好きな歌人・好きな歌


平成21年5月度

 1日 藤原

年ごとにかはらぬものは(はる)(がすみ)たつたの山のけしきなりけり
  
 (金葉和歌集巻一)

いつの年も変わらぬ風情なのは、春霞が立つこのごろの、龍田の山の姿だ。

 2日

取り立てた技巧もない自然な思いの歌でるが、この季節の、おだやかな風景を素直に表現し好感が持てる。

各地の山を歩く私だが、山の風景は、この季節は穏やかで素晴らしいものがある。韮崎あたりから見た鳳凰三山、上には残雪、中ほどが一面のピンクその下が淡い蓬色の新芽で萌えている。こんな景色はザラにはないように思える。

 3日

藤原(ふじわらの)(あき)(すけ)は、この歌より「小倉百人一首」にある 
秋風にたなびく雲のたえまよりもれいずる月のかげのさやけき               (新古今集・巻四)   

は有名な和歌で多くの方々はご存知であろう。

どちらの歌も自然に何の抵抗もなく心に沁みこむ。 

この方の時代は、白河・鳥羽の上皇の院政が続き、そこに崇徳院がからみ、武士が勃興、保元の乱も近い政情不安な頃であった。

 4日

藤原師(ふじはらのもろ)(ざね)の屋敷の「うれしさ」という名の侍女に思いをかけて、

我といへばつらくもあるかなうれしさは人にしたがふ名にこそありけれ 

と言う歌を送ったが、主人の師実が聞きつけ、それ程の秀歌には返歌もなるまい、お前がすぐ行きなさいと言って行かせたという話がある。和歌も活発で、この方も優れた和歌を多く残している。崇徳院の院宣により「詞花和歌集」も撰んでいる。勅撰集にも八十四首入っている。 
 5日 上杉謙信 もののふの(よろい)(そで)片敷(かたしき)きて 枕に近き初雁(はつかり)の声

     (北越軍談) 

越中は魚津城に陣を進めた時の歌、陣営の緊張感が凛然として響き渡る思いがする。 

もののふは、武人、鎧の袖を枕にして陣中で仮寝をしていると、雁の鳴き過ぎて行く声がこの枕近くまで響いてくるという歌の境地である。 初雁とは秋初めに渡来してくる雁のことである。冴えた鳴き声、ああ、もう秋だという感懐と戦の陣営の緊張感が交響して引き締まる思いがする。

 6日

もののふは、武人、鎧の袖を枕にして陣中で仮寝をしていると、雁の鳴き過ぎて行く声がこの枕近くまで響いてくるという歌の境地である。 

初雁とは秋初めに渡来してくる雁のことである。
冴えた鳴き声、ああ、もう秋だという感懐と戦の陣営の緊張感が交響して引き締まる思いがする。
 
 7日

謙信は、戦国武将、越後守護代・長尾為景の子、のち正虎・輝虎とも名乗り、仏門に入り、不識庵謙信と号する。生涯独身。

謙信は、義理堅く、義侠心強く、窮地に陥った関東管領・上杉憲政を助け、憲政から上杉の家名と関東管領の職を譲られた。
 8日

謙信は、正義と信じたら猛虎の如く、まっしぐらに突入、火のの出るような戦いをした。 

武田信玄に追われた村上氏を助けて信濃に出兵、川中島で信玄と激戦をした逸話は名高い。
 9日

謙信は、和歌に心をうちこみ、多くの公家たちを感服させたと言われる。この歌の「歌碑」は魚津城址(魚津市大町小学校校庭)に建てられている。 謙信は、あと能登七尾城を攻め落とした時、漢詩を残した。 

「霜は軍営に満ちて秋気(しゅうき)清し、数行(すうこう)()(がん)、月(さん)(こう)・・・」。

10日

謙信は、続いて織田信長軍を蹴散らしつつ能登・加賀から越前に入る。その時、野営したとき、初雪にみまわれる。
 野伏(のぶし)する(よろい)(そで)(たて)()みな白妙(しろたえ)のけさの初雪 

野営している兵士たちの武具も、みなすべて雪にまみれ、一面真っ白だ、当時の緊迫した戦陣の実感が見事に表現されている。このような歌は、和歌史上、謙信のみだと言われる。 
11日 源実朝(みなもとのさねとも)

大海(おおうみ)(いそ)もとどろに寄する波われてくだけて()けて散るかも

(金槐(きんかい)和歌集)

なんど口ずさんでも心地よい、私のとても好きな和歌の一つである。実朝の歌を大変に愛している。

12日

兄上である源頼家(よりいえ)が、北条氏に抵抗したことで、二代将軍の地位を失い、伊豆の修善寺に幽閉されてしまったから実朝は将軍にされたのである。 

この時から北条氏が執権(しっけん)として鎌倉幕府を支配することとなる。兄、頼家(よりいえ)は翌年、北条時政の手勢により殺害され、実朝の前途に暗雲が漂うのであった。
13日

実朝は、このように名ばかりの将軍であった、だが、京文化に憧れる詩心が豊かで信仰心の篤い少年であった。 

実朝は十八歳になると、詠歌二十首を住吉社に奉納し、やがて、あの歌聖・藤原定家の直弟子となるのである。

14日

藤原定家は、実朝のために「近代秀歌」を書いているが、その中で、 

「言葉は古きを慕い、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願い、(かん)(ぴょう)以往(いおう)(六歌仙(ろっかせん)時代)の歌にならはば、おのづから宜しきこと」と教えている。

15日

実朝は、二十二歳のとき、それまでに詠んだ九十一首をまとめた「金槐(きんかい)集」を後鳥羽上皇に献上した。この「大海の」の歌はその中の一首である。
       ・・・割れて・・・裂けて・・・・砕けて・・・散るかも

という語調は、激しい胸の高揚、高鳴りが聞こえるようである。
大海原を前にきりりと立ちはだかる若武者の逞しい姿が彷彿とするが、実朝の心の奥には運命的な、空しさの影が潜んでいるように思える。
16日 人麻呂並みの歌と定家はいう 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ  

                  (金槐(きんかい)集)

実朝の歌の師、藤原定家は、「鎌倉右府(うふ)の歌ざま、おそらくは人麻呂・赤人をもはぢ(かた)く、当世(とうせい)、不相応の達者とぞ覚え(はべ)る」(愚見抄(ぐけんしょう))、と述べた。

17日

万葉集を代表する二大歌人、柿本人麻呂や山部赤人にも劣らない、今の世にふさわしくないほどの名人だという賛辞を述べているのである。 

実朝は、右大臣(右府)に任じられた翌年も鶴岡八幡宮に拝賀の夜、兄頼家の遺子、公尭に暗殺されて、二十八歳の生涯を閉じた。
18日 数々の傑作

北条氏の圧力で生命の危険を感じておりながら、歌の道に精進し、そのなかに生甲斐を求め、数々の傑作歌を後世の遺している。

おほきみの勅をかしこみちちわくに心はわくとも人にいはめやも 

19日

山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王あめやめ給え

20日 素朴で素直

その時々の実朝の心の影が深い所に届いて珠玉のような素朴で素直な歌と私は思う。

時の権力者北条義時に、将軍の理想を塞がれ悩みながら、現実を超越し精神世界に遊んだ歌人実朝、

21日 この国に生まれた者

「おおきみの勅をかしこむ」その心に私は格別に惹かれる、

そこにこの国に生まれた者のみの知るものを共有するからでもあろうか。

22日

田安宗(たやすむね)(たけ)

信濃(しなの)なる大野の御牧(みまき)春されば小草(をぐさ)()ゆらし(こま)(いさ)むなり

(天降(あもり)(ごと))

田安宗(たやすむね)(たけ)は名将軍・徳川吉宗の子である。信濃の大野の御牧場では、春になって草も萌え出できたらしい。駒たちも殊更に勢いこんでいるよ。春となると動物たちも自然とそうなるのであろう。

23日

そのような生命の躍動感を感じる。勇む駒が目に見えるようである。宗武は、文武両道にわたり父親の教育のもと、生来の英邁な天性を開花させた人と言われる。 儒学は、室鳩巣(むろきゅうそう)

和学・和歌は賀茂真淵(かものまぶち)に学んでいる。
倫理的な、また人生主義的な議論を展開し、徳川時代の代表的な文学論争の一つと言われる。
24日 宗武は、万葉集を真淵に深く学び、古の風を尊んだ。

宗武の歌風としては、まさに「大名ぶり」とも言うべき気品の高さがあると言われる。 

(たて)なめてとよみあひしにもののふの小手指(こてさし)(はら)はいまはさびしも

降る雪にきそひ狩りする狩人(かりうど)熊のむかばき真白(ましろ)になりぬ

25日

国歌  君が代

詠み人知らず

君が代は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

世界各国の国歌の歌詞を幾たびも読み直してなんという血生臭い外国の国歌であろうか、これでは到底、世界平和など、おぞましいことであると妙な結論に達している。

26日

他国の国歌と比較して、我が日本国の国歌は実に素晴らしい。先人に心からの感謝をしなくてはならない。 

君が代は「和歌」である。
延喜五年、905年編纂の「古今和歌集」巻七「賀詞」の巻頭にある。
27日

この和歌は、元々「わが君は」となっていた。君は、天皇に象徴される日本の国家即ち国民のことであり、永久の繁栄を、さざれ石が凝結した(いわお)に成長する長い歳月に(たと)えた寿(ことほ)ぎの歌である。 

雅楽の趣を帯びた曲であり、国際的にも高い評価があるのを知らぬのは、愚かで無知なイデオローグの一部の人々だけである。 

私は、堂々と、どこにても、声高らかに、矜持を以て、唱和することとしている。
 

28日 詠み人しらず なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる 

この歌を覚えたのは少年時代であろうか、親の言うのを聞いたのか近所のおばあさんから聞いたのかわからない。
29日 自然の中の、崇高な力を感じた日本人

だが、この歌を口ずさむ時は、不思議に、敬虔な気持ちが湧いてきて手を合わせたいような思いにかられてきた。 

「おはします」、自然の中の、崇高な力というか、私を育て見守って下さる神を感じていたのであろう。
30日

森厳な神社に参拝すると、この「おはします」を強く実感する。多くの日本人は慣れ親しんでいる歌であろう。 

詠み人知らずのようであるが、一説では西行さんとも言われるが、西行さんの歌集には記載されていないそうだ。
31日 (とお)祖先(みおや)から連綿と抱いてきた民族の心
この4月で満78歳、かたじけない思いをつのらせている。

この歌の、へり下った、純粋にして、敬虔な、優しい心情、

「人間を超越する存在」に対する日本人の心をぴったり表現している。
  

天地自然、森羅万象、万物に神々は宿るという日本人の、素朴で大らかな宗教心、日々、なんとか健康で生きさせて頂いていることに「かたじけない」という謙虚な思いは、それこそこの日本列島の(とお)祖先(みおや)から連綿と抱いてきた民族の心であろう。