八紘一宇
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」
(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)
日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
八紘一宇とは、古代中国でしばしば用いられた慣用句を元とし、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。 八紘為宇ともいう。 大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原市に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができるる。
即位建都の詔(前段)
「夫大人の制を立て、義必ず時に従う。苟しくも民に利有らば何んぞ聖造に妨わん。且た当に山林を披き払い宮室を経営りて恭みて宝位にのぞみ、以って元元を慎むべし。」ルビは徳永追記
「大人の制を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わしている。
「苟しくも民に利有らば」とは、国民の利益になることが大前提と考えであり、「民利政治」の原則を謳っている。天皇政治下の民主政治であり、中国とか韓国などの腐敗した王政、一部特権階級の為にする政治とは開闢以来、日本国天皇は根本から異なる。
この神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、「まず、国民を第一義」とされるお心は御読み になった歌やお言葉に垣間見ることができる。
第16代 仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」
まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、ご飯の用意をするかまどの煙にもお心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見て、ほつと安心をされたのでしょう。
第56代 清和天皇
「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」
肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている。
第59代 宇多天皇
「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、朕が不徳の致すところである。」
「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」
やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての言葉である。
自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録がある。
第122代 明治天皇
「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」
あまりにも有名な御歌のひとつである。御世は大変な時代の変わりようであり、不幸な出来事も数多く起きた。それらの責任はすべて自分にあるとされるお心である。
明治天皇はその在生中になんと93,032首の御歌を詠まれている。一日に実に20首の御歌を詠まれたことになる。それも0才から数えてである。その歌の大半が国民を思い、自らを反省される歌である。
即位建都の詔(後段)
「上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は即ち皇孫の正を養いたまいし心を弘めん。然して後に六合を兼ねて、以って都を開き、八紘を掩ひて宇と為すこと亦可からずや」
「上は則ち乾霊の国」とは、武力で先住民を制圧したのではなく、天の大神より国を委託たれたという謙虚な 気持ちを表わしている。それは「天壌無窮の神勅」によく表われている。
「天壌無窮の神勅」
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫、就きて治らせ、さきくませ。宝祚の隆えなむこと
天壌と窮りなかるべし。」
「下は則ち皇孫の正を養いたまいし心を弘めん。然してのちに」との言葉は、かのイエスキリストが「まず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」と言ったのとまさしく同じである。神の国の正義を自己の中に養い修養して、喜べば喜び事が喜びにくるの原理に従って慶びを積み、心を明るくして神の光を自己に受信しうる波長を心に起こすと、自然に「八紘を掩ひて宇と為す」ことができるのである。まず日本が為すべきことは、「道義国家」の確立であると言っている。
「六合を兼ねて」とは上下四方、十方世界、世界の中心にということであり、「八紘一宇」とは、四海一家、世界は道義の世界ではひとつということであり、家族であるとのことである。
第122代 明治天皇
「四方の海 皆はらからと思う世に など波風の立ちさわぐらむ」
「八紘一宇」の言葉は、不幸な使い方もされたが、本来の意味は「天に道義があり平和があるように地にもその世界を実現しよう。」というものである。
神武天皇の在位期間は記紀によれば76年間、御年137歳となることをもつて存在そのものを否定しようとする考えも一部にはあるが、この建国の詔を素直に受け止めたいものである。
徳永記