26吉野ヶ里遺跡と弥生の古墳

平成26年5月

1日 

弥生の古墳

「弥生時代の古墓」研究の波紋

戦前からの古代史は,第三世紀の後半から第四世紀の初頭のころに弥生時代が次ぎの古墳時代へと推移していくとみました(但し、これは先進地帯である九州や大和を中心とする西日本についてのことである)
前項で述べましたように、そうした時代区分は古墳研究における従来の定説に基づくもので長い間、それで通用してきていたのでした。

2日

処が、最近になって古墳の前京形式と見てよいような、「弥生時代の古墳」と言われる弥生時代の埋葬形式についての調査・研究が著しく発展してきました。その結果、弥生時代の古墓とそれ以後のいままでの古墳時代と云ってきた時期の高塚とをどう区別したらよいのか戸惑うような事例が多く発見され、古墳時代の発生期について色々問題が提起されるようになっているのです。

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6日
山陰地方の特殊形式墳墓

それは、具体的には、弥生時代の墳墓とされる従来の組み合わせ石棺墓、箱式石棺墓、(かめ)(かん)墓、支石(しせき)()土壙(どこう)()などのほかに、方形周湟(しゅうこう)墓、台状墓、墳丘墓なとの新しい形式の墳墓の存在が明らかになったことに起因します。そうした墳墓の発見によって、縄文時代の墳墓から弥生時代の墳墓へ、弥生時代の墳墓から古墳時代の高塚へと埋葬形式や墳墓構築形式の上から一連の発展が考えられるようになってきたのです。
例えば、土壙(どこう)()は縄文時代の墓制の伝統を継承したもので、箱式棺墓とか木棺墓は近畿地方以西に拡散していて、それは古墳時代へ続いていきます。また方形周湟(しゅうこう)墓から発達したと考えられるのが方形台状墓ですが、これは主として瀬戸内沿岸にみられ、さらに山陰地方、特に島根県(出雲国)にはその地域的な特殊形式であるとされている四隅突出形方形周湟(しゅうこう)墓があって、古墳時代の方墳とのつながりを思わせます。
こうした墳墓から古墳への一連の発展を示すような考古学的事実が突然にして古墳が出現したかのように構成したかっての古代史像への大きな修正を迫ることは言うまでもありません。現在の歴史学界では、こうした事実を認めた上で、他の新しい考古学的発見との整合を考えながら、かっての弥生時代ゾウ古墳時代像、さらには縄文時代像をも洗い直す作業が行われているわけです。
先ず、それら問題となっている「弥生の古墓」を具体的に見てみましょう。 

7日
箱式石棺
遺骸埋葬施設。板状または塊状の石材数個を組み合わせて人体を埋葬するのに十分な大きさの箱状に作り、ふた石を載せたもの。底石を持ち石材を加工して組み合わせる場合は組合式石棺という。
8日 土壙(どこう)() 竪に穴を掘り遺体を埋葬した遺構。縄文、弥生時代に普遍的にみられ、古墳時代以降現代まで庶民の葬制として続く。縄文早期に出現。弥生中期には有蓋土壙(どこう)が増え、支石墓、覆石墓の内部主体にもなり、武器、鏡などの副葬品もみられる。
9日 方形周湟(しゅうこう) 方形に溝を巡らし、内側に低丘を盛り上げ、その中央部に土壙(どこう)を掘って遺骸を埋葬する。溝の一辺は10米前後が普通であるが中には20米を超えるものもある。遺骸は土壙(どこう)内に1-数体埋葬され、溝の中にも人骨を壷棺に入れて埋置することがある。
10日 鶏塚古墳 島根県松江市大庭町の台地末端部に構築されている(にわとり)(つか)古墳は、かって方墳とみなされ、その構築年代も第五世紀(中期)と考えられていました。然し、再調査の結果、今日では四隅突出型方形周湟(しゅうこう)墓とつれています。鶏塚古墳が初め方墳と見られたことからも分るように、四隅突出型方形周湟(しゅうこう)墓は「弥生の古墳」というべきものです。他に例をみないこのユニークな四隅突出型方形周湟(しゅうこう)墓ないし四隅突出墳といわれるものは、日本海沿岸の山陰地方に広く分布することが知られ、ここに地域的文化圏があったとことを推測させます。
山陰地方の四隅突出形方形周湟(しゅうこう)墓に対し、同じく古墳のルーツとみなすべき墳丘墓が山陽地方と近畿地方に主として分布しています。 
11日 楯築墳丘墓と石塚墳丘墓 有名な吉備津神社の西方丘陵上にある、倉敷市矢部向山の楯築(たてつき)墳丘墓は、現存直径43米の円墳形ですが、発掘復元調査を行った処、東北・西南の両部に突出部をもつ双方中円墳形を呈していることがわかりました。ちなみに双方中円墳は、第四世紀の古墳といわれているものです。
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楯築墳丘墓の外観は、中央円墳上に巨石が配置され、墳丘斜面には列石がみられます。

埋葬部は頂部近くに9×5.5米、深さ1.8米の楕円形に掘られた穴に木槨(きかく)を造り、その中に木棺を配しています。棺の中には粉末にした(しゅ)を敷きつめ、勾玉(まがたま)(くだ)(たま)・ガラス玉・鉄剣が副葬されていました。

楯築(たてつき)墳丘墓は弥生時代後期の墳丘墓として報告されています。

13日 石塚墳丘墓

また、この楯築(たてつき)墳丘墓と並んで注目されるのが、最近発見された奈良盆地の桜井市にある箸墓古墳の北に位置する石塚墳丘墓です。箸墓古墳は巨大な前方後円墳の中でも最も古い時代、第三世紀の末ないし後半に造られたと言われるものですが、石塚墳丘墓はそれよりも少なくとも数十年前、即ち弥生時代末期のものとみられています。

14日

石塚墳丘墓は現在、墳丘上に果樹園があり、周りの溝も水田になっていますが、推定全長88米もの前方後円墳形(帆立貝式)をしているのです。こうした墳丘墓について、私は古墳時代の前方後円墳の出現と深くかかわりがあると考えるのですが、考古学者たちは尚、墳丘墓と高塚(古墳)とのつながりを肯定するのに躊躇しているようです。

15日 吉野ヶ里遺跡

つまり、弥生時代の終りに造られた墳丘墓は、もう古墳と考えてよいとする人もいますが、各地で形態が異なるのだからまだ古墳というべきではない、墳丘墓として古墳とは明確に区別すべきものだと主張する人も多いのです。こうした考古学上の古墳論争の最中に、いま一つ重大な発見がありました。邪馬台国の発見と騒がれた例の吉野ヶ里遺跡です。

16日 註 
双方中円墳
古墳時代の墳形。前方後円墳の前方の部分を対照的に二つ設けたもの。
17日 (かく) 古墳の内部構造の名称の一つ。棺を保護する設備。粘土で棺を覆うのを礫(かく)と呼び、ほかに木炭(かく)  木(かく)などがある。石(かく)は石室の代名詞に用いられ場合が多い。
18日 勾玉 装飾用玉類。全体が湾曲し、穴のあいている部分を頭、他の部分を尾という。
19日 管玉 竹管状の玉。弥生時代には鉄石、英・碧玉などで大量に製作され玉造遺跡が出現する。
吉野ヶ里遺跡にみる古墳のルーツ
20日

吉野ヶ里環濠集落址の発見

周知のように、「邪馬台国論争」に一石を投じ、巷を騒がせた吉野ヶ里遺跡。戦後の日本古代史上最大の発見と言ってよいこの遺跡について、これまでの弥生時代に関する講義を傍証する遺跡でもありますので、まず遺跡の概要や古代史における位置づけを述べてから、古墳との関連へと話を進めたいと思います。
21日 弥生時代の大環濠集落址

吉野ヶ里遺跡は佐賀県神崎郡三田川町にありますが、以前からここに遺跡があることは知られていました。処が、ここが工業団地の建設予定地となったため、本格的な遺跡調査が行われ、その結果、平成元年1月に「弥生時代の大環濠集落址発見」という考古学・古代史学界を驚愕・狂喜させる発見に至ったのでした。

22日 古代史上の貴重な財産

出土遺物約10万個、遺構耶約5千ヶ所という数量の多さも画期的ですが、何よりもその遺跡が九州での発見であること、これまで数少ない小規模の遺跡や「漢書」「後漢書」や「魏志倭人伝」などによって間接的にしか想像しえなかったような弥生時代像が具体的に伺いしれることなど、古代史上の貴重な財産であることは間違いありません。

23日 日本の先進地帯

環濠集落址自体は決して珍しい発見ではありませんが、それまで発見されていた奈良県唐古・鑓遺跡をしのぎ、現在のところ、弥生時代最大の環濠集落址です。しかも、それまで九州ではそうした大規模環濠集落址は発見されていなかったのですから、発見の意義は大きいといえます。弥生時代の九州は大和と並ぶ日本の先進地帯であり、そこに早くからクニが発生し、そのクニ同士による「倭の大乱」のような戦乱状態があったと考えられるわけですが、吉野ヶ里遺跡がクニの跡かどうかはともかく、少なくともそうした弥生時代の九州像を裏付ける強力な考古学的事実であると考えます。

24日 註 
環濠集落址
先史時代、特に弥生時代の集落に見られる遺跡の一つ。住居址群を囲んで環濠が認められるものを言う。環濠は排水や防衛、集落の限界などを意味すると思われ、社会構成の単位を示しているとみられる。
25日 吉野ヶ里遺跡の概要 吉野ヶ里遺跡は、凡そ西暦前1世紀から奈良時代に至るまでの遺跡を含んでいますが、その中心は弥生時代のものです。
26日 環濠

注目を集めた環濠は、一気に築かれたものではなく、弥生時代前期前半(西暦紀元前100年頃)から弥生時代後期前半(西暦100年頃)にかけて、凡そ三期に分けられて造られたとみられます。その全容はまだ不明ですが、現在のところ約1キロ米が発掘され、推測では25ヘクタールが環濠に囲まれていたと言われています。

27日 竪穴式住居址

この環濠の内外に、竪穴式住居址が約350軒、高床倉庫址が21棟、ほかに高床式建物迹などの建物群があり、弥生中期のものとみられる墳丘墓が一基、甕棺墓約二千基を含む墓地群が発見されています。

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まだ総ての発掘調査が行われたわけではなく、また出土物や住居址などの正確な年代などは今後の研究の成果を待つものが多い状態です。従って吉野ヶ里遺跡に基づく古代史像の修正があるとすれば、それは今後の研究いかんにかかっていると言えます。現時点ではっきり言えることは環濠はほぼ防禦施設とみて間違いないのでそこに部族間の戦闘状態が想定できること、出土品の銅剣やガラス製管玉などが中国・朝鮮由来のものであることから吉野ヶ里遺跡の主体が少なくとも中国・朝鮮の文物を入手する方法を持っていた事、土塁、柵列址、物見櫓址らしい遺構などから「魏志倭人伝」が記すような邪馬台国像と類似の情景が吉野ヶ里遺跡跡にみられること、などだといえます。こうしたことは、弥生時代像を修正するというよりも、これまで本講座で述べてきた弥生時代像を補強するものだというましょう。 

29日

遺構
古い建築物の残存するもの。過去の人類が残した  痕跡のうち、土地に固定していて動かすことのできないもの。
30日 竪穴式住居 地面に所要の範囲を掘り込んで床面を造り、上部に屋根をかけた家屋の構造を竪穴式住居と呼ぶ。住居迹の平面形は徑数メートルの円形ないし方形。普通は壁際に溝が巡り、数個の柱穴と貯蔵穴、炉あるいは(かまど)が備わっている。 
31日 土塁 土を盛り上げて築いた小さな(とりで)  
楼観
楼観
物見のたかどの。

(つか)
土を高く盛って築いた墓。