新「騎馬民族征服王朝説」
平成27年5月

1日 新「騎馬民族征服王朝説」 古墳文化には不連続面がある。--江上教授はこう主張されているわけです。そして、ではその不連続面が生じた理由は何かという疑問に対し、それこそが騎馬民族による大和国家統一という史実を反映したものである、即ち古墳文化の不連続性を重要な根拠として新しい騎馬民族説を唱えられわけです。
2日 補強証拠 新説の根拠としては、この古墳文化に見られる突発的な変化という以外にも、傍証・補強証拠として次のような点もあげておられます。
3日 農耕民は伝統文化に固執 一般に農耕民は伝統文化に固執する傾向が強く、他民族の異質な文化を急激に受け入れることはなく、農耕民であった倭人も同様と考えられる。
4日 中・後期古墳文化の大陸北方系騎馬民族文化複合体としての性格は、日本がそれを部分的に或いは選択的に受容したというレベルの類似性ではなく、文化複合体が一体となって、そっくりそのまま日本に持ち込まれたと見るべきものである。
5日 馬とともに大陸から 弥生から前期古墳の時代には馬牛が少なく、中・後期古墳時代には多数の馬を飼育しているが、大陸から馬だけ移入されたとは考え難く、騎馬を常習とする民族が馬とともに大陸から多数日本に渡来したと考えられる。
6日 一般に騎馬民族は陸上だけでなゆく、海上を渡って制服活動を行う例が少なくない・蒙古・アラブ・ノルマンなどがそうである。従って、南鮮までその征服活動を行った騎馬民族が日本に侵入したことは十分考えられる。
7日 江上教授は騎馬民族聡まとめ 中・後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的文化であり、その広がりが武力による日本征服を暗示している。またその文化の濃厚な分布地域は軍事滝要衝が多い。以上のような理由をあげられて、江上教授は騎馬民族の日本侵入を認め、その侵入に基づく日本国家の成立を主張されるのです。そして、その侵入の時期としては、旧説で第四世紀前半と説かれたのに加え、さらに前期古墳文化と中・後期古墳文化の境目に当たる第四世紀末から第五世紀初頭を考えられたわけです。
8日
アラブ人
本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族の総称。現在では、アラビア語を使用する人びとの総称。西アジアから北アフリカにかけて居住。
9日 ノルマン人 ゲルマン人の一派。スカンジナビア半島及びデンマーク地方を本拠とし、航海に長じ、8-12世紀にヨーロッパ各地に移動。
10日 天神 天の神 地祇 地の神。国土の神。くにつかみ。
11日 騎馬民族の侵入経路 騎馬民族が、新鋭の武器と馬を駆って日本へ侵入してきたとしても、その征服経路はどのように考えられるのでしょうか。
12日

江上教授は、旧説においては、騎馬民族は一度だけ日本に侵入し、南鮮→日向→大和という経路で日本の統一を完成したと考えておられましたが、新説においては騎馬民族による統一国家の建設を二段階に分けて次のように考えておられます。

13日 天神と地祇の二系統

日本神話の神には天神と地祇の二系統があるが、天神は外来民族で、日本列島に原住した地祇(倭人)を先ず出雲と筑紫において征服あるいは懐柔して支配した。天神が南鮮から出雲や筑紫に渡来したと見られるのは、スサノオの命が新羅の国に到り、ソシモリから出雲に渡ってきたという所伝があること、またニ二ギの命が日向の高千穂のクシフルダケに天降ったとあるがそれが韓語であることなどから推理できる。

14日 第一回目の建国
第二回目の建国

「記紀」の伝承から見れば、天神である外来民族、とりわけそのうちの天降系(天皇系)の経路は、東満・北鮮(扶余・高句麗)→南鮮(任那・加羅)→北九州(筑紫)→畿内と考えられる。そして古墳文化との関連もふまえて、南鮮から北九州への侵入は第四世紀前半、崇神天皇によって行われ、これが我が国の第一回目の建国である。そして、第四世紀末から第五世紀初頭のころ、応神天皇によって北九州から畿内への東征が敢行された。これが第二回目の建国である。

15日 江上教授の結論

即ち、江上教授の結論は、北東アジアの騎馬民族が新鋭の武器を携え、馬を駆って第四世紀前半に朝鮮半島経由で北九州から本州西部に侵入してきて、第四世紀末ごろには畿内に進出し、そこに強大な大和朝廷を樹立した、ということになります。

16日

ネオ騎馬民族説と新騎馬民族征服王朝説

こう見てくると、江上教授の新説は私のネオ騎馬民族説に接近してきていることが分かります。恐らく、江上教授の旧説の変更・修正にはネオ騎馬民族説や井上光貞教授らの応神王朝論(これも北九州→畿内という王朝交替説を説く立場)が強い影響を投げかけたのではないかと思います。

17日 私の原日本人による大和国家説

然し、新説の第一回目の建国は崇神王朝に対応するわけですが、私が三王朝交替説で説くところの崇神王朝とは大和地方に発生した原日本人による国家であるのに対し、新説は南鮮任那にあった騎馬民族の首長クラスの崇神天皇がその居城を発して九州に侵入して建国をしたというのです。崇神王朝が侵略騎馬民族の九州国家であるとする点で、私の原日本人による大和国家説とは全く異なります。

18日 仁徳王朝

第二回目の建国は私の説く仁徳王朝に対比できます。この場合、騎馬民族王朝の東遷であるという点では共通しますが、新説が崇神王朝の一系的発展としてこの東遷をとらえるのに対し、私は崇神王朝と全く血統的つながりのない南九州の狗奴国王家の東遷とするのですから矢張り大きな違いがあります。

19日−22日 狗奴国の支配層の先祖である騎馬民族

また、私は狗奴国を騎馬民族出身者が支配層になっていた国家とみるわけですが、その支配層の騎馬民族たるゆえんは、新説が説くように第四世紀前半の騎馬民族・崇神天皇の侵入というような近接した時代に求められるのではありません。狗奴国の支配層の先祖である騎馬民族は、はるか西暦前に朝鮮から九州に入り、狗奴国を建国し、奴国が不振となって日向に狗奴国を建国したのです。
騎馬民族の侵入という衝撃的な事件と統一国家仁徳王朝が結びつくとしても、奴国の建国を西暦紀元前後とみれば、仁徳王朝までは約400年の時を経ていることになります。進入から最低でも400年以上たっているのですから、騎馬民族日本侵入=日本統一などという話にはならないわけです。

23日-
27日

騎馬民族と古墳文化

騎馬民族的国家としての仁徳王朝

江上教授の新騎馬民族説にせよ、私のネオ騎馬民族説にせよ、第五世紀の仁徳王朝(江上教授の立場から言えば、この時代も崇神王朝ということになる)か゜騎馬民族と関係する国家と見る点では一致しています。実際、仁徳王朝が騎馬民族と関係あることは、その軍事体制や相続制などに現れているのです。
仁徳王朝は朝鮮植民地の防衛や、その為の軍事力維持・増強と関係して日本統一運動を強力に推進し、東方開拓のために日本列島の東への征服戦争を常に企て、常時臨戦体制にある国家でした。
    騎馬民族と古墳文化
28日

騎馬民族的国家としての仁徳王朝

江上教授の新騎馬民族説にせよ、私のネオ騎馬民族説にせよ、第五世紀の仁徳王朝(江上教授の立場から言えば、この時代も崇神王朝ということになる)か゜騎馬民族と関係する国家と見る点では一致しています。
29日 仁徳王朝の基本的性格

実際、仁徳王朝が騎馬民族と関係あることは、その軍事体制や相続制などに現れているのです。仁徳王朝は朝鮮植民地の防衛や、その為の軍事力維持・増強と関係して日本統一運動を強力に推進し、東方開拓のために日本列島の東への征服戦争を常に企て、常時臨戦体制にある国家でした。このような仁徳王朝の基本的性格に対して私は「征服王朝」という呼び方をするわけですが、この征服王朝としての性格も騎馬民族ということから理解できるものです。

30日 女王国を滅ぼして、九州を統一し、さらに五世紀に東遷して難波に入ってきた

即ち、騎馬民族は父家長制的部族連合体を組織しますか、それが戦闘的・英雄的首長によって専制的に統御され勇猛な戦士部隊として機能するため、いわば常時臨戦体制にある強力な軍事国家となりうるのでした。騎馬民族はそうした強力な軍事力によって日本侵入を果たし、先住民である航海民「倭の水人」と称されるような倭人部族を従え、北九州に奴国のような航海者の国を建てたのです。奴国の支配層の一部は後日向に狗奴国を建国し、それが強大化して第三世紀後半には女王国を滅ぼして、九州を統一し、さらに五世紀に東遷して難波に入ってきたわけです。

31日 兄弟相続制

奴国以来、その間400年ほどが経っているわけですが、騎馬民族としての基本的な性格はなお残存していたでしょう。それが仁徳王朝に「征服王朝」たる性格を与えていたのだと考えられます。また仁徳王朝は、その皇統の兄弟相続制が災いして自滅するのですが、その兄弟相続制というのは騎馬民族に見られるもので、その前の崇神王朝が末子相続制をとっていたことと対照的です。