聖徳太子--直接交渉による対隋外交
従来の日本の外交策は、百済や新羅という朝鮮の国々を通して中国との国交を結ぶという、いわば間接外交方式というべき基本姿勢を維持していました。この外交策は、言うなれば朝鮮を主とし、中国を従とするものでした。処が、その間接仲介外交方式に対し聖徳太子は直接中国の隋と国交を結び、直接交渉による外交政策への転換を断行されたのです。
日本の外交史上初めて中国との直接交渉が行われたわけで、これは一大改革として特筆されるべきものです。即ち、太子によってその後の日本は中国との関係を主、朝鮮三国との関係を従とする外交策を採るようになったのです。
以上のような太子の政治改革の骨子とみなすべき政策は全て第三期の八年間に実施されています。したがって、摂政在位中、太子が政治上最も華々しい活躍をされた時期は第三期であると言えます。
経典と歴史研究に精進された晩年の太子
第四期は推古十九年から、太子が亡くなる推古三十年まだ、つまり太子の短い生涯のうちの晩年である38才から49才までの12年間とみます。
第三期において政治改革を断行された太子は、この時期になると、専ら学問上の研鑽に精力を傾けられています。即ち「三教義疏」という経典の注釈書を完成され、「天皇記」以下の修史事業の完遂を目指されていますが、この二つの事業が聖徳太子晩年の仕事として最大のものです。
しかし、こうした太子の学問への傾倒は単に太子の学問的興味を満足させるためのものではありませんでした。
後の講義で詳しく述べますが、当時の仏教は、国家の安泰を保証する“国家仏教”でした。聖徳太子は国家仏教による中央集権的国家体制の確立を意図され、そのために仏教の研究にいそしまれたのです。従って、太子の仏教研究は宗教上の純粋な信仰に発したものではなく、あくまで国政の改革、理想的な日本国家建設の基本理念を仏教理念に基づいて樹立しようという意図から出たものなのです。
また「天皇記」以下の、いわゆる推古朝の修史と言われる歴史の編纂にしても、太子の歴史的興味を満足させるためのものではなく、日本の国家の中心となるべき天皇の歴史が中心テーマであり、天皇の性格、本質を明らかにして、これをみなに示そうという意図を持って企てられた国史の編纂なのです。そこに天皇権の確立のための思想的裏付けが求められていたことは言うまでもありません。
さて、以上のように先ず聖徳太子の生涯を四期に区分して概観しましたが、後の講義ではさらに詳しく太子の生涯をみていきます。
註 三教義疏
聖徳太子の著と伝える、法華・勝鬘・維摩の三経の注釈書の総称。
天皇記
日本最古の史書。620年、推古28年、聖徳太子が蘇我馬子の編纂したと伝えられる。大化改新の際、蘇我蝦夷邸焼亡とともに焼失したと言われ、内容は不明であるが、「帝記」と同性質のものであったと考えられる。
法興寺
奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗の寺。別称元興寺・飛鳥寺。蘇我馬子が588年から609年、推古17年にかけ百済の技術を取り入れて建立したと言われる我が国最古の伽藍。
斑鳩宮
日本書紀によれば、601年、推古9年、聖徳太子が造営した宮殿。現在の法隆寺東院の所在地がその跡と言われ飛鳥文化の中心地。622年太子がこの宮で崩じた後、太子の子・山背大兄王も住んでいたが、643年、皇極2年、蘇我入鹿に襲われ焼失したとされる。
広隆寺
京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗別格本山。別称太秦寺・蜂岡寺。秦河勝が603年、推古11年、聖徳太子から授けられた仏像を安置するため622年造立したと伝える。
聖徳太子の四期区分年表
――推古天皇、摂政聖徳太子登場
年次 |
西暦 |
宝算 |
重要史実 |
期 |
備達3 |
574 |
1 |
聖徳太子生誕 |
第一期 |
5 |
576 |
3 |
3・10 豊御食炊屋姫立后 |
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13 |
584 |
11 |
9 百済仏像を贈り、馬子石川の宅に仏殿を造る。 |
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14 |
585 |
12 |
3・30 物部守屋が仏殿塔を焼き仏像を焼き仏像を難波堀江に棄てる。 |
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用明1 |
586 |
13 |
1・1 穴穂部間人皇女立后 |
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2. |
587 |
14 |
馬子、物部守屋を滅ぼす。太子、討伐軍に従軍。 |
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崇峻5 |
592 |
19 |
11・3馬子、東漢直駒をして天皇を弑逆し推古天皇を擁立。 |
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推古1 |
593 |
20 |
4・10聖徳太子、皇太子として万機を摂政する。 |
第二期 |
2 |
594 |
21 |
2・10三宝の興隆を詔し、群臣ら仏寺を建立する。 |
|
3 |
595 |
22 |
5・10高句麗僧、慧慈帰化し、太子これに師事する。 |
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4 |
596 |
23 |
11 法興寺を建て、慧慈・慈聡をこれに住まわせる。 |
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8 |
600 |
27 |
2 新羅、任那を攻め、境部臣・穂積臣を派遣する。 |
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9 |
601 |
28 |
2 太子はじめて宮室を斑鳩に興す。 |
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10 |
602 |
29 |
2・1 来目皇子、撃新羅将軍。10・百済僧観勒来朝する。 |
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推古11 |
603 |
30 |
11・1 太子、仏像を河朦に賜い広隆寺なる。12・5冠位制定。 |
第三期 |
12 |
604 |
31 |
1・1暦日を用い始める。4・3十七条憲法の制定。 |
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13 |
605 |
32 |
閏7・1太子、褶を著せさせる。 10・太子斑鳩宮に移住する。 |
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14 |
606 |
33 |
7 天皇、太子に勝鬘経を岡本宮に講させる。また法華経を講ずる。 |
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15 |
607 |
34 |
2・15太子神祇祭拝。7・3 小野妹子を隋に派遣する。 |
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16 |
608 |
35 |
小野妹子、裴世清を伴い帰京。世清国書を上表。9・11妹子、留学生渡航 |
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17 |
609 |
36 |
9 妹子隋より帰朝。 |
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18 |
610 |
37 |
高句麗僧曇微、法定を貢する。 |
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19 |
611 |
38 |
1・25 太子、 |
第四期 |
20 |
612 |
39 |
5・5 羽田に薬?する。 |
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21 |
613 |
40 |
9・15太子、勝鬘経義疏を述作する。12・1太子、片岡に遊ぶ。 |
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22 |
614 |
41 |
薬?。6・13太子、御田鍬らを隋に遣らを隋に遣わせる。 |
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23 |
615 |
42 |
4・15太子、法華経義疏を述作する。 7・御田鋤帰朝。 |
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24 |
616 |
43 |
5・23 天皇の病により太子が延命のため造寺する。 |
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28 |
620 |
47 |
太子が馬子とともに天皇記以下の書を編修する。推古朝の修史 |
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29 |
621 |
48 |
この歳、新羅初めて朝貢の上奏文を奉る。 |
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30 |
622 |
49 |
2・22太子、斑鳩宮に死す。この月、太子を磯長陵に葬る。 |
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