮養と何ぞ殊ならん。 |
9日 |
其れ四、優游を崇び好み、?蘖を耽り嗜み、杯を噛むを以て高致となし、事を勤むるを以て俗流と為す。之を習へば荒み易く、覚れども巳に悔い難し。 |
10日 |
其の五、名宦に急にして、権要に匿れ近づく。一資半級或は之を得と雖も、衆怒り群猜み、存する者有ること鮮し。余・名門右族を見るに、祖先の忠孝。・勤倹に由って以て之を成立せざるなく、子孫の頑率豪傲に由って以て之を覆墜せざる莫し。 |
11日 |
成立の難きは天に升るが如く、覆墜の易きは毛を燎くが如し。之を言へば心を痛ましむ。爾宜しく骨に刻むべし。 |
12日 |
頗僻はかたよること。一資半級はおこぼれ。頑率はかたくなで軽率なこと。成立は家を興すこと。家を興すことの難しさは天に上るが如く、これを墜させるのは容易なことは毛をやくが如きものである。実際その通りであります。 |
13日 |
苑文正公参知政事たる時、諸子に告げて曰く、貧しき時、汝が母とともに吾が親を養ふ。汝が母躬ら爨を執る。而て吾が親甘旨未だ嘗って充たざるなり。今にして厚禄を得たれば、以て親を養はんと欲すれども親は在さず。汝が母も亦巳に蚤世す。 |
14日 |
吾が最も恨む所の者なり。若が曹をして富貴の楽を享けしむるに忍びんや。吾が呉中の宗族甚だ衆し。吾に於ては固より親疎有り。然れども吾が祖宗より之を看れば、則ち均しく是れ子孫にして、固より饉寒の者是れ安ぞ恤まざるを得んや。祖宗より来徳を積むこと百余年にして、而て始めて吾に発して大官に至るを得たり。 |
15日 |
若し独り富貴を享けて而て宗族を恤まずんば、異日何を以てか祖宗に地下に見えんる。今何の顔あってか家廟に入らんやと。是に於て恩例・俸賜・常に族人に均しうし、並びに義田宅を置くと云う。 |
16日 |
苑文正公が大臣をしておった時、子供たちに告げて言うには私がまだ駆け出しの貧乏時代には、お前たちのお母さんと力を協せて親を養っておった。当時お前達のお母さんは自身で炊事しておったし、親は、お前達の祖父母はかってご馳走を腹一杯食べたことはなかったのである。今出世して厚禄を得るようになったけれども、最早その親はおらぬ。 |
17日 |
お前達のお母さんも早くこの世を去った。私のもつとも恨みに思うところである。それを思うとお前たちに富貴の楽しみを享受せしむるに忍びない。郷里の呉には、一族の者が大勢おる。勿論、自分には親しいものもあれば疎遠なものもおる。然し、わが祖先からこれを見れば、等しくみな同じ子孫であって、もとより親疎の別などあろう筈がない。 |
18日 |
いやしくも、先祖の心に親疎の別がないならば、一族の中の衣食に困っておるものをどうして私が憐れまずにおられようか。先祖からこの方徳を積むこと百余年にして、はじめて自分にその徳が現れて大官になることが出来た。若し、自分一人だけが富貴を受けて、一族を憐れまなければ、いつか死んだ時に、どうして先祖の人達に地下でお会いすることが出来ようか。どんな顔をして家廟に入ることが出来ようか。そこで、今までしばしば朝廷から賜ったものや俸禄を一族の人達に等しく分配して、併せて一門一族を救済する田を設けようと思うと。 |
19日 |
苑忠宣公、子弟を戒めて曰く、人至愚と雖も人を責むるは則ち明らかなり。聡明有りと雖も己を恕するは則ち昏し。爾が曹、但だ常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心にて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患へざるなり。 |
20日 |
苑忠宣公は文正公の子で、名を純仁と言う。大臣もやり、父を辱めぬ立派な人であった。その忠宣公が子弟を戒めて言うには、人間というものは自分がどれほど馬鹿でも、人を責めることはよく出来るものである。反対にどれほど頭がよくても、自分をゆるすということになると全く分からない。 |
21日 |
お前たちは常に人を責めるような心で自分を責め自分をゆるすような心で人をゆるせば、聖賢の地位に到達出来ないことを心配する必要はないんだと。 |
22日 |
こういうことが我々の精神・行動のルールなのであります。このルールを明らかにしなければ、どれだけ政治や経済を論じてみても、結局は枝葉末節で、根本的にはなんの解決にもならないのであります。 |
23日 |
やはり道徳教育・社会教育というものを確立して、根本を直さなければならないのであります。それには、どうしても小学をやらなければいけない。小学なくして人間革命も精神革命もないのであります。小学なくして大学なし。現代の悩みはその小学をなくしてしまったところにあるのであります。 |