安岡正篤先生「一日一言」 そのG

平成25年5月

1日 三Qの時代その1

専門家が現代は三Qの時代.の時代だと言っている。第一のGはグレイト・チェンジ、大いなる変化ということである。いわゆる科学技術の発達によって今までの世界の人々が想像もし得なかった大いなる変化を生じた。この分でゆくと今世紀の末、或は21世紀ともなれば、想像もつかぬような偉大なる発展、従って偉大なる光明、幸福があろうと、いわゆる文字通り文明を期待した。

2日 三Qの時代.その2. それが、とんでもないことで、このままゆくと、今まで誇りにし、礼讃してきた文明が、人間を幸福に導き、光明に導くものではなくて、寧ろ非常な暗黒、禍、悩み、滅びに導くのではないか。今まで大変な光明、救いであると思っておった大いなる変化が、いづくんぞ知らん、グレイト・イリュージョン、幻想ではないかと考えるようになった。これが第二の変化です。
3日 三Qの時代.その3. そこで今のうちに目が覚めないと、人類を殊に文明人類を滅亡に駆り立てるかもしれない。一日も早くこの危険から目覚めなければならんと言うので、グレイト・アゥエイクニングが必要である。グレイト・チェインジがグレイト・イリュージョンになって、それがグレイト・アゥエイクニングを要すると言うので、これを三Qの時代と言う。
4日

民族とは精神である 1.

私はどういう因縁か大学時代から、特に中国を中心に、日本の栄枯盛衰の歴史を学び、世に立ってからは近代日本の大正以来の変遷をつぶさに身を以て体験して参りました。国家の機密にも常に参画し、戦前・戦中・戦後と激変して参りました日本の時勢を身を以て体験して参りました。そして今もそれを体験しておるのでありますが、そういう学問の体験に徴して今日の日本、明日の日本というものを考えた時、なんとも言い知れぬ大きな危惧を抱かざるを得ないのであります。
5日 民族とは精神である 2 まかり間違ったならば、恐らくここ数年の日本は収拾すべからざる混乱に陥って相当期間、暗黒時代・恐怖時代が来ないとも限らない。もしさような場合に陥った時、いかにしてこの日本の民族・同胞は救われるか。これはもう精神でなければ救われませぬ。絶対に物質では駄目であります。
6日 民族とは精神である 3 あの名高いギボンの「ローマ衰亡史」という名著があります。彼はその中でつぶさにローマの衰亡の史実を検討して、その結論の一つとして、民族とは何ぞや、民族とは精神である、と言うことを論断しております。つまり形のある民族というものは実に頼りないものだと言うのである。
7日 民族とは精神である 4. 例えば、イスラエルという所は、ユダヤ民族の聖地でありまして、今日もある意味ではヨーロッパとアラブの争いの火元のような所でありますが、然し、昔のイスラエル民族というものは今日ほとんど無いと言って宜しい。またあの世界の学問の一つの発祥地であるギリシャにしても、その文化の遺産は今日も遺っておりますけれども、ギリシャ民族は、今日あると言ってよいのか、無いと言ってよいのか、わからぬ程に民族の血のつながりと言うものは無くなってしまっております。ローマもまた然りであります。シーザーやプルタスのあのローマ人は、もはや今日亡んでおるといって宜しい。要するに、これはみな精神的頽廃によって亡んでおるのであります。どんな学問をするとか、どんな産物を出すとか、或はどんなに経済を開発するとか、というような事は、成る程現実的には重大な問題に違いないけれども、永遠という性命から言うならば、そういうものは極めて儚いものであります。何が民族であるか、という民族の第一義に立てば、いかにして精神、民族精神を養ったか、ということが民族の全てであって、これはもう東洋では古くから先哲の言うことでありますけれども、長い目でみると結局は精神に帰するのであります。 
8日 成徳達材 吉田松陰が有名な士規七則の中でも、「成徳達材には、師恩友益多きに居る。故に君子は交遊を慎む」と掲げてある。天稟が良ければ良いほど友益が要るので、徳を成し、材は要するに才であるから、人間の要素で言いますと、最初に言った知能とか技能とすいうものにあたる。一方は人間の本質的要素であるところの徳性。つまり人間の本質と目的、両方の要素がこの言葉の中にちゃんと含まれておる。人間を完成させるのには「成徳達材」である。そして徳を成し材を達するのには「師恩友益多きに居る」と言うのであります。出来が良ければ良いで、悪ければ悪いで、寧ろ良いほど師友というものが大切な要素なのであります。  (人生の五計)
9日 知己の恩情 明師良友は我々の隠れたる内在の性に通ず道を(ひら)き、我々をこの道に鞭撻(べんたつ)する。我は何であるか。真実何を()つかを(てっ)(けん)せしめる。人には種々の豊富な潜在的能力(才徳)があるが、丁度色彩に対する鋭敏な感覚を有する画家の作品によって始めて我々も自然に於ける色彩美を感知し、今まで単純な音響しか聞く耳を持たなかった者が微妙な音楽家の弾奏によって始めて音楽の世界を発見するように、人の潜在的能力も明師良友を持って様々な風情を現じ徳音を発する。師友の情と義とは是の如く(じん)(じん)微妙(びみょう)なものであるが、尚師友に関して特に「知己の恩情」を知って置かなければならない。
10日 有り難い知己 なぜ世人は我が魂に触れてくれぬのか。自己が純真に生きようとすればする程、世人は我れを怪しみ、我れを(うと)んじ、我れを(おとしい)れる。自らが自らに対する不満寂寞(せきばく)と共に、自らが社会に対して感ぜられるこの不満寂寞は一層我々を悩ましくする。自性を徹見せんが為には身命を惜しまぬが求道者の覚悟であるが、人は同時に己れを知ってくれる者の為には身命を捧げて惜しからぬ感恩の情を覚える。真の師友は換言すれば、この有り難い知己に他ならない。故に、後世知己をまた「知音(ちおん)」とも謂う。我々ら親の亡いことは避けられぬ不幸である。然し師友の無いことは不幸の上に、不徳ではあるまいか。我々はやがて親とならねばならぬ。それと共に我々は叉何人かの、出来るならば国人の、衆生の師友たらねばならぬのである。 (東洋倫理概論)
11日 日本精神の妙所 日本精神の妙所は前にも説いたように尊い感激の対象に没我になって参じてゆく点にある。換言すれば自分が飛び込んでゆける、ぴったり呼吸の合う相手が欲しいのが日本人の気質である。それがあると忽ち生活が元気づく。けれども、そんな感激がなければこれではならぬと知っていても、どうも元気が出ない。面白くない。近代の日本人はつまりこの悩みに苦しんできたのである。
12日 打算的社会 学校に行っても、先生はもはや真実の籠った心に響く講義をしてくれない。先輩を訪ねても、いわゆるスイートホームの殻を蓋じて、若者を喜んで迎え共に飲み共に語ろうてくれることがない。上役と下役、同輩の間、いずれにしても事務的交渉、打算的社交以外興味索然たるものである。村に帰っても、お寺にも、学校にも、役場にも、一向話し相手になる面白い人物がいない。随って面白いこともない。世の中に知音のない程淋しいことはない。                  (経世瑣言)
13日 人間破壊 メトロポリスがさらに都市連続をしてエキュメノポリスとなる。それは国全体が一つの大都市のようになることである。そのように都市が拡大するにつれて個性というものが無くなり、それは要するに生命が乏しくなって、一つの複雑な、殺風景な、雑駁な共同生活体になる。人間世界がまるで大きな鳥小屋か兎小屋みたいになってしまう。恐るべき大衆の雑然・紛然たる群居になってしまって、そこは何ら人間的な情趣、生命というようなものが無くなっていく。つまり非常に荒んでゆく。そこから人間が頽廃し、あらゆる犯罪が行われ、都市は発達するけれども人間は機械化し、動物化し遂には破壊してしまうのではないか、こういうことが、今や世界の文明国であればある程共通の悩みになつております。その代表的なものの一つが我が日本であります。
14日 老農の言葉1

虫に食われて腐ってきた日本
先日、一人の老農に会った。彼はしみじみ私に述懐して、悶々の情を訴えるのであったが、私の方も深く感動した。彼は言う。日本はすっかり虫に食われて腐ってきた。人間がこれほど我侭になり、横着になり、若い者がなさけないほど自堕落になり、意気地がなくなり、犯罪も信ぜられぬほどひどく、嘘や恥知らずが平気になっては、もはや何ともしようがあるまい。選挙と云っても正気の沙汰ではない。私は農民のはしくれだが、こんな民主主義なんて話にならない。ソ連や中共のことなど何も知らぬが、どうも日本に対してすること、なすこと総て横着な悪党としか思えぬ。それに対して、日本側は意地も張りもないではないか。それどころか先方にひたすら取り入ってそのご機嫌を取っているように思われる。何だか、その中どうにも手のつけようのない内乱が起こるのではないかと言う気がする。大地震がやってくることは間違いない、とその道の専門家が断言しているそうだが、その時の惨状は想像も及ばない。
15日 老農の言葉2

そこで、先生に伺いたいのだが、私はこう思っている、どうせ免れない災厄なら、私は人間同士がいがみ合う災厄・内乱より、私も逃れられないかも知れないが、天災・地震の方が日本人の為にまだましだと。人厄は恨みが残る。天災はどんなに酷くとも諦めがつくし、人間が反省し、戒慎する。それで私は、どうか地震で済ませて下さいと神様に祈っているんです。先生この私の考えは間違っていますか。私は次第に襟を正して聴き入った。彼の言うことは真剣で、真実である。くたばれ、日本人!と放言する者も沢山いる。それはつまらぬ捨て台詞にすぎない。然し、この老農の切々たる意見には全く感じ入った。   (憂楽秘帖)

16日 功利学問
1
功利学問は、先ず第一に若人の純真な生命を毒し()()や情意を(すさ)ませる。その結果、知識階級に低級狡猾な、しかも誤魔化しの巧い利己主義者ばかりが()え、それ等の人間が追々(おいおい)あらゆる社会的地位を占めてゆく為に、社会生活の全般に亘って段々「純真な人間」の活動が阻まれて狡知(こうち)な動物、便利な器械が横行するようになる。
17日 功利学問 2 知識や技術や免状資格が幅を利かせて人間の力量や徳操などは措いて問われなくなる。これは人間が個人的に死んでしまって、組織の中に化石し去らんかぎり堪え難い問題であると共に是の如き社会はやがて早晩、日新の造花から遺棄される日が来ねばならない。是れ即ち社会革命であります。真の社会は飽くまでも人間生活の天地でなければならぬ。人々は各々人と為り、人を知り、人を愛し、人を楽しむ社会でなければならぬ。(東洋倫理概論)
18日 国家維持のためには 国家を維持存続してゆくためには四つの原則を必要とする。これは東洋政治学の上で昔から言われておることでありますが、管子に「四維」・「国維」と言うことが論じられております。四つの大きな綱、大綱であります。一つは礼というもの、今日の言葉で言えば、正しい秩序・美しい調和であります。我々の肉体でも、色々の諸器官がそれぞれ秩序を保ち調和して、初めてそこに健康と言うものがあり、肉体というものが存在することができる。同様に国家も、政府、その他いろいろのこれを構成する機関・機構が正しい秩序と調和を保って、その機能が円滑に遂行されなければならない。これが礼というもので、この礼を営むものが意義・使命をそれぞれ果してゆく義であります。これを無視して利己的に放縦に活動するのが不義というもので、利と義はここで違って来るのであります。
19日 国家の動揺 利というものは、これは利己、私であるが、礼や義というものは、常に全体を予想するわけで、これは公であります。これを遂行してゆく場合に人間は必ず、廉、無私になる。従って、そういう精神に立てば、利己的な公に背くような精神・行動に対してよく恥ずる、所謂恥を知るのであります。国家を維持する為には、この礼・義・廉・恥の徳がどうしてもなければならん。これを国の四維と申します。これを失うと必ず国は動揺し、混乱し、頽廃し、時には滅亡する。     (活学第二編)
20日 国家・社稷の禍 
1
国家の禍は、とかく人君より私欲より起こり、あるいは大臣の私意り起こり、沢山の下の者が徒党を組んで、何派何派というような処から起こる。その原因は社稷(しゃしょく)を忘れた所にある。「社稷」という言葉は、まことにいい言葉であります。国家と言うことにも通ず。「社」というのは土地の神様。「(しょく)」というのは穀物・食物・五穀の神様。土地の神と食物の神、つまり土地の支配者と食料の支配者、これが社と稷、それを合わせて国家・社会をと言うおもしろい文字です。
21日 国家・社稷の禍 
2.
社稷と言うのはよく出来た言葉で、日本で申せば、伊勢の内宮は社。外宮は稷。一般には余事であるけれども、伊勢は普通のように神宮と言いません。本当は神宮(じんくう)と読みます。内宮(ないくう)外宮(げくう)というのが本当の読み方・言葉です。そして内宮はもちろん社のほうで、国家国土の神、天照大神を祀り、下宮のほうは稷、豊受大神を祀って、伊勢神宮はまさに社稷というものを代表しておられるわけです。
22日 社会と言う言葉 「社会」という言葉も、たいていの人は英語のソサエティを翻訳したものと思っておるが、そうではなく、日本に昔からある言葉で、古代人は一つの実生活、自治体ができますと、先ず第一にその土地の神様を祀って社とした。その社に集まって、或は社に代表される地域の人々が会合していろいろ相談をする。これを社会と云っていた。別に英語の翻訳として出来た言葉ではなく、古くから日本にあった。社会の元は社稷で、その社稷は伊勢の内宮・外宮に象徴されておる。   (指導者の条件)
23日 議員は冷笑の的 生活が奢侈となって、やがて窮迫する。人間は奢侈になれば飽く事を知らんからして、いくら収入を得ても不足を感ずるばかりである。この頃もそうであるが、人間が奢侈になったから、幾ら賃上げをやってみたところで追いつくものではない。常に足りない、常に不満であると云うのと同じことで、非常に奢侈になって、同時に窮迫して、もう世の中は経済万能で、その経済はますます頽廃する、弱体になる。政治というものは文字通り「(ただ)()し治む」と言うことであるが、政治も次第に堕落、混乱し、その機能を失墜して、議会なども国民から飽きられてしまい、軽蔑され、代議士というと冷笑の的になった。             (続人間維新)
24日 泰平無事の危険 だいたい泰平無事というのは曲者である。大変けっこうなことであっとて曲者である。そこが人生と言うもののデリケートな点で、我々の個人生活・肉体生活でもそうであります。余り泰平無事、平穏無事だと我々の健康というのは、すぐだらしなくなる。やはり体、健康というものは錬えなくては駄目である。精神的にもそうで、何にも苦しみがないと精神は伸びてしまう。つまらなくなります。  (指導者の条件)
25日 筋道を立てる 泰平もそうでありまして、どうしても泰平になると言うと人間が堕落する。この風を直そうと思ったならば、「紀綱を正す」、何事によらず筋道を通す。そうして、この風俗を改める。風俗に負けないで、風俗に従わないで、この風俗を直していくことが先ず大事である。学生は学生らしく、社員は社員らしく、先生は先生らしく、役人は役人らしく、筋道を立てる。筋を通すことが大事で、それを放ったらかしておいて、いろいろ膏薬貼りをやっても、それは駄目である。    (指導者の条件)
26日 興亡 
1.

人間あるいは歴史の興亡の理に明るい人が指摘している言葉の中に「国の四患」というものがある。それは国が広いとか、狭いとか、人口が多いとか少ないとか、物産がどうだ貿易がどうだ、ということでなくて、その国家の生活、即ち国政というものが、どれだけ真実であるか。反対を言えば、ウソ()ではないか。ウソ()が横行していないか、或はどれだけ(おおやけ)に行われているかどうか。国民生活、政治というものが、どれだけ公正に行われているか。或は私利私欲になっているか。

27日 興亡 
2
この人間世界というものは、自然と同じように法の支配である。従って、これに基づいて法律の支配がある。その法制・法律・法令と言うものが、どれだけ正しく行われているか。或はそうでなくて、我がまま、無法、無軌道という意味の「放」になっているか。法がなくなって「放」になっていないか。.
28日 興亡 3 人間というものは、素朴・剛健でなければ生命は育たない。人間に一番いけないのは、奢というものである。これは引き締めなければならない。これを節・倹という。それを考えた方が外的条件をずらりと並べて、資源がどうだ、貿易がどうだ、外資がどうだこうだ、議論しているよりも、ずっと早くその国家、国政、現在における国民生活の状態がはっきりわかる。真-偽、公-私、法-放、倹-奢。その偽、私、放、奢は一つだけでも国家の病気である。四つ揃えば、四患と言って、国亡びざるはないと言われている。   (人間の生き方)
29日 功利的過ぎる現代 今日の人間は余りにも功利的に、物質的に走りすぎている。それと反対の方に我々は還らねばならぬ。そういう事を考えてきます時に、我々の新しい世界文明というものは丁度、我々が本領として持っております精神、能力、その物を根底として、それに今まで発展してきました処の西洋民族の文化、彼らの本領というものを枝葉として生ぜしめ、初めて全きものになると言うことを知るのであります。
30日

精神能力の自覚

そうすると、世界文明というものの創造に我々の占めるべき地位、立場、使命というものがはっきりします。我々の持っているものが根本になって、彼らが花となり、葉となり、実となる。今日までせっかく発達して参りました大西洋の文化を再び生命あらしむるや否やは、我々の本領とする処の精神能力をいかに自覚し、いから発揮するかということに繋がっているのであります。我々の具備する処の本領を自覚すること、発揮することが足りなければ、今までの人類の努力というものは禍になる。花を生じたにつけ、葉を茂らせたか為に木が枯れるということになるのです。ここで私は初めて明日の世界に対する自信と、深き覚悟とをもって我々の学問をし、我々の社会ほ正しく変革して行くことが出来ると思います。その自覚が無いと、徒に結局、水かけ論や暗中模索に終わってしまうのであります。
31日 天人合一 やはり、人間は真実に帰らなければならん。真実に帰ると言うのは「天人合一」のことであります。私たちのあらゆる環境、あらゆる経済的、外面的なものは一切天に内在する。そこからみな流れ出ている。つまり人間というものは天に帰して天から人間を導き出すのであります。