43講 藤原氏台頭の背景は何か

中臣氏の鎌足

中臣鎌足と大化の改新

中大兄皇子とともに大化の改新の立役者といわれる中臣鎌子は、中臣鎌足ともいい、没するとき、天智天皇(中大兄皇子)から藤原の姓を与えられたため、藤原鎌足と呼ばれます。鎌足は第七世紀の政治家として知られますが、その実体は中大兄皇子を巧みに操り、大化の改新を通じて最高権力を掌中にした黒幕的官僚政治家でした。また、それと同時に鎌足は、はるか後の平安時代末まで権勢を誇った藤原氏の基礎をなした遠望深慮の人物でもあったのでした。

大化の改新の立役者、黒幕的官僚政治家、栄華を極めた藤原氏の始祖、こと肩書きには困らない鎌足ですが、その実力者・鎌足の出現はひとえに大化のクーデターの成功によるものです。入鹿暗殺、蘇我氏滅亡、そして政権奪取というクーデタター劇によって一気に権力を掌中にし、まさに血祭りにあげた蘇我氏に代わって一躍政界を牛耳る実力者にのし上がったのです。

しかし、言うまでもなく鎌足は偶然、クーデターに成功したわけではありません。そこに鎌足自身の聡明な頭脳と果敢な実行力があり、また卓越した政治手腕があったことは疑いようもありません。とりわけ、こうした権力志向型の人間に共通する、天下を牛耳りたいという欲望はずば抜けて強かったのでしょう。そうした欲望の強さが、聡明な頭脳を駆使して、中大兄皇子を巧みに操り、官僚組織を構築してその頂点に自らを立たせるという希有な野望を可能にせしめたといえます。それでは実際のところ、鎌足はどのようにしてのし上がっていったのか。その点を探ることは古代史の画期となった大化の時代をいわば裏から眺めることになるに違いありません。本講義では鎌足後を探ることによって、角度を変えて大化の改新の時代を眺めてみたいと思います。

 

註 藤原氏

  (げん)(ぺい)(とう)(きち)の四姓の一。はじめ大和朝廷の神事を司り中臣と称したが、大化の改新に功のあった鎌足が天智天皇から藤原()(そん)(かばね)を賜り、次いで698年、文武二年、文武天皇は鎌足の二男・不比(ふひ)()の流のみ藤原姓を認めた。

 

中臣氏の蘇我氏打倒の宿願

鎌足は蘇我氏打倒に燃え、クーデターを実行したわけですが、何がそこまでに鎌足を駆り立てたのでしょうか。

蘇我氏打倒は何も鎌足の専売特許ではなく、クーデターの前にはそうした空気がかなり広がっていました。と言うのはクーデターの二年前、山背大兄皇子が専横を揮っていた蘇我入鹿によって一族もろとも滅ぼされるという事件があり、諸臣の憤りをかっていたのです。鎌足がそうした反蘇我的気運に感応したことは言うまでもありません。しかし、私はそれ以上に、鎌足の所属する中臣氏の宿願としての蘇我氏打倒の観念の強さというものもあったろうと考えます。

なぜならば、中臣氏はもともと蘇我氏とは犬猿の仲だったとみられるからです。

かって蘇我氏は崇仏か排仏かをめぐって物部氏と激しい対立抗争を演じました。このとき祭祀をつかさどる神祇官家であった中臣氏は、その職能からして当然、崇仏に反対して物部氏に与して蘇我氏と対立しました。用明天皇の崩御を契機に、蘇我・物部の抗争は遂に武力抗争に発展しましたが、当時の中臣氏の族長であった中臣(なかとみの)勝海(かつみ)は物部守屋と結びました。そのため、守屋が蘇我氏によって滅ぼされたとき、勝海も運命をともにして滅ぼされたのです。

このとき、勝海の弟である中臣黒田は中臣氏の傍系として滅亡は免れたのですが、鎌足はこの黒田の流れを継いでおり、反蘇我氏の観念をその成育環境の中で植えつけられたであろうことは十分に考えられます。

しかし、中臣氏の反蘇我氏の観念は、勝海と蘇我の抗争に起因するだけでなく、さらに根深いものがあると私は考えます。

 

中臣氏の源流を探る

中臣氏の系譜

中臣氏は多くの書物で天児(あめのこ)屋根(やねの)(みこと)から出た神別氏族とされています。それゆえ、古くからの氏族とみなされているのですが、この点は非常に疑問です。

実際、中臣氏の系図にはいろいろな説が出され、はつきりしていません。また、「新撰姓氏録」や「古語拾遺」という書物、あるいは「大織冠伝」という古書に出て来る系図を見ても、中臣氏が元来どこを本貫とした氏なのかもはっきりしないのです。

一説によると伊香連(いかのむらじ)が中臣氏と同祖であると言います。

伊香連は近江の国、琵琶湖の北北東にある余呉湖のさらに北の方の伊香郡のあたりを本貫とする豪族です。さまざまな史料の比較検討から、私も中臣氏がその伊香連と同族関係にあったことだけは確かなように思います。そうであれば、中臣氏は近江の国を本貫とする豪族だったことになります。

 

註 新撰(しんせん)(せい)氏録(じろく)

  京・畿に本籍を持つ千百八十二氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類した系譜の集成。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年、弘仁六年、奏進。30巻。目録一巻。現存のものは抄本。

  大織(たいしょく)冠伝(かんでん)

  上巻藤原鎌足の伝記である。大織冠伝と下巻藤原武智麻呂の伝記。武智麻呂伝とを合わせて藤原家伝と称する。上巻は藤原仲麻呂、下巻は僧延慶の著。760年、天平宝字四年頃の成立。