安岡正篤先生の言葉 徳永圀典選 令和元年513

倒置の民

 志とは何であるか。今、人が志を得るというのは地位名誉権勢、俗にいわゆる出世のことであるが、本来、志を得るというのはそんなことではない。名聞(めいぶん)利達(りたつ)を持ったとしてもそんなものは本質的な存在ではない。偶然の出現に過ぎぬ。また偶然に去るかも知れない。そこで出世したとて好い気にならず、窮厄(きゅうやく)したとて俗に(はし)らず、ただ己を正しくする。そこにおのづからなる楽しみがある。その楽しみの全きを志を得るというのである。名利に志す者は名利を得れば楽しむが、失えば忽ち(すさ)んでしまう。いわゆる己を物に(うしな)い、性を俗に失うもので、これを倒置(とうち)の民という。   老荘思想

 

大衆と民主主義

 これからの民主主義というものは、大衆の中からいかにエリート、即ち英雄、このエリートを出して、これをいかに懸命に組織するか、これを有能に活用するかということだ。今の民主主義の一つの誤りは、大衆というものを錯覚して、大衆に迎合して、大衆を指導することを忘れ、大衆に指導されておる点がある。

民主主義もこれ以上、大衆というものに権力を持たせ、大衆に迎合したら滅びるということを、スペインのオルテガらの人々がはっきり言っております。                運命を創る

 

常に新鮮こそ

 人間も幾つになっても、またどんなに立身出世しても、或いはどんなに失意に沈淪(ちんりん)しても、生きる限りは固まらない。常に()()の如くよく(から)を脱する、生き生きとしておる、つまり新鮮である。常に柔軟である。若々しい。しかるに、我々は常に容易に殻を固くしてしまう。型に(はま)って、因循(いんじゅん)姑息(こそく)に陥り、枯死、その前に若朽(じゃっきゅう)してしまう。老朽(ろうきゅう)の前に若朽してしまうと言うことになり易いので、いかに殻を脱いで常に新鮮になるかということこそ、我々が社会的に生きてゆく秘訣です。           暁鐘