吉備氏族の盛衰

平成25年5月

1日 吉備氏族の盛衰 応神天皇の時代には、吉備臣の祖、御友(みとも)(わけ)の妹の兄媛(えひめ)という妃の話があります。兄媛が吉備にいる両親を想い、都から西の方を望んでは泣きくれるので、哀れに思った応神天皇は淡路の御原の海人(あま)80人に舟をしつらえさせ、兄媛(えひめ)を吉備に送り返されます。然し兄媛のことを諦めきれない天皇は、吉備国へ遊びに行かれ、吉備の()(だの)(あし)守宮(もりみや)(岡山市下足守付近か)に滞留されたのです。そして、御友(みとも)(わけ)がそこで天皇を御もてなししたのですが、それを喜ばれた天皇は御友別一族に吉備国を分封し、以後、吉備一族が繁栄するようになったというのです。
2日 吉備の黒日売 さらに、次の仁徳天皇の時代、吉備の黒日売(くろひめ)という妃の話もあります。黒日売が大后石之(おおきさきいわの)日売(ひめの)(みこと)から睨まれて吉備に追い返されてしまい、仁徳天皇は遂に黒日売を得ることができなかったという物語です。
3日 瀬戸内の海上権 ここで注目すべきは、黒日売(くろひめ)が吉備の海部(うみべの)(あたい)(むすめ)とされていることです。即ち、吉備国には海部と言われる漁撈民・航海民がいて、それを掌握していたのか吉備海部直であり、その(むすめ)が難波に召されて仁徳天皇の妃となったというわけで、吉備海部直と仁徳朝とのつながりが文献に明示されているわけです。これは、吉備氏族が古くから瀬戸内の海上権を握っていたことの一つの根拠にもなります。
4日 有力勢力の吉備氏 こう見てくると、海上権を掌握した吉備氏族と、その吉備氏族を勢力下に組み込もうとした大和政権、という構図が見えます。吉備氏族は、大和政権から一目おかれ、それと協調して活発な活動をしていた有力な勢力だったといえます。然し、そうした吉備氏族の繁栄も、雄略天皇の時代に一変します。吉備氏族中の一つひとつの豪族が衰える話となり衰亡の物語が展開されるのです。
5日 正史から消える吉備氏 そして、衰亡の物語は、雄略天皇の崩御後、吉備氏族に擁立された星川皇子の反乱によってピリオドが打たれます。この反乱を契機に、吉備氏族の活躍は正史から消えてしまうのです。
6日 仁徳天皇以前と以後と吉備氏のことと さて、「古事記」「日本書紀」の伝承を全体としてみますと、よく言われるように全部が作られた物語で信憑性に乏しいというのではなく、信用できそうな部分と、そうでない部分とがあります。それは五世紀の初め頃を境として、仁徳天皇以前と以後とで一線を画することができると私は考えます。従って、仁徳天皇の後の履中天皇から以後の記述は時代が下るにつれて史的事実としての信憑性を増しているとみます。そうであれば、「記紀」に現れる吉備氏族の存在とその盛衰の物語は核心部分においては可なり正確な史実を伝えていると考えてよいでしょう。 
7日 注 

費・費直とも書く。古代の(かばね)の一。日本最古の金石文と言われる隅田(すだ)八幡宮の鏡銘に「費直」と表されており、六世紀前半よりあったことが知られる。
8日 天皇家と吉備氏族 意富夜麻玖邇阿礼比売
比古伊佐勢理毘古命(別名・大吉備津日子)----吉備上道臣の祖
孝霊天皇
若日子建吉備津日子命・・吉備下道の臣の祖・笠臣の祖
縄伊呂杼
針間之伊那毘能大郎女
 倭建命  
9日 吉備氏族の伝承が語る古代日本の政情

黒日売伝承の背景
文献に現れた吉備氏族の話の中で、史実的であると思われる最初の話は、黒日売のものです。これは「古事記」の「仁徳記」の中に、旧辞的な歌謡物語として出ています。仁徳天皇は有徳の天皇であった反面、非常に女性が好きな方で、次から次へと妃を妻訪いされて何とかしようとするのですが、いつも大后に邪魔されます。仁徳天皇の大后、石之日売は非常に嫉妬深い女性で、妃たちはみな追い出され、誰も天皇の側に寄り付かなくなるのです。然し、そうされても天皇はどうすることも出来ません。
10日 黒日売の話は、こうした一連の話の最初に出てくるもので、黒日売も石之日売大后の嫉妬にあってとうとう追い返されてしまうのです。私はこの話には勢力争いが織り込まれているとみます。
11日 婦人は妬忌せず 古代の天皇は殆ど一夫多妻です。一夫多妻といっても無秩序なものではなく、連帯婚とか逆縁婚というような、古代社会の慣習的な規律があり、それに従って一夫多妻なのです。連帯婚は、天皇がある女性を妃に欲しいと言われた場合、その女性には姉妹があると、姉妹全員を同時に娶らなくてはならないという制度です。その慣習法が適用されての一夫多妻ですから合法的だったわけです。そして、そういう社会ですから、妃が何人いようが、大后と妃の間に争いが起らないのが普通です。「魏志倭人伝」にも、「国の大人皆四五婦・・・婦人は妬忌(とき)せず」とあり、妻同士で嫉妬はしないのです。
12日 それなのに、石之日売大后の場合だけなぜ嫉妬したのか、これはおかしいのではないか。実際は嫉妬しなかったのではないかと疑われるのです。
13日 位継承権対策か 大和政権には色々な氏族から采女(うねめ)として、或は妃として女性を差し出させる慣習がありましたが、大后石之日売を出した葛城氏は、彼女らに天皇の子ができ、皇位継承権ができることを警戒したようです。そのため、他氏族から入ってくる采女や妃たちを圧迫し遂には天皇の側から追放してしまったと思われます。
14日 然し、そうした政略劇があるのですが、それが物語となると、石之(いしの)日売(ひめ)が嫉妬深いため、次から次へと妃を全部追い返すという構成にされたわけです。石之日売はあげくの果て、仁徳天皇と庶妹の八田若郎女との関係を察知し、怒って天皇を置き去りにして山代(やましろの)(くに)へ行ってしまわれます。大后は憤然として自分から離別されたのです。
15日 仁徳天皇は大后の怒りを和らげようと、自ら後を追いかけ、戻るように頼まれるのですが、門前払いをくわえられてすごすご難波に引き上げ、どうにも手の打ちようがない状態になります。ここでは、高山に上って民草の(かし)ぎ煙が立ち上らないのを見て三年間もの免税をされたという、かの有名な聖帝・仁徳天皇が完全に大后(たいこう)に頭の上がらない不甲斐ない天皇になっています。
16日 五世紀の葛城氏の勢力 こうしたて石之日売を巡る物語は、葛城氏の勢力が強く、相当に大和政権を牛耳(ぎゅうじ)って思い通りに政治を動かしていた、ということを証明しているといえましょう。実際、葛城氏は独裁体制は第五世紀の日本を支配していたと見られるのです。
17日 まとめますと、黒日売と大后・石之日売の物語は、葛城氏が大和政権下で外戚として政権を掌握しているところへ吉備の勢力が浸透してきて権力を握ろうとした、その動きに対し、葛城氏が吉備氏の勢力が大きく根を張らないうちに駆逐した、という史実を大后の嫉妬物語に仮託して説話化したものだ、と考えられます。 
注 采女
後宮女官の一。天皇に近侍し、主として食事のことに携わった。
 
吉備氏族衰退の背景
18日 皇位継承の画策 雄略朝及びその後に続く(せい)(ねい)(ちょう)初期になりますと、吉備氏族衰退の話になります。それは、まず吉備(きびの)下道(しもつみちの)臣前(おみまえ)津屋(つや)が雄略天皇をないがしろにしたと言うことで、物部(もののべ)氏によって征伐されることに始まります。
19日 星川皇子の反乱 そして次ぎには、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の話です。田狭が自分の妻・稚媛(わかひめ)を大変な美人であると吹聴し、これを雄略天皇が聞き知って、稚媛を田狭から取り上げて妃とし、皇子を生ませてしまうのです。その皇子が宿命の星川(稚宮)皇子です。田狭は反乱を起し天皇に征伐されてしまいます。さらに、雄略天皇が崩御になった後、稚媛(わかひめ)が自分の生んだ星川皇子を天皇に立てようとし星川皇子の反乱へと発展します。
20日 大和政権を掌握していた豪族たちと大和中心主義の立場からすけば、外者である吉備氏族の皇子が皇位につくのは容認できないことです。自分たちの権力が削られることが目に見えているからです。そこで、星川皇子が天皇になるのを阻止するため、実際上は、大和の豪族たちによる謀反が起こったと視られます。吉備側にすれば、自分たちの同族団の女性が生んだ皇子が皇位を継承ささせ、大和政権のもとで、外戚として勢力を占めようと策動するのは当然のことです。
21日 大和政権確定 然し、その動きに大和の豪族たちが反抗したのです。そして、「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる通りに大伴氏とか丹波系氏族などの大和とその周辺の大豪族たちの力が勝り、遂に星川皇子と母親の稚媛とを焼き殺し、星川皇子の反乱という形で事件を解決してしまったのです。
22日 吉備氏族衰亡

吉備国では、同族の上道臣が星川皇子を援助しようと水軍を率いて攻め上ったのですが、時すでに遅く、引き返します。そして、上道臣は星川皇子を援助した罪に問われ、吉備の山部を大和政権=天皇家に没収されてしまいます。こうして吉備氏族の中央での勢力は星川皇子の反乱を機に衰えていったのです。

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神話の国・出雲の現実 出雲神話の謎解き
「記紀」の神話と「出雲風土記」の神話

23日 出雲の神話

出雲の神話と言いますと、先ず「古事記」「日本書紀」の中から、素盞鳴(すさのおの)(みこと)や、大国主(おおくにぬしの)(みこと)、或は、少名彦那(すくなひこなの)(みこと)の神話を連想されることでしょう。それらの神々が展開する()(またの)大蛇(おろち)の話、八十(やそ)(がみ)因幡(いなば)(鳥取県東部)の白兎、黄泉(よみの)(くに)の話、国譲りの話などは、一種独特な神話の世界へ私たちを誘うものです。

24日 古代出雲を考察することは困難

然し、古代史を考える上では、それらの物語性や神話としての価値はともかく、その出雲神話が中央で作られた日本体系神話の中に取り入れられた神話に過ぎないことを注意しておかなくてはなりません。そこから直ちに古代出雲を考察することは困難なことと言わねばならないのです。

25日 出雲国風土記

私がこれからお話しする古代の出雲とは、こうした中央の出雲神話によらない、「出雲国風土記」に見られる、当に出雲で伝承されていた在地の出雲神話を基にして考えられるものです。

26日 五十柱の神々と八十八の神話 「出雲国風土記」をみますと古代の出雲人によって「記紀」のそれと異なる一つの体系をもった出雲神話が伝えられていることが分ります。出雲には全部で五十柱の神々がおられ、風土記はその神々にまつわる神話を八十八話も収めています。五十柱の神々のうち二十一柱の神は独立神として(しん)(とう)()を持たないか或は直接出雲の各地に天降ってそこに鎮座(ちんざ)した神々です。
27日 体系化された神話的構成

これら独立した神々に対し、他の二十九柱の神々はいずれも(しん)(とう)()をもち、体系化された神話的構成の存在を示唆しています。つまり、過半数を占める(しん)(とう)()を持つ神々はすべて、須佐袁(すさのをの)(みこと)大穴持(おおなもちの)(みこと)神魂(かもすの)(みこと)八束(やつか)(みず)(おみ)津野(つの)(みこと)伊奘奈枳(いざなぎの)(みこと)の五神の系統に属していると見てよいのです。

28日 五系統の神々

この五系統の神々、神話のうち、最も多い神話数を持つのは大穴持(おおなもちの)(みこと)のもので、全神話数八十八話の中の三十二話を占めています。次いで須佐袁(すさのをの)(みこと)の十二話、神魂(かもすの)(みこと)もまた同じく十二話、八束(やつか)(みず)(おみ)津野(つの)(みこと)伊奘奈枳(いざなぎの)(みこと)がそれぞれ五話ずつで、その合計は六十六話にも達しています。

29日 体系的に纏められていた神話があった

独立神二十一柱の神々は、伊毘(いび)()()(べの)(みこと)の二話を数えるほかは総て一神一話で、二十二話にすぎません。「出雲国風土記」の神話は地名説話の中に記述されているのですが、こうして分類整理して詳しく調べていきますと、収められている神話は、単純に各都郷において分散的に独立して伝承されていたのを収録したものとは考えられません。恐らくそれ以前(風土記編纂以前)に、既に体系的に纏められていた神話があったのですが、風土記はそれを地名説話として分載しているのです。

30日

そうであれば、風土記以前、出雲の古い統治者である出雲国造以外には考えられません。出雲国造の統治の過程において、出雲の体系神話は次第にその構造を拡大し、遂にはほぼ五十柱、八十八話もの体系神話へと成長していたと思われます。

31日

出雲国風土記
古風土記の一。713(和銅6)の詔に基づき、出雲国九郡の風土・物産・伝承などを述べる。「記紀」に見えない出雲地方の神話も含む。一巻。733(天平5)成る。

風土記

地方別に風土・産物・文化その他の情勢を記したもの。

説話

特に、神話・伝説・童話などの総称。