改革政治の内実

貴族層懐柔のための食封の制度

改新の詔に示された改革政治の施行によって最も打

撃を受けるのは、伝統的に在地の首長として地方に君

臨してきた族長層の人々です。彼らの反抗は十分予想

されるわけですが何故か改革に対するそれら旧支配

層の反抗はありませんでした。

結論から先に言えば、それはこの改革が徹底した改革

ではなかったからであろうと思われます。

恐らく、クーデターという手段によって成立をみた新

政権は、まだ支持基盤が弱体であり、ことさらに在地

の豪族層や主に中央に在した貴族層と真正面から事

を荒立てることを避け、むしろそれら旧来からの支配

層の懐柔につとめたのです。従って、改新の詔が示す

改革案は表面的には旧支配層の伝統的な地盤や利益

を無視しているように見えるものの、裏面においては

必ずしも旧特権が否定されたのではなく、旧支配層の

持っていた特権は形を変えて認められていたと考え

られるのです。

どのような点にそうしたことが認められるのかと言

えば、まず第一に「食封の制度」が設定されているこ

とです。これは公地公民制度によって土地人民の私有

を否定された旧支配層の救済策として五位以上の貴

族に食封を給付するというものでした。食封は一定の

戸籍の領有民(封戸)を認めるもので、後の律令制度で

は封戸の出す田租の半分と庸・調の全部が貴族に与え

られています。従って、貴族層は食封にあたられた封

戸を支配することらよって、実質的には従来と殆ど変

らない特権を持つことができたとみられます。

官職と職分田による地方豪族の懐柔

地方の豪族も在来の土地において、国司や郡司に任ぜ

られることによって、新政府の地方の下級官僚という

かたちで依然として地方の支配者としての地位を保

つことができました。即ち在地の豪族たちの実権はそ

のまま存続し、地方社会の政治的権威者たりえたわけ

です。

しかも、国司や郡司といった官職にある者は、口分田

のほかに職分田という職務に応じた田畑が給与され

ることになっており、ほかにも、位による位田。名田

などの特権班給田もあったのです。その結果、地方の

豪族はそれまで持っていた田畑の面積に相当する土

地を支配することができたと見られます。

 

大豪族の土地支配形態

さらに、一見すると土地人民の私有を禁じて著しく豪

族層に不利にみえる班田収受制ですが、その内容を具

体的にみると必ずしも豪族層に不利なものばかりと

も言えないことがわかります。

班田収受制は、親王以下、男女を問わず一定の条件を

満たす個人凡てに口分田を班給するというものです。

しかし、それでは各個人に定められた口分田がそのま

ま各個人ごとに与えられたのかと言うとそうではあ

りません。家を単位として与えられるのです。従って、

一家をなしている総人口の数に比例して口分田が与

えられるわけですから、大家族で多数の寄口や奴婢な

どを抱えている大豪族であれば、それだけ広大な土地

が班給されることになります。その結果、豪族の土地

支配の形態は旧来のまま残存していったとみられま

す。

 

註 口分田(くぶんでん)

  令制では六才以上の良民・官戸・(かん)奴婢(ぬひ)の男子は()(たん)(19.8アール)、女子はその三分の二、家人・()奴婢(ぬひ)は良民男女の三分の一が支給された。凡て()()(でん)であるが、官戸・官奴婢のは不輸租。班田制の崩壊により十世紀以降私田化した。

  親王(しんのう)

  天武天皇ごろに始まる皇族の称号。令制では、天皇の兄弟、姉妹・皇女を内親王(ないしんのう)という。親王は一品(いちほん)から四品の位階を受け、官職に任ぜられた。

  寄口

  戸籍上の一つの部類。個人または家族ぐるみ異姓の戸籍に編付されたもの。絶戸した戸の家族や、没落した戸のものが富裕な戸に引き取られたもので、戸主の同族、女系縁者・非血縁者など、戸主との関係は雑多である。

 

律令制の基礎づくり

こうみてくると、大化の改新は表面的には大改革に見

えますが、実質的には旧支配層の特権を形を変えて存

続させており中央、地方の貴族・豪族層の反感を余り

かわないでいんだわけです。

言い換えれば、改新の詔がかかげる公地公民制、国郡

制、班田収受制、税制には幾つもの抜け道が設けられ

ており、旧豪族層が勢力を温存することは十分に可能

だったとみられます。それゆえ、大化の改新は強い反

抗も受けず、一応、改新の詔が眼目とした政策は無事

施行され政府の思い通りに改革政治が進んだのです。

こうして大化五年に至るまで、ほぼ五年間でその初期

の目的は達成されたと見られます。大化の改新につい

て古くから、蘇我氏を打倒して、皇権(古代的天皇制)

回復を図った運動であると唱える歴史家もいます。あ

るいは、身分制の改革、特に農民の身分に変化がみら

れることから、農民を解放した社会革命であるという

学説も出ています。確かにそうした面もみられないこ

とはありません。然し、蘇我氏を打倒し一度は皇権が

回復されたかにみえても、蘇我氏に代わって官僚貴族

としての中臣鎌子、後の藤原鎌足が政権を掌握してい

たのですから、必ずしも皇権回復が成就されたとは断

定できません。

また、大化の改新が古い社会制度を全面的に改変した

ものでないことは今見てきたような旧勢力との妥協

を見れば明らかです。大化改新を以て社会革命と評す

るのも妥当ではないでしょう。しかし、大化の改新が

公地公民の方針の下に、ともかくも中央集権制を施行

したことは中央集権的な律令制の基礎を形づくった

と評するべきものです。

 

聖徳太子の政治思想と大化改新

律令制による中央集権的な国家体制への道

聖徳太子の政治理想の一端は集権的な国家体制の確

立にありました。しかし太子はその方向を示されたの

ですが、未だ具体的な改革は殆ど着手できないまま他

界されたのでした。それに対して大化の改新は既に律

令制による中央集権的な国家体制への道を歩み始め

ています。従って、太子の政治理想の一部は大化のク

ーデターの直後に行われた改新政府の施策によって

現実化に向ったといえます。

しかし太子がいま一つの大きな眼目とされていた天

皇主権を以て集権国家をつくる、或いは中国の隋・唐

のように皇帝権を確立し、その下で中央集権的な法治

国家体制を生み出す、と言った政治理想は大化の改新

後においても未だ主権者となるべき天皇の位置が明

確に確立されていない状態に終っており、進展がみら

れません。太子のその政治理想を「古代天皇制の確立」

というならば、依然として「古代天皇制の確立」から

は程遠い状態のままです。

大化の改新を遂行した国家は、確かにその支配機構の

中に孝徳天皇がおられ、その下に皇太子の存在があり、

皇太子を動かす官僚としての藤原鎌足らの存在があ

ります。しかし、藤原鎌足ら官僚貴族が政治の中枢を

占め、その上にあるべき孝徳天皇の身分や地位は非常

に軽く扱われています。

政治を動かすのが官僚貴族であって天皇自身ではな

いという点において、蘇我独裁時代に天皇が政治から

疎外されていた状況は本質的に変化していないわけ

です。氏姓制度社会の最高権力者である大臣として天

皇をさしおいて政治を思いのままにした豪族の長・蘇

我氏が滅び、代わって律令制社会の官僚機構を牛耳っ

て最高権力を掌中にする藤原鎌足がやはり天皇をさ

しおいて政治を操っているというだけです。従って、

大化の改新は天皇権については変革が及ばず、支配構

造だけけが変貌した政治改革であったと評すること

ができます。

このように見れば、聖徳太子の政治理想は少なくとも

その半分は大化の改新によってもまだ現実化へ向っ

ていません。律令制による中央集権国家体制という理

想は着実に現実化へと向い始めましたが、もう一方の

理想である天皇権の確立はさらに後の時代を待たな

ければならないのです。

逆に言えば、大化の改新後、律令体制の中でどのよう

にして太子が理想とされた天皇中心とする国家が確

立されていくか、それがこの後の時代を眺めていく上

で重要な視点ということになります。