大伴家持 多難な生涯の人 
平成20年5月

5月 1日 万葉集掉尾(とうび)を飾る歌  鳥取市郊外の国分(こくぶ)町は大伴家持が左遷された勤務地であった。万感こめた歌は万葉集最後に飾られて人口に膾炙されている。私は格別にこの歌の家持に親近感を抱く。 

(あらた)しき 年の(はじめ)の 初春の 今日降る雪のいや()吉事(よごと) 
  
  巻20−4516

5月 2日 因幡の雪 山陰の田舎で、しんしんと降る雪は、当時はゆうに一米を越えることはあったろう。例え国府庁の主でも退屈極まりない、都の絢爛たる文化も程遠い鄙びた中に埋もれたた家持。王朝文化に触れた家持 には気の遠くなるような寂寥感があった。
平城京の雪は華やかさがあったであろう。「因幡の雪の寂寥」もこの歌を詠ませたのではあるまいか。「良いことがあって欲しいと」。彼には権力から離れた寂寥が潜んでいた。
5月 3日 平城京でのこと 天平18年正月、平城京は「白雪(さわ)()りて地に積むこと数寸」であった、それは万葉集巻17−3922の題詞に見る通りである。 元正天皇の徳を慕う折の平城の雪、同じ雪でも、左遷されて苦しい時の見上げるような因幡の大雪、胸の底から、せめて()きことをと願うのであろう。 
5月 4日 同僚・葛井連(ふじいのむらじ)諸会(もろあい)の歌 同僚であった葛井連(くずいのむらじ)諸会(もろえ)が、平城京でその雪の時に歌った「(あらたし)き 年の始に (とよ)の年 しるすとならし雪の降れるは」
巻17−3925

家持は、この葛井の歌を思いだしたに違いない。
吉事(よごと)よ重なれと、万葉集の最後に記載した家持は「言霊」により左遷の終わりの幸を求めたと言われる。
 

5月 5日 元正天皇の御世のこと 元正天皇御在所では、天平18年正月、平城京は「白雪(さわ)()りて地に積むこと数寸」あり思わぬ風景の美観に興じた。左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)は、大納言藤原豊成()(そん)らを率いて天皇の中宮の西院に参上し掃雪奉仕をする。

天皇の(みことのり)があり、大臣・参議、諸王、諸卿、太夫を伺候させ、お酒を賜り宴会をされた。

天皇は「汝、諸王卿によ、僅かながら、この雪を歌に詠んで、おのおのその作った歌を奉上せよ」と云われた。優雅な分風情である
 

5月 6日 雪と風土 奈良の、平城京の、数寸の雪でも、周囲の山々の或は御殿の景観は見違えるような美観となろう。「(さわ)に」降り思いもかけぬ風景の変化に驚いたであろう。 鄙びた因幡の雪は、一メートルを越えるばかりで風雅な代物(しろもの)ではない。腰まで埋没する雪、一足、一足ごとに雪中を歩くさまは奈良の都の雪とは違う現実の厳しさがある。

5月 7日 奉上の歌 1 橘諸兄(たちばなのもろえ)の歌

「降る雪の 白髪(しらかみ)までに 大君(おおきみ)に 仕えまつれば 貴くもあるか」
 巻17−3922
(きいの)()(そん)清人(きよと)の歌

(あめ)の下 すでに(おほ)ひて 降る雪の 光を見れば 貴くもあるか」巻17−3923
5月 8日 奉上の歌 2 (きいの)()(そん)()(かじ)の歌

「山の(かひ) そことも見えず 一昨日(をととひ)も 昨日も今日も 雪の降れれば」
 巻17−3924
葛井連(ふじいのむらじ)諸会(もろあい)の歌

「新しき 年の始に 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは」巻17−3925
5月 9日 大友家持の歌 その時、我が大伴家持の歌ったのは
「大宮の 内にも()にも 光るまで ()れる白雪 見れど飽かぬも」

 巻17−3926

どの歌も元正天皇の徳を讃え、白雪を讃える歌である。特に家持の歌は、宮殿内外に溢れるあの白雪の雪明かりのようであり、平和な時代の家持、明るい青年貴族・家持であった。

5月10日 越中国守へ赴任 その天平18年7月、家持は越中国守として赴任することとなる。雪の歌から半年後のことである。 これから天平勝宝3年7月、少納言となり都に帰るまで5年間の越中滞在であった。田舎落ちの気持ちであったろう。
5月11日 家持絶唱三首 ―1 天平勝宝5年とは家持がひしひしと没落の悲哀を感じた頃であるが、その頃に作った有名な歌がある。

「春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯鳴くも」 
巻19−4290
 

5月12日 家持絶唱三首―2 「わが宿の いささ(むら)(たけ) 吹く風の 音のかそけきこの夕べかも」
 巻19−4291
「うらうらに 照れる春日(はるひ)に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば」
   巻19−4292
5月13日 いささ(むら)(たけ)・・ 絶唱三首は名歌である。春の野に霞が棚引いておれば普通なら喜びなのに家持は悲しいという。また、彼方の光が射している所で鶯がホーホケキョと鳴いているという。  実に細かな心の世界を描いているのである。わが宿のいささ群竹・・・の歌、カサコソと風に吹かれる竹の音とともに、自らの寂しさを訴えている。涙を催すようなくらいに心が震えてくる。
5月14日 大伴家の没落

天平勝宝8年2月、大切な拠り所としていた橘諸兄が宮中から陰謀のかどで追放される。そして5月には、家持が最も尊敬し、橘氏も尊敬した聖武天皇が崩御され、そして一族の大伴(おおともの)()慈悲(じひ)が謀反のかどで逮捕される。

(うじ)(かみ)である大伴家持は「(やから)諭す(さとす)歌」を詠む。
()城島(きしま)の 大和の国に 明らけき 名に負う(おお)(とも)() 心つとめよ」巻20−4466

5月15日

大伴という名前

この歌の意味は、敷島のこの大和の国に、明々白々たる大伴という名前を背負っている一族の者よ、しっかり気をつけよ」である。 陰謀などに加担してとんでもないことになるな、と諭したのである。堂々たる偉丈夫の歌である。
5月16日 泡沫(みつぼ)の身

処が、同じ日に
泡沫(みつぼ)なす ()れる身そとは 知れれども なほし願ひつ 千歳(ちとせ)の命を」
 巻20−4470

泡沫(みつぼ)とは泡粒、人間なんて泡粒みたいな仮の身だと分かっているが、でも矢張り永く生きていたいものだ。
と弱い心を歌っている。気の弱い心である。
 

5月17日 反乱に参加せずの家持 聖武天皇が崩御されると、藤原仲麻呂は、決められていた皇太子・(ふな)(どの)(おおきみ)を廃嫡し自分の都合のいい大炊(おおいの)(おうきみ)(天武天皇の孫で自分の家で養っていた人)を皇太子とした。

しかも紫微(びし)内相(ないしょう)紫微(びし)中台(ちゅうたい)の長官となり兵馬の実権を完全掌握した。仲麻呂天皇とも言える存在となる。
やがて仲麻呂が反乱を起し大伴家・橘家は加担するが家持は参加しなかった。敗北して両家の一族は殺された。
 

5月18日 虚脱感の家持

家持は悲運が迫り憂愁の思いの日々である。天平宝字2年2月「興に依りて各高円(たかまど)離宮処(とつみやどころ)(しの)ひて作れる歌」がそれである。

高円(たかまど)の 野の(うへ)の宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代(みよ)(とお)そけば」
巻20−4506
聖武天皇の御世の懐古である。

5月19日 大仏開眼供養

都には大仏開眼供養という華々しい催しが定まっていた。聖武天皇の皇女・阿部皇女即ち孝謙天皇は仲麻呂邸に入られた。光明皇后は不比等の娘、仲麻呂は藤原不比等の孫、皇太后宮―紫微(しび)中台(ちゅうだい)の一員である。

一連の藤原氏の勢力の前に、大伴家の没落の悲哀をひしひしと感じた、そしてその証のように、6年には家持は兵部少輔となり防人担当となる。
5月20日 聖武天皇崩御 家持の敬慕申しあげる聖武天皇が崩御された翌年、天平勝宝9年1月、橘諸兄も死去、3月には廃太子事件があり、遂に仲麻呂の都合のよい大炊王(天武の皇子・舎人皇子の子)が皇太子となる。 5月には、仲麻呂は紫微内相(長官)就任。加速的に仲麻呂優位が実現されてきた。ここで反仲麻呂運動が極点に達し、6月から7月にかけて、橘諸兄の子・奈良麻呂による橘奈良麻呂の変が発生。仲麻呂により家持等は一網打尽にやられたのである。
5月21日 天ざかる(ひな)の因幡? 聖武天皇の御代は遠く去ったという実感を込めた歌であった。生きる希望も失われてきたに違いない。 そうして、天平宝字2年6月に、因幡国守として、(あま)ざかる(ひな)に行かねばならぬこととなった。現代鳥取人としては蔑視されたようで不愉快だが当時はそんな思いの地であった。
5月22日 うらぶれた心 家持にすれば、周囲の事情の激変もあり、因幡赴任は、越中とは比較にならぬ、落ちぶれた心境であったろう。 日本海の荒涼とした景観、特に冬の日本海の風雪は凄まじい。因幡山山麓の館、現在鳥取県岩美郡国分町の国守の館で、孤立無援の日々をかこつのである。
5月23日 大炊(おおいの)(おうきみ)即位の報

大炊王が即位され(じゅん)(にん)天皇となられたとの報らせが入り家持は絶望の淵に落ちたのではなかろうか。

このような経験が家持をして「歌人」にさせてゆくのではなかろうか。万葉集収録最多歌人・家持、そして最後のあの歌となる。孤立無援の家持なのである。 
5月24日 新年賀会の歌 (あらた)しき 年の(はじめ)の 初春(はつはる)の 今日降る雪の いや()吉事(よごと) 
 巻20−4516
奈良は平城のように数寸の雪ではない、日本海の寒風は凄まじい積雪をもたらす。一晩で一メートルなど稀ではなく因幡の雪に家持は、心も環境も閉塞された心地で人生も悲哀を覚えたであろう。
5月25日 さんさんと積もる因幡の雪

()()、初春()()律動的テンポは、さんさんと降り積もる雪のようである。楽し

かった平城の雪にかくも異なる感情をと思ったことであろう、だが、家持は、嘆きを歌に表さない。「いや重け吉事」と言霊の幸いへと転化したのである。 
5月26日 島流しの因幡

同僚の葛井連(ふじいのむらじ)諸会(もろあい)が平城の雪に歌った、「新き 年の始に 豊の年しるすとならし 雪の降れるは」を強く思い出したのではないか。

苦しい鄙の里の生活は、現在の因幡と異なり、島流しのようなものである。これは犬養孝先生が講義で述べられたが同感である。
5月27日 歴史は繰り返す、仲麻呂失脚 さて、政治の世界は激変する。天平宝字4年、光明皇太后が薨去、5年には孝謙太上天皇が病気となり石山寺近くの()()宮で療養。この時、坊主の道鏡が加持祈祷で孝謙太上天皇を治す。そして二人が仲良くなる。 これが藤原仲麻呂を刺激した。天平8年9月に仲麻呂が反乱の計画を起す。それが見つかり、仲麻呂が越前に逃げてゆく。その途中、琵琶湖・竹生島付近で遭難、近江の高島郡三尾の崎(明神崎)付近で惨殺された。仲麻呂の推した天皇・淳仁天皇は淡路島に流され、幽閉され廃帝となった。
5月28日 称徳天皇 称徳天皇とは、道鏡と仲良くなった孝謙天皇のことである。そして道鏡が法王となったのである。 そして道鏡があわや天皇にという時、和気清麻呂の宇佐八幡のご託宣により陰謀が壊れた。やがて称徳天皇が病気で亡くなられる。 
5月29日 奈良の都の終わり 道鏡が称徳天皇を弔っているところを逮捕され下野(しもつけ)に流される。そこで始めて、天智天皇の御子の志貴皇子の御子の白壁王が(こう)(にん)天皇となり即位される。 光仁天皇の御子が桓武天皇である。桓武の時、長岡京から平安京へと都が遷る。これで奈良の都の時代は終わるのである。
5月30日 「因幡国庁跡」 明るい、静かな田舎です。誰も来ない田舎のここに「万葉終焉の地」がある。 石碑が建っており、万葉の館もあるが、それよりも、雪のある日に行かれることをお勧めする。大伴家持の心境と万葉終焉の実感が湧いてくると思います。 
5月31日 淡路島の御陵 それは淳仁天皇、哀れな淳仁天皇の御陵が淡路島の福良(ふくら)にある。幽閉された翌年に脱出されようとして捕まり、三十三歳で悶え死にされた。 因幡(いなばの)国庁(こくちょう)(あと)と福良の御陵、これは万葉時代の終焉のシンボルと言えるのではあるまいか。そこに詩が見えてくる。