仏教の在り方の本質

釈迦は自分の苦悩解決のために修行したのである。他人の救済のためではなかった。これが釈迦仏教の本質である。

私は現代の僧侶を批判する。僧侶は道元禅師の如く墨染めの衣で良いのだ。金襴緞子の衣でのコケオドシは私の如く宗教の本質を知る者には、それは虚仮(こけ)に過ぎない、苦々しいばかりである。

大体、仏教の僧侶は、悩める者を救わなくてはいけない。僧侶が、若者がたむろして非行をするのを盛り場でお説教したら尊敬する。温かい、或いは冷房したお堂で、説教して、口だけで有り難そうに言うのは忌避する。

僧侶は、「背中を見せなくてはならぬ」のだ。自ら、賢明に日常生活の於いて、精進して生きる様を庶民に見せることで庶民の感銘を得るようにするのが本当であろう。

それを見て庶民が「いいな」と頭の下がる感情を抱かせてこそ、我々は寄進し喜捨をするのだ。 

釈迦仏教の本質「徳永流の見解」

一言で申せば、「法燈明」、「自燈明」であろう。徳永流の認識では、「法燈明」とは、大自然のあらゆるものは全て絶対的存在の「法」である。だから自然現象は「法そのもの」なのである。大自然を燈明、即ち「道しるべ」とすることが第一。その因果関係を学ぶことである。そして「自燈明」とは、その法燈明たる大自然の法の因果関係の中で生きる我々人間は、自分が強くしっかりして、他を頼ることなく強く、自分を頼りー燈明―として生き抜くことだと思っている。「拠り所は自分」ということである。己れが道を拓くしかないのだ。 

自燈明を示す釈迦の言葉がある。法句経の160番、「自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ」 

心を強く持ての言葉もある、法句経40番。「この身体を甕のように脆いものと知り、この「心」を都市のように「堅固なものとして」打ち立て、智慧という武器で悪魔と戦え。そして勝ち取ったものは、それに執着することなく護っていけ」  

人間の苦しみには全て原因がある
この世は「一切皆苦」、それには全て原因がある。

森羅万象は絶対法である、そしてその現象には全て原因がある。全ての現象には「因果の法則」がある。因果は「縁起」と「因縁」に分類する。あらゆる物事・現象は全て原因があるということ、原因があって結果がある。それらが繋がっている、因果応報の原理である。釈迦は科学者で、全てのものには原因があっての結果だと指摘された。この森羅万象を動かすものは「因果則」だと釈迦は言われた。科学的にも極めてまっとうな指摘であり、釈迦は現実的、近代的、科学的な思考の持ち主であった。

かかる見地での結論、あの世に就いても釈迦は言われなかった。死後の世界には指摘はなかった。自分しか頼るものはない、自分をしっかり強く生きなさいといわれた。これで釈迦の本質は言い表すことができるのではないか。 

 

仏」は釈迦。「法」は釈迦の教え。「僧」は現代の惰弱、通常人間に過ぎない、否、門前の朝の掃除も他人任せの修行しない日本の僧など思い浮かべてはならぬ。当時のサンガという僧集団のことである。この三つを「三宝(さんぼう)」と言うが、現代的には「二宝」・「仏・法」であろう。日本も古代から「篤く三宝を敬え」と聖徳太子の十七条の憲法にもあるが、当時の仏教は国家仏教であり、個人救済仏教ではない。混同してはならぬ。僧は外して「二宝」良いと思われる。

       

鳥取木鶏会 会長 徳永圀典