日本、あれやこれや その61
平成21年5月度

 

応仁の乱研究


 1日 日本歴史を二分した
応仁の乱
応仁の乱は室町時代中頃の応仁元年(1467)に起こった内乱、11年の長きに渡り争いが続き、京都の町は焦土と化した。応仁の乱は複雑怪奇、細川勝元と山名(そう)(ぜん)の権力争い、将軍、足利義政の後を継ぐ (よし)()(よし)(ひさ)の継嗣争い、かんれいけ)の相続争いなどが絡み合って勃発した戦い。さらに斯波(しば)畠山の両管領家(かんれいけ)の相続争いなどが絡み合って勃発した戦い。
 2日 よく判らぬ
応仁の乱
だが、下克上の始まりであったことは明白。そして応仁の乱の前と後では、日本歴史を二分し、歴史の分水嶺と言われている。この混乱は戦国時代、織田信長に収束されるまで実質百年間の大混乱であった。 京の都は焼け野原となり、為に、それまでの貴族社会は疲弊を極め、応仁の乱の前の天皇・公家以外の高く古い家系は殆ど引っくりかえって消滅したのである。それは戦国時代を経て今日の家系へとつながったと言われる。
 3日 かいつまみ
応仁の乱
応仁の乱は百年の乱と言われるが、一応は、1467年〜1477年 、名目的には東軍の勝利と言われている。応仁の乱のきっかけは、8代将軍・足利義政の妻である日野富子の息子への溺愛だった。
まず義政と富子の間に男の子がなかったことを理由に、義政の弟・足利義視が養子に迎えられ次期将軍に内定する。
ところが、その翌年に義尚が生まれる。すると富子が自分の子供に将軍をやらせたいと思い、これにより戦争に突入する。争いは1467年5月、細川氏の東軍が将軍邸を奪還して、義政と義尚をかつぎだした。つまり山名方の西軍について始まった富子・義尚の親子だが、1年後には細川方寝返る。そして翌年11月に義視が西軍入りする。
 4日 日野富子 1467年、乱のさなかに義尚が将軍に就任する。一説には、まず富子は敵対する西軍で最後まで残っていた畠山義就の軍勢に対して「金をやるから戦争をやめろ」と言い、戦争をやめさせる。また、大内政弘の軍勢には朝廷の官職を保障するという形で、手を引かせる。さらに「東軍の諸大名にはあたしが追撃するなと命令しておくから 安心して帰りなさい」と言った。すると戦いはやみ、戦争は徐々に終わっていた。
応仁の乱はまず幕府官僚家であった畠山氏と斯波氏、両家の家督相続をめぐる争いが起こり、ついで8代将軍義政とその妻・日野富子がおす義尚と、義政の弟で養子の義視の家督相続が重なって起こった。
 5日 戦国時代のきっかけ 富子は1468年、義視追討の詔を後土御門天皇からとりつけ、自分たちの正当性を主張。結局、細川方東軍は24カ国16万人、山名方西軍は20カ国11万人を動員。 約10年にわたる戦争で京都の町を廃虚にしてしまったといわれている。この戦争が戦国時代のきっかけと言われている。
 6日 徳永圀典的応仁の乱 室町幕府は、元々、守護領国制を基盤とした有力守護大名の連合政権であった。武家の棟梁であった足利尊氏が根底的背景にあり北条得宗家独裁排除に成功する。 だが、連合政権であり、足利義満のような卓抜した将軍とせいぜい義持(よしもち)義量(よしかず)義教(よしのり)までしか続かなかった。有力大名の権力闘争が更に幕府、将軍の弱体化を促進する。
 7日 農民パワー 農民から以前のように無償に近い価格での調達が不可能となっていた。自衛組織さえ保有していた農民は力をつけていたのである。 また、強敵を見れば勝ちそうなほうにあっさりと寝返る「足軽」とか「疾走の徒」と呼ばれる傭兵集団で戦闘の勝敗も決定するようになった。
 8日 日本前史に
ピリオド
応仁の乱により、古代からの日本歴史はピリオドを打ったのは事実である。
日本史の分岐点と言われる所以である。鎌倉時代から続いた武家政治、温存されていた公家の政治的・文化的権威も完膚なきまでに壊滅したとも言われる。
古代からの貴族的権威の失墜であり、その権威を無視しながらそれを利用してきた武家―将軍を始めとする上層武家―の権威の失墜であり没落を招いたのである。
 9日 応仁の乱に生き残った大名 中世の有力守護大名で、徳川時代まで存続した大名は、薩摩の島津家、それと細川家くらいと言われる。 武家階層の見事な新陳代謝が応仁の乱を契機に行われたと言えるのである。
10日 ダイナミックな変動 既成観念を無視した「足軽」、また文化面でも、学者、芸能人、職人たちが幅を利かせ始めている。 これらダイナミックな変動は、公家や武士、そして商工業、農村でも起こってきた。全国的な大きな変革のウネリを齎したのである。
11日 再生を果した京の都 平安末期の源平動乱や、建武の政変の兵火にも生き残った平安京も、この十一年間の乱の戦火により滅び去った。 戦国時代の織田信長、豊臣秀吉により再建された京都は、平安京また応仁・文明の乱以前のものとは異質なものとなっていたのである。
12日 内藤湖南 京都帝国大学教授の内藤湖南し言う。
「・・・凡そ、今日の日本を知るための日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありません。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。
それ以前のことは、外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」。
13日 武田信玄 この応仁の乱が、日本歴史の画期であることを心底から認識せず、天下盗りに失敗したのが武田信玄だと言われる。

甲斐の武田信玄は、この乱を生き延びた中世以来の名流守護大名であった。つまり森羅(しんら)(さぶろう)義光(よしみつ)を祖先とする誇りを抱いていた。

それ故に、応仁・文明の乱以降の日本史のベクトルを正確に見極めていた織田信長に勝てる筈はなかつたのである。
信玄の子、勝頼の騎馬部隊は、尾張の成り上がり者・織田信長の鉄砲隊に敗北したのだ。京都志向の信玄的古さと言えるのかもしれない。
14日 革命的意義の応仁の乱 日本歴史の後史過程にある現代人の我々、この乱の持つ革命的意義、特に「足軽」―戦場での足軽の意味だけではない。 社会各方面に登場した足軽的存在を認識していいのかもしれない。現代的意味があるように思える。それは下克上(げこくじょう)である。
15日 日本の活力の原動力

下克上(げこくじょう)

下克上こそ、日本歴史の分水嶺としての応仁の乱のキーワードかもしれない。
日本の活力の原動力かもしれない。
下のものが上のものを押しのけ、地位を占めることをいう下克上。身分の低いものが上位のものの価値、現状を否定し本来の秩序を逆転するのだから現代的である。
16日 一揆

課役に苦しんでいた農民が領主に反抗し、さらに地域連合して要求を通すへく一揆を起こしたのである。武家でも家臣が主君を討ち取って代わるケースも増えている。

支配者間の新旧交代が促進された。これは古代・中世からの停滞的な社会の階層間の移動が起きることであった。
17日 身分制度の崩壊 言うなれば、どこの馬の骨か分からぬ人間が戦場で拾った槍を一本ひっさけて、「オレはサムライだ」と叫んで陣借りをして、拾い首でもよいから兜首の一つでものにすれば昨日までの被差別民でもひとかどの武士になれたのである。 才覚と運さえあれば、国持ち大名、さらには天下人となることさえ夢ではなかったのである。応仁・文明の乱はこのように歴史を一気に進める効果を果たしたと言える。
18日 加賀の国 農民一揆が守護を亡ぼして「百姓の国」をつくったのが加賀であり一世紀にわたり支配した一向一揆である。それは大名を戦慄させた。 これは民衆の生のエネルギーであった。
だが、百姓が一国を支配することは絶対に認められないし不可能であった。下克上の限界でもあった。
19日 北山文化 現代日本の生活文化は、室町時代に形成されたと言っていいようである。室町幕府八代将軍足利義政は最高責任者の政治家としては無能であった。だが、文化人としては、鎌倉幕府初代の源頼朝から徳川最後の慶喜に至る歴代将軍の中で、足利義満と共に特筆大書できる人物であった。 義満の「北山文化」、彼は北山第(きたやまてい)を仙洞御所に擬して造営した。金閣寺はその一部である。後の足利義政の「東山文化」、銀閣寺はその一部だが、室町文化を代表する人物である。
これは従来の公家文化から抜け出し現在の国民文化に大きい影響を残した。
20日 北山文化の特色 それは中国文化の影響の日本化と言われている。足利義満の対明国交渉の日本側窓口は京都五山(ござん)であった。五山文学も同様だが、義満の唐物趣味が、書院様式へと発達させた。
義満は、自分の芸術・文化コンサルタントとして

同朋(どうほう)(しゅう)」を設け、唐物(からもの)唐絵(からえ)などの鑑定をさせ、また座敷装飾へと発展させたのである。かれら「()()」の称号を持つ同明衆の作り出した座敷装飾であるが現代和室の基本となっている。 

21日

()()

()()号とは、中世以降、浄土宗、時宗系の宗派の宗僧、画工、仏師、能役者などの名の下につけて用いられた。義満は、それらの身分に拘らず彼らの才能を愛し、パトロンとなったのだ。だから彼らの才芸が大成し今日の能楽など国宝的、世界遺産の芸術に至った。

能の観阿弥、世阿弥父子などがその典型である。北山弟などの造園にも、義満は、被差別の()()の人々を自由にその天分を発揮させた。彼らは義満に起用されるまでは、浄土宗庭園の石工など下働きであった。

22日 東山文化 足利義政である。この頃は下克上のピークであった。彼の下に集まった美の創造者たちは、現在の日本人の生活様式に深く刻印されている生活文化を創出している。 即ち、水墨画、書院造り、庭園、能、茶の湯、立華(生花)、香道だけでなく、畳、襖、障子などの他に料理の日本基本型が完成されたと言われる。義政の正室が日野富子である。
23日

()()富子(とみこ)

足利義政の正室。彼女は、応仁の乱に参陣した武将たちに融資した荒稼ぎした。義政とは不和であり、義政の文化活動には援助していない。義政は金なしパトロンであったと言われる。 東山文化のパトロンは、経済的には、乱世の中に発達した商工業の金融部門を担当する酒造資本、土倉などの高利貸し資本を始めとする「町衆」である。つまり東山文化は「民活」であった。
24日 東山文化の拡散 戦乱を逃れて地方に下った公家たち、また京都に対陣していた武将たちによって地方へと拡散していった。 文芸面では、地方を漂白生活していた連歌師(宗祇など)、絵師(雪舟など)などの活動もこの東山文化の普及に大きく貢献した。
25日 乱後の
日本思想
この応仁・文明の乱後の文化的特徴は、日本国中が戦乱の巷と化したことにより、外来文化、即ち中国文化の流入が殆ど途絶したことである。 そこから戦乱後の「日本思想」には、生のままの日本的なものが露出されてきたと見抜いたのか、あの内藤小南である。
26日 京の都の焼失は

近年、奇跡的にこの応仁の乱による兵火を免れた冷泉(れいぜい)家の土蔵に保存されていた、歌学関係の多数の文献である。

これは将に奇跡で例外である。即ち、奈良・平安そして鎌倉時代を通して保存されてきた文化遺産―文献―の多くが失われたからである。
27日 史料の焼失 蘇我氏滅亡の際、蘇我邸に所蔵されていた多くの古代資料が失われた。次いで、平安期の609年、村上天皇の天徳4年、大内裏(だいだいり)が焼失した。 上田秋成は、「村上の御代の天徳4年の火に、宮殿の中は、宝庫文庫も跡もなく亡びて、国史と雖も原著なかりしかば、様々に付会していう事也。或る人、有職のおっしゃりしことは、鏡も剣も(つつが)なかりしと言うが、亡びた証拠じゃとぞ」と述べている。
28日 ポルトガル人「日本覚え書き」 室町末期、ポルトガル人が「日本覚え書き」で当時の日本女性とヨーロッパの女性とを68項目で対比している。その30、ヨーロッパでは、夫婦間に於いて財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、時には妻が夫に高利で貸し付ける。(日野富子のことか) ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪であることは兎も角、最大の不名誉である。日本では、・・・彼女たちはそれにより名誉も結婚する資格も失わない。
29日 ヨーロッパでは、堕落した本姓にもとづいて、男のほうが妻を離別むする。
日本では、しばしは妻たちのほうが夫を離別する。

ヨーロッパでは、娘や処女を俗世から隔離することは大問題であり、厳重である。
日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも一人で行きたい所に行く。
30日 ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。

日本の女性は、夫に知らさず自由に行きたい所へ行く。
女性の読み書き能力について、日本はヨーロッパより進んでいるとか、騎馬のマナーに男女差がないとか書いている。
中世的な差別や束縛から脱した当時の日本女性の逞しいイメージを伝えている。
31日 鉄砲 日本の中世に止めをさしたのは鉄砲であった。日本の戦国時代とは、1467年、応仁の乱の勃発から、織田信長による日本統一に乗り出すまでのほぼ一世紀である。 戦国時代は通常、前期と後期に分けるが、この二つを区分するメルクマールは「鉄砲の伝来」である。鉄砲は日本の中世に止めを刺したのである。