徳永の「宗教理」
一、
極楽浄土
仏教は、あの世で極楽浄土をと説く、南無阿弥陀仏と唱えれば浄土へ行けると説法の僧侶。
二、
キリスト教は天国へ行けると説く。
三、
イスラムは一日五回の大地投地を求める。
四、
お釈迦さんは、一切、あの世のことは言われなかった。死したら鳥に私の体を与えよとも。
五、
釈迦の教えの根底は、この世は「苦」であるのみでした。「生・老・病・苦・死」です。釈迦は現実の人間を見てそう確信された。そして、森羅万象こそ「法」だと、大自然の法に従いなさいと。
六、
これは、普通の人間にとり、極めて苦しいことです、余りに夢がありません、然し、人間とは本来そのようなものであります。
七、
そこで釈迦の亡くなられた500年くらいに、釈迦の思想から生まれたのが、あの世の仏様の阿弥陀仏、或いは、南無観世音と唱えれば救われるととか、大衆庶民の心を救う仏が、新興宗教が生まれたのであります。これが大乗仏教、庶民はお題目を唱えて死ねば極楽に行けると信じた、それが一番楽なのであります。
八、
日本仏教の祖師たち、鎌倉時代、当時の庶民は、戦乱と飢饉と戦乱で、まさに「この世の地獄」でありました。そこに浄土宗の法然、日蓮宗の日蓮とか、後に親鸞とか現れて庶民の救済に説法を始めた。この世では救われる見込みのない庶民に、仏法を信じて南無阿弥陀仏と唱えれば極楽の浄土に生まれると説いた。
九、
それ以前の飛鳥時代、草創期の仏教は、「国家仏教」であります。国家鎮護のみでした。比叡山ですね。東大寺もそうであります。
庶民に向けた仏教ではなかったのです。この事を知らぬ人が案外多い。
十、
さて、ここから徳永の「宗教理」であります。
1.
広く地球を概観しますに、私は、人間は、
地球の存在物=BEINGとして、動植物はすべて同一の存在物だと、この年になりそう直観する。他の動植物と同様な「生命の共有物」でありましょう。存在物としては同一の存在であります。
2.
人間のみ特別の恩恵はないものだと思う。ただ人間は頭脳が発達し、「心」を持つ。だから文化文明を発明し願いとして宗教さえ創造した。神仏を創ったが、利益、お賽銭で、特別扱いされるものではない。
3. だから、死ねば極楽とか浄土とか天国とはありえない。それは人間の願望でありましょう。
浄土宗の総務総長、宗主に次ぐトップの寺内大吉(作家でもある)という人が「私の知性において極楽は無い」と発言して問題となり失職したことがあります。その通りだと思います。
4.
ここで、私の出番でありますが、私は宗教の本質は「心」だと思います。或いは「祈り」と申してよいかもです。祈りしか宗教の本質はありません。
5.
だから、金銭にまつわる宗教はすべて「似非」であります。
十一、以上、縷々説明しました結果は、
現生をこそ、極楽、浄土にしなくてはいけないが私の「宗教理」であります。
それには「心」しかあり得ないと思うのであります。
平成29年4月8日 徳永圀典