沖縄とアメリカの手法
敗戦後、沖縄の治世権はアメリカにあった。沖縄ドルが使われた。それを佐藤栄作総理の手で日本に取り戻した。
だが、やはりアメリカと言う国は、手の込んだ事をしている。
アメリカが昭和20年、沖縄上陸前に書いた「琉球列島に関する民事ハンドブック」の記事を引用する。
「琉球人は粗野な振る舞いから、日本人に「田舎から出てきた貧乏な親戚」と差別されている。潜在的な不和の種は政治的に利用できる」。
この方針が戦後、実践されているのだ。アメリカは沖縄を27年間直接支配したが、「守礼の光」という雑誌を家庭に無料で配布する宣撫工作をした。その中に「琉球」「琉球人」と言う言葉を多用して、本土と沖縄は違うという意識の植え付けをした。
高等弁務官という軍人の最高権力者の下に「琉球民政府」が置かれ、中央銀行は「琉球銀行」、議会は「琉球立法院」と呼ばしめた。「琉球大学」はアメリカ主導で作られ。創立記念日はリンカーンの誕生日である。日本の国立大学の創立記念日が米国大統領の誕生日なのである。
米国が、意識的に「琉球」を使った結果、琉球処分から終戦まで65年間も「沖縄県」だったにも拘わらず沖縄では「琉球」が復活したのである。
【琉球処分】
明治政府の下、琉球が強制的に近代日本国家に組み込まれていった一連の政治過程。1872年(明治5)琉球藩設置に始まり,79年の沖縄県設置に至る過程をいう。これによって琉球王国は滅びた。
1872年の琉球藩設置から1879年の沖縄県設置を経て、強権的に琉球を日本の一部に位置づけようとした日本政府の一連の政策をいう。当時、琉球王国の体制そのものには大きな影響はないだろうと高をくくっていたが、ことの重大さに気付き、明治政府の命令を拒否し嘆願を繰返したが、琉球処分官に任命された松田道之は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊400人の武力を引き連れ首里城に乗り込み、廃藩置県をおこなうことを通達。そして3月31日に首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、4月4日、琉球王国は沖縄県となった。
アメリカは沖縄の不満が反米に向わないように親米感情を育て、沖縄と日本本土を分断させて反基地感情が反日感情に向うように丁寧に宣撫している。宣撫工作や、良き隣人政策が沖縄ほど上手に行われた自治体は他に無い。だから、反日・親米感情が強い。
沖縄に根付いている反日姿勢を考えれば、米国防総省の全面支援による留学体験で親米知識人の養成が行われ現在も続く沖縄の支配階級が事実上、米国の指導で形成された点は極めて重要である。
反戦・反日に転換させる構図に最も効果を発揮したのが、米国に学んだゴールデンゲイターと言われる人たちである。米国は戦後、沖縄の優秀な若者を次々とゴールデンゲートブリッジ(金門橋)を潜らせて米国民主主義の洗礼を受けさせた。別名「米留組」と呼ばれる親米エリートのゴールデンゲイター達は、米軍幹部らと交流を深める「金門クラブ」を那覇に作った。金門クラブこそ沖縄を解き明かすカギである。社民党の議員大田昌秀元知事も沖縄市長の東門もその留学組である。
反戦に見える沖縄の本質は「反日」であろう。その結果、本土と沖縄が分断されて基地問題が内政問題化してきている。
被差別意識が「反日」に向うように県民の「沖縄ナショナリズム」を上手に利用、反戦・平和思想を弱めたのが米国の沖縄政策の本質である。
普天間を含む、沖縄の海兵隊基地が具体的に日本の安全保障にどう役立っているのか、と言う本質的な議論を封じて被害者意識が米国批判に向わないように基地負担平等論として内政問題化させる。共に、米国の戦争被害者・基地被害者である日本人同士が「差別した、された」と対立している普天間問題の現状を見ると、私たちは今も米国の支配下にあると事が良く分かるのである。