安岡正篤の言葉鳥取木鶏会 5月例会    徳永選

文化の人は礼の人

 文化という語は、近代人によって大いに汚された。文化の人と言えば、今は恥なき軽薄才子を偲ばしめる。しかし真の文化は、礼の人でなければならないのである。礼は小にしては人々の面目肢体を正し、大にしては家国天下の生活を整える。敬義立ってここにまた礼の美しきを観ることができる。 儒教と老荘

 

役人道徳

 信念ある役人は何も恐れることはない。否な益々勇往邁進するがい。しかし、いやしくも役人たることは恐ろしいことである。命がけのことである。能く恥を知る者、西郷南州の喝破したように名利はおろか、命もいらぬ者にして始めて役人たるべきであると言う役人道徳の確立を何よりも急務とすべきである。

              経世瑣言

精神集中

 我々の人生、生活、現実というものに真剣に取り組むと、我々の思想、感覚が非常に霊的になる。普段、ぼんやりしていて気のつかぬことも、容易に気がつく。超現実的な直覚、これが正しい意味に於ける形而上学というものであります。やはり人間は精神を集中して全身全霊を何ものかに打ち込まなければ、精神も磨かれないし本当の力も発揮できない。 

             論語・老子・禅

評判は当てにならぬ

 人の評判などは当てにならんものであります。大衆というものは種々雑多ありまして、そんなに高いことが分かるものではなし、自分の利害だけに生きている者は自分の利害に合わない者を悪く言うに違いない。自分の感覚的な低級な趣味に生きている者から言えばそんな程度の頭や感情で分からん人間を悪く言われるのは当たり前である。さりとて、誰からも悪く言われるというのも、どっかいけないに相違ない。だから立派な人が褒めて、いい加減な奴がくさすというのは、これが本当の人です。  安岡正篤先生講演録

新の文字

 新しいと言う文字は、新と書きますが本当は朝日新聞の新です。朝日新聞などはこの新を使っています。辛という字と木と組み合わせて斧をつけ加えたものです。だから自然の立木、つまり自然のものを苦労して人口を加えて有益なものに作りかえる。それを新というのです。もとのものと全然違ったものではないわけですね。だから広く観察し長く観察すると新しいものは古いものなのです。    安岡正篤先生講演集

分福の思想

(ほう)(えん)(よん)(かい)」の二にある、「福を独り占めにしてはならぬ。文字通り、「福分け」が必要だ、もし福を独占したら、幸せを運んでくれる「縁」が断絶するであろう」と。
縁の深さを忘れて、小さな自分の力によるものだと自惚れて、いい気になって恵まれた縁を自分だけで握り占めれば、その福を齎した無数の縁が切れてしまう。
幸田露伴は、福分けを「分福」と名づけた。彼は、福の縁を豊かにするには、そらに「惜福」、自分の得た福を弄費することなく、大切に福を使用する」と、「植福」--自分が福を得た恩返しに他の幸福を願う行いをすることだと提言している。

 評判は当てにならぬ

 人の評判などは当てにならんものであります。大衆というものは種々雑多ありまして、そんなに高いことが分かるものではなし、自分の利害だけに生きている者は自分の利害に合わない者を悪く言うに違いない。自分の感覚的な低級な趣味に生きている者から言えばそんな程度の頭や感情で分からん人間を悪く言われるのは当たり前である。さりとて、誰からも悪く言われるというのも、どっかいけないに相違ない。だから立派な人が褒めて、いい加減な奴がくさすというのは、これが本当の人です。  安岡正篤先生講演録 

人生に行き詰まり無し

 易の説くところは、人生と自然にいきづまりと言うものはなく、永遠の創造、クリエーションであるということであります。易学を学ぶということは、我々の存在、生活、そして人生を日々に新たにしていく、即ち維新していくということでありまして、よくこれを学べば、我々は精神的にいきづまるということはありません。そして興味津々と申しますが、学べば学ぶほど楽しいものであります。  易と人生哲学