平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」7

維新の(さん)(しゅう)(でい)(しゅう)(てっ)(しゅう)海舟(かいしゅう)

平成20年5月

5月 1日 民衆の不安 既にヨーロッパはその通りになっておるのでありますが、日本もこれに追いかけるように段々政治は不信に陥り、混乱が増大して、結局ファッショか、ポルシェビーキか、ヨーロッパで申しますと、ムッソリーニとかヒットラー、或はフランコと言ったことになりかねません。 この頃、ドイツでは大変なヒットラーばやりです。ヒットラーの伝記だのも彼の書いたものがドイツの出版界でずっとベストセラーを続けております。これは、取りも直さず民衆が因襲に堕しておる生活や政治に飽いて、その上非常な不安に陥っている証拠であります。現在、НHKのテレビで勝海舟をやっておりますが、これは現代の民衆心理の要請に応じた一つの現れであるとも申せます。
5月 2日 海舟(かいしゅう)

ご承知のように海舟は改革・革新を主張しましたが、彼は薩長土肥の藩士ではなくて幕臣であります。ここが大変意味のあるところです。西郷南州とか、坂本竜馬も人気がありますが、現実に即して申しますと、彼等のような人が今出ろといっても先ず出る目途はありません。 

従って最も現実的な問題は、既成の為政者、支配階級、政治勢力の中から革新的な人物が出ることであります。これは既にそのポストにあるのですから、本人の心掛けと腕次第でやれますが、これを幕末で言いますと、幕府そのものの中から偉大な識見。先見の明があり、且つ多分に政治性を持って行動に於いても非常に端倪すべからざるものがあるという人物は、やはり海舟であります。
5月 3日 (でい)(しゅう)

海舟はご承知のように、鉄舟・泥舟と共に維新の三舟と云われた、徳川氏最後の幕臣であります。この三舟の中で人物が一番清廉且つ高邁であったのは泥舟でありましょう。

然し、泥舟は幕府崩壊の犠牲となり、進んで慶喜に殉じた人であって、どちらかといえば隠君子というような人でありますが、槍をとっては当代第一と言われました。
5月 4日 (でい)(しゅう)

東海道を進撃してきた官軍の参謀である西郷隆盛の所へ山岡鉄舟を派遣して、江戸城無血開城の大芝居を打たせたのは、実は高橋泥舟なのであります。

この泥舟の最愛の弟子であり妹婿が山岡鉄舟で、鉄舟は泥舟を最も崇拝しておりました。
5月 5日 指南役は泥舟 だから、西郷の所へ行く時に、海舟のところへ行って打ち合わせて行けと泥舟から教えられて、鉄舟はその通り海舟と打ち合わせて出発しております。

世間では泥舟の事は言わず、全て海舟の画策に出たように言われておりますけれども、海舟はその相談には与かりましたが、指図をしたのは泥舟であります。 

5月 6日 泥舟隠遁 然し泥舟が隠遁してしまいますと、薩長にあきたらなかった東北諸藩は、大変憤激して抗戦論を主張しました。そして、東北諸藩の代表が江戸に詰めかけ て猛烈な論争をしておるのでありますが、結局幕府に愛想を尽かして彼等は新しい薩長勢力と決戦をやろうという様に意気込みになった、その代表が庄内藩であります。
5月 7日

泥舟の見識

庄内藩の代表である松平権十郎という人が、泥舟に目をつけ、泥舟を盟主に押し立てて、箱根を差し挟んで東海道を進撃して来る官軍と決戦しようと画策致しましたが、どうしても泥舟は承知しませんでした。

泥舟は矢張り大勢を達観しておりまして、そういうことをやっても駄目だ、それよりも国内が二分して悲劇的な混乱に陥り、外国勢力に乗ぜられるということを防がねばならぬ、出来るだけ徳川幕府を立派な終結に導かねばならぬということに徹しました。 

5月 8日 維新の主勲甲は泥舟 大変な見識であります。そうしていきり立つ旗本を身を以て食い止めたのであります。正に幕末・明治における殊勲甲というべき隠れた人であります。

この人を忘れた、落としたということは、明治新政府の失政の一つであります。 

5月 9日 海舟

海舟なども新政府では甚だ薄遇されたのでありますが、ああいう老獪で機略に富んだ人であり、その上ユーモアもありましたので、こういう有名な笑い話が残っております。

明治新政府になって、論功行賞を宮内庁が発表しました時に、薩長は侯爵だ、伯爵だといって分け取りしましたが、海舟は子爵に過ぎませんでした。
5月10日 子爵・四尺 それで通達が届いた時に海舟は歌一首を呈上して、
いままでは人並みの身と思いしに
五尺に足らぬ四尺なりけり
と詠みましたので、当局も成る程ということで子爵から伯爵にしたという逸話があります。これなどはいかにも海舟らしい話であります。
5月11日 (てっ)(しゅう)

泥舟になりますと、そんな人柄ではありませんので慶喜を奉じて静岡に隠遁してしまいました。その中で泥舟と海舟に使われて大変な苦労をして走り回ったのが鉄舟であります。

然し、西郷を始めとして矢張り目の利く人が維新政府にもおりまして、明治天皇の御輔導の任の一人に鉄舟を登用致しました。元来、感激居士でありますから、西郷等に諄々と説かれますと断り切れず、とうとう宮中にまつり込まれたわけであります。
5月12日 明治天皇と鉄舟 その代わり随分明治天皇をお鍛え申し上げたようであります。殊に明治天皇は大変相撲がご自慢で、みんなが負けるものですから、すっかり好い気持ちになっておられたのを、 苦々しく思った鉄舟が陛下を投げ飛ばしてご意見を申しあげた、という秘話が残ってります。さすがに、あの頃は中々人材がおりました。明治天皇はそういう意味で大変お幸せであったと言えます。
5月13日 大正天皇

その点、大正天皇は御病気であられました為に明治の伝統であります宮中に人材を入れて、学問・修業を皇族方にして頂くということがなくなりました。

これは非常に残念なことであります。この伝統が続けられておりましたら、昭和の歴史はもっと変わっておっただろうと思います。
5月14日 今や一大変革の時 兎に角世界の現実を見ましても日本の政治は今や一大革新の時に入っております。与党も野党も、共にけもの偏のになっております。凡そ日本の野党ぐらい振るわない野党はありません。ひとり共産党だけが活動しておりますけれども望ましいことは総理をはじめ各省大臣が()(へん)豹変(ひょうへん) 

してもらいたいと同様に、野党ももう少し立派になって欲しいと思います。
外国の口の悪い批評家がかって日本の議会を批評して「会して議せず、議して結せず、結して行わず」

と申しました。残念ですがその通りであります。然し、本年の干支はそれではいけないと厳しく教えているのであります。

5月15日 (きのと)()、いつぼう そこで来年は(きのと)()、いつぼう、であります。「乙」は甲で出した芽が曲りくねる姿を表す字であります。また「卯」は棚を開いた姿でありますから、ぐすぐずしております  と、革新勢力とか色々な勢力が政治に入り込んできます。
また卯は、草冠をつけると、茆−しげるという字になります。農耕もきびきびやらぬと雑草が茂ったままになります。つまり問題が紛糾するわけであります。
5月16日

現れよ時代の英傑

こういう時には、一大改革、革新の英傑が現れる。或はそういう政策を野党も敢然としてやるということになれば良いのですが、これは来年のことでありまして、本年は非常にはらはらさせられる重要な難局であります。 

これは国家の問題ばかりでなく、体制・文明の問題、その中に生活しておる我々の事業の問題、生活の問題でもありますので、他人事ではありません。自分の生活に於いても、我々はこの干支の教うるところを活用して善処しなければなりません。(昭和四十九年一月二十四日)

第六講 (こう)(いん)(きのえ・とら)半期の反省と展望 

5月17日 時務と事務 本年は正月に参って、お話をして以来、久しくご無沙汰をしましたが、その間に時局は益々複雑多難になってまいりました。そこで本日は、今年の上半期を通じて現れてきております諸問題の根本原理、根本要素というようなものについて幾つかの問題を取り上げて 無遠慮にお話を進めたいと存じます。それが所謂活学というものであります。
従って、古聖先賢の遺された色々の貴い文献が数限りなくございまして、皆さんにご紹介したいものもたまっておりますが、それは次の機会に改めてお話申しあげたいと思います。
5月18日 普遍的思想律

陰陽思想とほぼ時を同じうして、五行思想が発達普及し、これ亦、易学構成の中に収入れられて、爾来、陰陽五行は,中国・日本諸民族を通じ、最も普遍的な思想律となったということができる。

造化の気を考えるにあたって、古代人は存在の代表的な素材である、木・火・土・金・水、を撰んで、それらを有らしめ、働かせるエネルギー・気・即ち「五気」を考え、その作用を旨として「五行」と称し、これを深く推究していった。 
5月19日 (きのえ)

本年の(こう)(いん)(きのえ・とら)についても、その意味では大変興味がありまして、その二、三について思い出して頂きますと、

(きのえ)というのは、草木が長い冬に対する防衛態勢であった殻を破って新しい芽をふき出したという文字で、物事の沈滞、停滞を破って新しい活動を起こすという要請があります。
5月20日 (きのと)

これが寒気等いろいろな抵抗にあって、まっすぐに伸びないで紆余曲折(うよきょくせつ)するというのが来年の(きのと)であります。だから本年から来年にかけては一応旧来の型を打破しようとして、 

また打破して踏み出したものの厳しい抵抗にあってなかなか思い通りにゆかぬ、紆余曲折は免れない、即ち多事多難であるということが第一に見落とすことの出来ない意義であります。既に春以来の時事が之を立証もしております。
5月21日 長所が即ち短所の生命世界 元来、人間には慣性というものがあって、とかく物事ん狎れやすい。これは大変興味深い問題でありまして、物事には必ず善があれば悪がある、長所があれば短所があるという風に善悪長短が一つになっております。長所と短所が別であれば始末がよいのですが、生命の世界、創造の世界においては、これが一緒になっておりまして 長所が即ち短所であります。
そこで活学として、この短所をいかに長所とするか、これが非常に難しいことであります。然し、学問修養によって長所になりますと、これは単なる長所よりも遥かに味があって面白いものであります。面白いと申せば語弊があるかもしれませんが、そういうところに学問・修養の微妙な点が存在致します。
5月22日 (なれ)

健康についても、平素身体の弱い人が養生して健康になったり、これは生命力から申して非常に好いのですが、反対に健康を誇っていた人が不養生の結果、とんだ病気になったり死んだりするものであ

りまして、案外強いと思う身体が抵抗力に乏しいものもあります。兎に角、人間というものは、始めは正に甲の字の通り新鮮な気持ちで取り組むものですが、すぐ習慣的、惰性的になってしまいます。そこで、甲の字にけもの偏をつけて狎れる字ができておるわけであります。 
5月23日 (とら)

甲の年は改革・革新に着手するという年でありますが、なかなかそうはゆきませんで、旧来の習慣に狎れてしまって色々の弊害を生ずる。これが甲の一番大切な意味であります。

そこへ(とら)という字が組み合わさっておる。この字の一番大切なところは真ん中でありまして、下のハは人を表しております。つまり寅は、人間が差し向かいになって協同している姿を表現した字であります。 

5月24日 同寅(どういいん)

()(うし)の間は一本立ちの過程でよいのですが、(とら)になりますと、同じ仕事をする者同志が協力

して、お互いに慎んで助け合ってゆかなければなりません。そこで寅には(おそ)れる。慎むという意味と助け合う、手を組むという意味があります。
5月25日 (いん)(りょう)

そこから助け合って同じ仕事をする仲間のことを同寅(どういいん)といいまして、これは同僚という意味であります。(いん)(りょう)という言葉も助け

合うという意味がありまして、助け合うことにより進歩向上することができる。またそうなりますと、物事がよくわかってきますから、あきらか(○○○○)という意味もあるわけであります。
5月26日 文字学 このように説明できるのは、文字学の大変面白い点であります。こういう文字学を学校の先生が勉強して子供に教えれば、小学校六年の間に四書も五経も読めるようになりましょう。現に昔の人はそうでした。何も吉田松陰だとか、橋本佐内だとか、いう人が特別偉かったのではなく、教育が良かったからであります。だから、当時のような教育をすれば

我々の子弟でも相当なものになるのですいが、この頃はこういう勉強は少しもしなくなりました。
そこで漢字といえば難しいからと、文部省までが率先して仮名にする等とやったのでありますが、とんだ間違いであります。子供に教えてみると、仮名はなかなか覚えないが漢字の方をよく覚えるということも、この頃専門の教育家の中にも分かってまいったようであります。
 

ポリティカル・エコノミーからポリティカル・エコノミックスへ

5月27日 (いつ)(ぼう)の難境

さて、今年は干支の上から言って、慎まなければならない、助け合わねばならない、という難しい年であるということを念頭において、この正月以来の日本の内外の状況をみてこられた方々は、非常に考えさせられたことが沢山あったことと思います。

もう今年も既に六月中旬になっておりますから、本年の残り半分を日本国民はよほど慎みませんと、来年は容易ならざる(いつ)(ぼう)(きのと・う)を迎えます。この干支が又よくそれを表現しております。そして、どうにもならぬ難境に入ってゆくということが現実に考えられるわけであります。 
5月28日 生活即ち政治 それでは、これを打開してゆくのには、どうしたらよいかと申しますと、一つ一つの問題にとらえられて、ゆきあたりばったりの、その場稼ぎの手を打っておるというのでは混雑するのみであります。 今日の時局に一番大切なことは、よく考え、よく見通し、そしてよく決断してゆくということであります。特にこうなりますと、国民生活の全てに政治が介入して広い意味において生活即ち政治となってゆくわけであります。
5月29日 エコノミックス 皆さんは、どちらかと言うと経済人でありまして、経済というものを久しい間企業的に考えて、政治家、教育者、或は芸能人等に対して専ら、生産、交易と言った意味の言わば商工的生活者というように考えられてきたのでありますが、もう今までのような政治だ、経済だ、教育だ、芸能だ、というような分類した考え方では駄目になってきました。 私達が大学で学び経済学を学びました時の経済は political  economy ポリティカル・エコノミーという原語でありました。処が戦後なりますと、そういう分業が発展して、いつの間にか、ポリティカル・エコノミーかせポリティカルが抜けて、エコノミックスという言葉になりました事は、皆さんは専門家でありますから、既にご承知のことでありましょう。
5月30日 ポリティカル・エコノミー 処がそのエコノミックスがこうなってくると、政治から離れることが出来ず、政治と経済は又関連相対してきました。従ってこの頃は、一層強い意味でポリティカル・エコノミーになってきました。 そしてエコノミックスの中で最も大事なのはポリティカル・エコノミーだというようになって来たわけであります。大変な変化であります。従ってその変化に応じられないような頭では、時局の変化で立ち往生する、行き悩む、錯誤を生ずるということになって苦しまなければなりません。
5月31日

一面において、政治、経済が次第に、交渉関係、相関関係を緊密にするとともにも諸文化関係も含めてこれから先どうやってゆくかという経路、またその自覚、努力というものが非常に難しくなつてきました。

それが本年の下半期から来年にかけて益々厄介になって往きましょう。そうなりますと愈々現象にとらわれては駄目で、根本原理にたち返らねばなりません。そこで物事を考える原理・原則というものが改めて検討される必要が深刻になってきました。