優れた祖先を、知るべし、学ぶべし「5」
平成22年5月度
1日 | 上杉謙信 (1530〜1578) |
生涯すべての戦が「義戦」であり、私欲の為に戦ったことがない不敗の戦国武将、越後の龍と云われた。 | 越後の守護長尾為影の末子、幼名を景虎、観音菩薩の信者であった母のもとで育てられ、慈悲深い少年に成長した。 |
2日 | 慈悲深い少年 | 7歳の時に城下の林泉寺に入れられ名僧天室光育から厳しく文武の道を習う。9歳で帰城、1542年に父が亡くなり、兄の晴景が後を継くが力がなかった。 | 為に1548年彼が継ぎ国内の統一を図る。 そして、関東の北条氏康に追われた上杉氏から系図を譲られ、上杉を名のり関東管領となる。 |
3日 | 義の人・謙信 |
1553年と1559年の2度にわたって上洛、天皇や将軍に拝謁し深く信頼された。甲斐の武田信玄とは、川中島を中心に前後11年間戦ったが |
結局勝敗はつかなかった。彼は、どんなときでも、領土的野心で戦いをしたことは一度もなかったと言われた。 |
4日 | 1573年信玄の死により戦局好転、越中から能登に進んで七尾城を落とす。然し北陸で新たに織田信長との軋轢が生じ、 | 1577年には織田軍を加賀で打ち破った。しかし翌年、関東出兵を前にして、突然、春日山城内で急死、49歳の生涯を閉じた。 | |
5日 | 武両道 | 彼は、朝廷と室町幕府を再興したいという大きな夢を持っていたが、叶わなかった。文武両道にたけた人で、和歌、茶道、謡曲の嗜みも深く、信仰 | も厚い。産業を興し、租税を軽減、商工業や鉱業を盛んにするなど民政にもよく心を用いた名将。敵国の甲斐の住民に塩を送った逸話は有名。生涯独身。 |
6日 | 辞世の句 | 「一期の栄 一盃の酒 四十九年 一酔の間 生を知らず また死を知らず 歳月ただこれ 夢中のごとし」 | これは謙信の死後に発見された辞世の句。彼はこの句から理解出来るが大変な大酒飲み、彼の突然死は、酒が深くかかわっていたのではないか。 |
7日 | 敵に塩を送る |
今川氏真が北条氏康と同盟を結んで、遠江・駿河・伊豆から甲斐に送っていた塩の輸送を停止し、商人の往来を禁止した。 |
岩塩の産出しない甲斐や信濃では、塩止めによる戦略的効果はきわめて大きく、信玄は怒りながらも激しく動揺した。 |
8日 | 謙信は「北条・今川両氏は、戦争で武田に勝つことができず、塩や魚で苦しめるのは余りにも卑怯なやり方だとした。我が戦いは弓矢であり、米塩の戦いではない。 | 武田は敵といえども見殺しにすることはできない」と言い、塩を安くして甲斐に送ることを信玄に通告した。「敵に塩を送る」と言う言葉は、謙信が宿敵である信玄に塩を送ったこの話からできた。 | |
9日 | 信玄の遺言 | 彼は敵である武将たちからも信頼され、かの武田信玄も「あのような勇猛な武将と事を構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。 | この信玄は、大人げなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、謙信と戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と、その子勝頼に遺言した。 |
10日 | 謙信だけ | 謙信の好敵手であった相模の北条氏康もまた、「信玄と信長に表裏常なく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。 | だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」と、語った。 |
11日 | 威風堂々 |
1559年2月、北条氏政が二万の兵を率いて佐野昌綱の居城を囲んだときのことである。謙信はこれを聞いて八千の軍勢を率いて救援に向かった。 城が危いと聞くと、「後詰(救援軍)は自分に劣らぬ侍大将が多くいるので心配はない。 |
肝心の佐野の城が心配だ。まず自分は城に駆け入って力を貸そう」と言って、武装もせず、黒木綿の胴服を着、十文字の槍を横たえ、たった二十三騎を率いて氏政陣二万の目の前を、馬を静かに歩かせて威風堂々城に入った。 |
12日 | 夜叉羅刹 | この様子を見ていた敵の軍兵は、ある者は恐れ、ある者は見とれ「夜叉羅刹とはこのことにちがいない」と、近づく者もいなかった。 |
城将・佐野昌綱は謙信の馬にすがりつき「毘沙門天様!」と泣きじゃくったといわれている。 |
13日 |
「毘」と「龍」の旗。 |
毘沙門天は仏教を守護する武神であり、左手に宝塔を捧げ、右手に矛をたずさえ、人々に幸福を授け、妨げるものを打ちひしぐ降魔の神。 |
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14日 |
謙信は深く毘沙門天を信仰しており「我に武運を垂れ賜え、されば生涯女体に触れず」と誓ったといわれている。 |
これは、謙信が生涯妻妾を持たなかった大きな原因の一つとされており、謙信は出陣する際には、必ず毘沙門堂にこもって戦勝を祈願したと言われています。 |
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15日 | ちなみに、白地に「龍」の字を記した旗は「懸り乱れ龍の旗」といわれ、 |
全軍総突撃の際に用いられ、龍の字のうねるが如く敵陣に乱入する意味を表している。 | |
16日 | 北越軍談 |
北越軍談によると、謙信の誕生にかかわるこんなエピソードが書かれている。母・虎御前の夢枕に20歳ばかりの修験者が現れ「あなたの胎内をお借りしたい。」と頼んできた。 |
虎御前は「私には夫があります。夫の許可無く承諾できませぬ。」と断った。翌日夫の為景にこの夢を話すと、「これは聡明な男児が授かる嘉兆であろう。と許した。 |
17日 | そこで、精進潔斎し、神祇を祀り、美酒・珍菓を供えて床に入った。すると昨夜の修験者が夢枕に現れ「我は坂東箱根山のものなり。 |
しからば胎内に宿りはべらん。」と言って、彼女の左の袂入ったのです。 こうして翌朝、虎御前は謙信を懐妊したといわれている。 |
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18日 | 執念の石 | 「執念の石」 、「川中島の戦いで、上杉謙信が武田信玄に切り込んできた時、武田の家臣・原大隅が謙信に槍で突こうとしたが失敗。信玄も一命を取り留めたが謙信がこれ |
ほど近くに接近しながら討ち取れなかった無念から原大隅が石に槍を突き通したという伝説の石。」 というものが川中島古戦場(八幡原) にはあるそうだ。 |
19日 | 本居宣長 | (1730〜1801) しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花 |
江戸時代中期の国学者 |
20日 | 伊勢(三重県)松坂の木綿問屋の子として生まれた。父の死後家業が衰え、京都に出て医学を学び | 医師の免許を得て帰郷。小児科を開業、名を宣長、医師名を春庵と号して診療を開始。 | |
21日 | 松阪の一夜 | 1763年、彼は、尊敬していた賀茂真淵と対面げ、「松阪の一夜」として知られる会見をした。これを契機に「古事記伝」の執筆にかかる。 | この年彼は真淵に正式に弟子入り、手紙のやりとりを通して教えを受けながら、古文献に関する研究を進め35年の歳月をかけて1798年に大著「古事記伝」を完成させた。 |
22日 | 彼は、書斎を鈴屋と名づけ、諸国に多くの門人をもち、たびたび旅行に出かけた。その後、天明の飢饉にあたり紀州藩主から政治上の意見を聞かれ「玉くしげ」を上呈。 | 彼は、外来思想、とくに儒教思想に反対、復古主義的な古学を唱えた。 古代の神話研究には後世の人の主観をいれず、ありのままに古代人の心と事実を主張した。 |
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23日 | もののあわれ |
そして、人間のありのままの素直な心の動きを「もののあわれ」と名づけ、このもののあわれを表現することこそが文学の生命だと説いた。 |
彼は、1801年9月29日に72歳で逝去したが、遺言により山室山に葬られ、そこには、1本の山桜が植えられていると言う。 |
24日 | 鈴屋 |
彼は、自分の書斎の柱に36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を取り付け、研究に |
疲れると鈴を振って、その音を楽しんでいたといわれている。 |
25日 | 島津斉彬 | 江戸末期の薩摩(鹿児島)藩主27代藩主島津斉興の長男、幼い頃より江戸で育った彼は、 |
曽祖父島津重豪の影響を強く受け、西洋文化に強い関心を持ち、和漢をはじめ洋学にも通じる先見性豊かな人物となる。 |
26日 | 然し、父斉興や薩摩藩家老たちは、重豪の影響を受けた斉彬が、重豪のように藩費を浪費し財政難を来たすことを恐れ、斉彬の藩主就任は遅れた。 |
そして1851年幕府の介入により、斉彬は42歳にしてようやく藩主に就任した。 | |
27日 |
そして、西郷吉之助 (隆盛)、大久保一蔵 (利通) ら下級武士を藩政に登用し,財政改革に尽力しました。 |
あわせて洋式近代産業の育成・振興に力を注ぐ。まず1851年、鹿児島城内に製錬所を建設。ここで、いろいろな製造実験が行う。 |
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28日 |
成功したものは |
もの職人が働く一大洋式工業団地が完成、彼は製錬所を「開物館」、磯の工場群を「集成館」と名づけた。 |
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29日 |
彼の行った藩政改革により溶鉱炉、大砲などの火器の製作、ガラスや火薬、電信機やガス灯など、当時の最新技術といわ |
れるものを藩内で製造できる環境を整えた。薩摩藩は幕府よりも革新的な富国強兵を実現しようとしていたのである。 |
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30日 | 軍需だけではなく、紅ガラスの製法も研究させ、銅粉で暗紅色の、金粉で透明な紅色ガラスを製造に成功。 |
当時鹿児島を訪れた外国人からも一級の美術工芸品として高く評価された。 | |
31日 | また、城内に電信を架設し、洋式軍艦を建造し、日章旗を日本総国船印と |
して幕府に認めさせるなど、啓蒙君主としてのめざましい治績を残した。 |