第八講 史料研究の重要性  古代史へのアプローチ
      神々の歴史から人間の歴史へ

平成24年5月

1日 神々の歴史から人間の歴史へ

「記紀」は国家の起源が神武天皇から始まるといいます。紀元前660年、神武天皇が大和の橿原神宮で即位された。その時を以て、建国とするわけです。然し、その伝説史的事実がそのまま歴史的事実でないことは、これまで述べてきた通りです。

戦前に於いて、「記紀」の神話や伝説が無批判に信じられたのは、昭和天皇がまだ人間宣言をされる前の段階であり、神聖皇統や神国、神州不滅という観念が強く表に現れていたからだと言えます。

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然し、今日において皇祖天照大神から皇祖神武天皇を経て今上天皇まで連綿と一系の血統が続いていることは信じ難いことだと思います。天孫ニニギノミコトが高天原という天上界から八重雲をおしわけて日向の高千穂に天降り、その神の子孫が代々統治して今日に至っていると説いても現代の若い世代に果してそれが受け入れられるでしょうか。何よりも偉大な生物学者であられて昭和天皇が自ら神の子孫であり、遠祖が天上界から天降ってきたなどと

お考えになっておられなかったと思います。そうであればこそ昭和天皇は率先して人間宣言をなされたのです。私たちは、神話や伝説をそのまま信じることで、「国体の精華」が保たれると言った観念を一掃し、もう一度日本人の歴史や天皇の歴史を正しく見直すべきです。少なくとも戦後の古代史はそうした反省から出発していると信じます。
3日 日本国家形成の解明

神話の束縛から解放して「国体」を考え直すには、わが国が、いつどのようにして形成されたのかという“日本国家の形成”を明らかにしなければなりません。そして日本国家の形成を考える場合、まが理解しておくべきかは、日本が古い歴史をもつ国であるが故に、国家形成の解明には非常な困難があるということです。世界の国々を見渡せば、建国の事情や、それにかかわった人物の名前や

建国年代などが明白なのは、みな歴史の浅い近代国家ばかりです。わが国のように、文字が使われる前、2千年ほど前に国が建てられたという歴史の古い国においては建国の事情など分らないのが当たり前です。そうした意味では、建国当時の正確な史実はわからない、とするのが正しい学問的態度だと言えるかもしれません。

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しかし、歴史家としては、それでも建国当時の史実の究明を放棄するわけにはいきません。歴史学の立場からは、文字無き時代の建国歴史を解明するという困難を承知の上で、正確な歴史解明に努力を払わなければならないわけです。そうした歴史家の努力は、現在、わが国においてはほぼ紀元前1世紀頃に、いくつかの小国家が存在していたことを明白にしています。

それが史料を通して私達が知り得るわが国最古の国家の姿です。それらの小国家の一つが今日の天皇家の祖先が建てた国家であるのか否かそうした点に就いて史料は何も答えてはくれません。然し唯一確認できるそのような日本の黎明期の事情を足がかりに今後も綿密な研究を積み上げていれば私たちは必ず正確な史実へと近づいていくに違いありません。
5日 史料批判による古代史の再構築

古い歴史を持つ日本の国家形成期を知るためには、どのような史料・資料を取り上げ、またそれをどのように使っていけばよいのでしょうか。先ず、「記紀」などの日本最古の史料を、戦前のように、“信じる”対象でなく、合理的な批判を加えて歴史的事実を抽出していく対象いすることが何よりも大事です。即ち、「記紀」の古い時代の記録は、まず間違いなく正しいことと、誤ったことの両方が混然としています。それらの史料に接するに当っては、その中から事実と事実でないものとを区別し、

事実だけを抽出しながら歴史を書き改めていくという心構えが第一に必要になります。
それを史料批判といいますが、史料批判の方法によって考えなければいけないのに、戦前の日本の歴史学ではその方法がとられなかったのでした。そこに方法論的な大きな誤りがあり、戦後になってよく皇国史観が誤っていた、そのため、日本史では誤った歴史が説かれ、教えられていたと言われるのです。
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皇国史観がなぜ間違った歴史を教えたのかと言えば、史料批判なしに書かれたことを初めから事実とし信じることだけで、歴史を構成したところに問題があったわけです。それに対し、私たちは「古事記」「日

本書紀」の中に書かれている事柄の何が事実なのか、どこが事実でないのかということを識別し、史実とみなせる所だけを基にして歴史を考えるという方法を取っていかなければなりません。
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史料の中の事実は、すべて史料批判のフィルターを通過して事実になる?そうした史料批判を行ってこそ、戦後の古代史が戦前のそれから大きな前進を遂げられたのです。

またこうした史料批判の精神は、一人の歴史学者の問題というだけでなく、あなたはもとより、私たち日本人全てが身につけておくべき精神であると思います。

「記紀」の史料批判と総合的な分析の必要性

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考古学などの成果をどのように解釈するか

日本では、「古事記」「日本書紀」という第八世紀に成立した文献が現存する最古のものです。日本の国家形成期は紀元前後から始まっていると見られますから、第八世紀ではかなりの時間が経っており、その点から言っても正確な記録は期待ではないと言えます。しかも、この両書が記す国家形成期の歴史は、伝説的史実であり、歴史的事実つまり史実ではありません。

伝説的事実であるからといって全く史料的な価値が無いという意味ではありませんが、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたという意味での史実が記されているわけではありません。そうした点で、日本の史料に基づいて文字の上からだけ、国家の起源を考えることは不十分にならざるを得ないでしょう。

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従って今日盛んな考古学の発掘調査、遺跡・遺物の研究、或はと人類学・民俗学の成果をふまえ、文献を離れた立場からも、日本の国家の起源の問題を考えそれらを合わせて、どう解

釈していけば正しい日本の国家発祥の歴史をまとめることができるのか。それが古代史研究の方向の一つとして非常に重要です。
10日 考古学の限界

かって考古学や人類学的知見を導入することで、「記紀」などの文献資料の伝説史的叙述の不備を補おうという革新的な動きが起ったとき、古代史家の多くは、そうした方法の採用を異端的態度であるとして、文献史料至上主義の立場から反対しました。処ず、そのように反対した史家たちに限って今日では考古学者の教

えを受け売りして得意顔になっている傾向がみられます。結局の処、そうした史家たちは、文献記録のない時代は全て考古学や人類学の知見に依存し、記録のある時代から後が史学の領域であるとする極端な折衷説で満足しているわけです。

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そのため、古代史は考古学と文献史学を単につなぎ合わせただけではないのかと言われ、一貫性のない叙述が多い状況になっているのです。いかに諸学問の総合が必要だと言っても、そのように時勢に迎合しただけの学問的態度では創造的な成果をあげられません。

考古学が文献史料の伝説的叙述の不備を補うために必要な学問であることは間違いありませんが、それは古代史を“補う”以上のものにはなり得ないと私は思います。
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先に述べたように紀元前一世紀ころに日本の中に幾つかの小国があったことが史料から確認できますが、それは考古学の物質的文化上の相対年代という点からも推定できます。しかし、個々の遺物、つまり物質的遺物はそれ以上の事実は決して教えてはくれません。いからも考古学的資料が充実していっても、

例えば、神武天皇が実在したかどうか、いつ即位したのかといった問題確証を与えることはないでしょう。極論ですが、考古学は物質文化の歴史を解明するのには有力な方法であっても、文献史料のように精神文化の歴史を詳しく語ってはくれないのです。

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文献史料を中心としたアプローチ

文献史学と考古学とが有機的に結合し、夫々が機能を十分に発揮して古代史を編みあげていくことが必要です。単につなぎ合わせただけの古代史ではなく、基礎的史料として「記紀」以下の文献を重視し、その上で考古学などの諸学問の成果で不備を補っていくという方法が望まれます。少なくとも私はそのような立場から古代史へアプローチしているのであり、本講座はそのような立場を前提としていることを貴方にも理解して頂きたいと思います。

石器時代のように、極めて古い時代のことはともかく、古代史の少なくとも金属器時代以降のいわゆる国家

形成期に対する戦前に見られたような誤謬は、史料研究というアプローチ自体が誤っていたのではなく、皇国史観による史料の取扱い方が誤っていたのです。

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つまり「記紀」などの文献が虚偽に満ちた史料的価値の全くないものであるということではなく、その解釈の方法が適切でなかった事が大きな原因です。
不備を意識してかつ科学的方法でそれらの史料を分析・解釈していくならば、

寧ろ、そこから考古学的実証資料と比べても優るとも劣らない価値ある史実を抽出できるばかりか、国家の記録というような精神文化と深くかかわる問題は、文献史料による以外に決めてはないと考えます。

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天照大神 

記紀神話の最高神で、太陽神の女神。高天原に住み、天岩戸神話の主人公。伊勢神宮の内宮に祀る。
 

神話
:原始・古代人が、自然界や人間界の理解に苦し現象・事賞に対して、ある長自然的・超人間的なものの方法(神々)を想定して解釈しようとした民間伝承。
 
16日 皇国史観
国体史観とも言う。天皇中心の国家体制を正当化しようとする日本史観。「万世一系」の天皇支配を日本の「国体」とし、大義名分論と国粋主義・排外主義により構成された歴史観。
遺物
過去の人類が残した物質のうち、比較的小形で持ち運びのできるもの。自然遺物(獣骨・果核など)と人工遺物(石器・土器など)とに分けられる。
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史料研究の実際

中国正史の活用

古代史を解明するには「記紀」だけでは不十分な部分があります。そうした部分は考古学や人類学などの科学的資料によって補うことも必要ですか、それ以外にね文字の国・中国の正史の中にある日本に関する記録が有力な材料となります。具体的には「漢書」・「後漢書」・「三国志」(この中の「魏書」の東夷伝の条が俗に、「魏志倭人伝」と言われる)・「晋書」・

「宋書」などがそれに概等しますが、それらは「記紀」のように第八世紀の文献でなく、さらに古い第一から第六世紀に記されたもので、弥生時代や古墳時代、即ち日本側には殆ど記録のない時代や、記録があっても伝説的叙述が多い時期の日本のことを記しているのです。

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外国の史料という点で伝聞的な不正確さというものを考慮しなくてはなりませんが中国史料から特に紀元前第一世紀から第三世紀にいたる日本の歴史の最も古い時代、日本側の記録が殆ど無い時代の概要を知ることができ、しか倭国王の朝

貢時代を通して確実な絶対年数を算出できる訳で、中国正史の日本関連記事は実に貴重です。私たちは、それらの中国史料から、弥生時代や古墳時代のことを文字によって理解でき、考古学とは別な方面から史実の認識をすることが出来るわけです。
19日 「記紀」の活用

日本側の史料で最も古い「記紀」は、一応、神話に続いて辛酉の年、つまり紀元前660年の神武天皇の即位あたりから伝説的歴史を綴っているわけですが、それらは伝説的であるからと云って国家形成の歴史を考える上で全く役に立たないものなのでしょうか。

前講までに述べてきたように、最も古い時代のものは架空の天皇の物語で占められており、明らかに創作されているのですが、それでも私はそれらの記述が全く役に立たないものとは思いません。
20日 「記紀」に記された伝説的事実は、一般に口承文芸と言われるものを母体にしたものです。文字が無くとも、人びとによって語り継がれてきた伝承があって、それが「記紀」に反映しているのです。この口承文芸は、尊い祖先からの言い伝えを全精神をつぎ込んで一言も聞き洩らすまいと子孫たちが懸命に暗記して何百年も伝えたものです。それは個人が創作した伝承・伝説ではなく、伝承を共有する集団全員によって支持された。 いわば集団的体験であり、集団に必要な知識の伝承であったが故に、集団によって大切に保存されてきたのです。人々はその伝承によって自分たちを励まし、或は集団生活を維持し、結束し、守り、発展させようとしてきたのです。言わば、集団生活のエキスが沁みこんでいるのが口承文芸であり全くの虚構や架空の事実の伝承というわけではないのです。
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例えば、「記紀」には有名な「(あめのん)岩戸(いわと)神話(しんわ)」があります。これは天照大神が弟の須佐之男(すさのおの)(みこと)の乱暴に怒り、天岩戸に隠れてしまわれて高天原が暗闇になって悪神たちが

横行したため、八百万(やおよろずの)(かみ)が八方手を尽くして天照大神を岩戸から引き出して漸く光明を取り戻したという物語です。この「天岩戸神話」は到底歴史的事実とは受け入れられない架空の物語には違いありません。
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然し、これは歴史的出来事ではなく、ある集団の何らかの体験、生活の実態を伝えるものだとして解釈すけば、これは日食の時に行われた祭式の儀礼を伝承したものと解釈できます。日食やそれに類する自然現象に遭遇した時、それから逃げ

るための呪的祭祀として実際に行われた儀礼がこのような神話として伝承されていたと解釈できるわけです。こうみれば、年代的な歴史的事実でないにせよ、神話から古代人の生活実態としての史実を一つ抽出していくことができるのです。
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また、「天岩戸神話」などに限らず、ある人物の伝説にしても、それはその人物に託して何らかの事実が語られていると見られます。例えば、有名な神武天皇の東征伝説であれば、それは架空の天皇の創作された物語には違いありませんが、私はそこに仁徳天皇が九州から畿内に遷都してきた時の伝承が重ねられていると考えるわけです。(仁徳天皇については第三章で詳しく述べる)

こうして、「記紀」を解釈していくならば、中国の正史からは伺いしれない豊富な史実をその神話や伝説から読み取ることが出来るわけで、やはり「記紀」は古代史解明になくてはならない価値を持っていると言えるのです。

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史料研究の方法論としての反映法

史料の性質・証拠能力などを十分に吟味する

史料を基にして歴史を考える時、まず史料の性質とか証拠能力とかを十分に吟味しなければならないわけですが、その史料批判を行う時に、どのような方法論を取るかという問題があります。

戦後、大化前代史の研究で新局面を開いた直木孝次郎氏は、史料批判の方法である「分布法」と「反映法」の両者の併用によって「記紀」から正しい大化前代史を構築できるだろうと論評されています。私も概ねその意見ですが、ではその「分布法・反映法」とはどのような史料批判の方法なのでしょうか。

25日

直木氏は、私の研究方法を「反映法」と位置づけられて「記紀」伝承の形成過程において作為の行われた痕を徹底的に追求して、その由来を明らかにし、更に進んで作為以前の伝承の原形を明らかならしめようとするものであって、単なる反映法の範疇には入らないが、作為は全てそれが行われた時代の、政界及び思想界の状態を反映しているという考え方に立っておられるのであるから、基本的には反映法に依ったものと認めて差しつかえあるまい」と評しておられます。

要するに、私がこけまでの講義で述べてきたような、「記紀」編纂時、或はその前段階の第七世紀において、天皇家の権威づけや中国思想の影響などによって、史実の明らかでない時代に架空の天皇が配置され、その架空の天皇の物語として、史実や現実の事態と同じようなことが過去因として起こっていたとして物語が創作されたと見る、史料批判の基本的方法論を「反映法」と評しておられるわけです。
26日

このような反映法に対し、直木氏は「記紀」のある部分が作為されたものであることが明らかな場合でも、その創作・脚色が行われた時代判定が困難な為、自分が予め持っている時代観念に照らして判断し、自説に有利な時代と結びつける傾

向が生じるので一種の循環論に立ち至る恐れがある」とその弱点を指摘されています。私自身も、このような指摘を受けるまでもなく、私の「記紀」批判の方法の弱点がそのような点にあることは承知しています。

27日 然し、直木氏は私を反映法の代表者のように言われるのですが、私はそうした方法だけが、大化以前の古代史構築の唯一の方法だなどとは考えていません。ただ、「記紀」が第八世紀という伝承時代とかなり隔たった時代に

天皇家と朝廷の権威づけのための歴史書として編纂されたという特殊な成立過程と構造を持つ文献であるため、その構造に即した史料批判の方法としておのずとそうした反映法重視の立場になったわけです。

28日 史料批判の基本的弱点

反映法に対して、分布法があげられていますが、この分布法とは、「記紀」以外の様々な史料中の人名の地誌的分布から、大化前代の

豪族団や部民の分布状態を推定し、その結果と「記紀」の所伝中の矛盾しない部分を信憑性の高い史料として生かしていこうとする方法を指します。
29日 この方法は、天皇と諸豪族間の勢力関係や大和朝廷の政治機構、部民制支配構造とその展開と言った多くの問題に極めて大きな成果をあげているものです。 然し、この分布方法にしても、場合によっては「記紀」の所伝を重んじる結果、過去の「記紀」に対する無批判的肯定がおかした過ちを再びおかす危険があります。
30日 反映法にせよ、分布法にせよ、「記紀」の記述を無視するのではなく、その記述の中から後代に創作、作為された部分が多いことを前提に、その創作・作為された部分を除去して 残った部分を史実とし、或は作為された部分も作為があった時代の情勢を反映した史料として利用し、正しい歴史構築を行おうとする姿勢は共通しています。
31日 こうした史料批判の方法は古代史家の専売特許なのでなく、その弱点も知った上で、貴方にも是非共身につけてほしいと思います。  それは史料批判の方法というだけでなく、自らが古代史を構築する楽しみを味わう方法でもあると思うからです。