易と人生哲学 E 安岡正篤先生講義

平成19年5月度

 1日 (つちのえ)(うま)の新年

今年は、皆さんもご存知のように、去年の干支、丁巳(ていし)「ひのと・み」の後を受けまして、(つちのえ)(うま)という年(昭和53年)であります。干支―えと、というものが余りにも普及し、

通俗化致しまして、まことにたわいない伝説、俗解が多いのてでありますが、学問的には、もっと正しい意味がございます。そこで私は、毎年新年の初会合にはなるべく干支の本当の意味のお話をすることに致しております。
 2日 干支の弊害 処が、本年は非常に世情が不安と見えまして、この干支の話が方々で話題になっておるようであります。そうなりますと、矢張りとんでもない誤解、曲解、俗解が流行致しまして、 よく思いがけない人から「本当の意味はどういうことですか」などと聞かれます。そこで本日は、年頭の講義でもあり、最初に今年の干支の正しい意味をご参考までにお話し致します。
 3日 (ひのえ)(うま)の話

この俗解というものは、通俗だけならいいのですが、どうかすると非常に弊害がありまして、その極端な一例が、(ひのえ)(うま)―「ひのえ・うま」であります。これには、どれくらい女たちが迷惑しておるかわかりません。これは決して年の干支の問題ではなく、強いて言えば、日の問題であります。
つまり丙午の日に生まれた人は、男女を問わず統計的に、配偶

関係に悩み、支障が多い傾向があります。これは統計ですから、悉くというわけではありません。そして男女ともでありまして、女に限るのではない。処が結婚というようなことになりますと、どうしても男より女が関係するところが深刻ですから、いつの間にか、男のほうの問題でなくなり、女の特別のことのようになってしまいました。これは女にとつて大変迷惑なことであります。
 4日 (うま)の意味は

今年午年でありますが、丙午ではなく、戌午ですけれども、ついこの間も、友人から「戌午の女は、問題ありませんか」という質問を受けて、「何故そんなことを言うのか」と聞きましたら「実は、自分の親戚の娘に縁

談があるのだが、午年だというので首をひねつておる、これは重大問題なのでお尋ねする」ということです。「いや、そんな心配はすにないから安心しなさい」と答えておきましたが。そういうことは少なくないのであります。
 5日 誤解の通俗化

然し、そういう誤解が通俗化する多少の原因と理由というものが(うま)の字にあります。
それは(うま)という字には「さからう」という意味

がある為です。りっしんべんをつけた午の()しんにゅうをつけた午の?()も、さからうという字であります。
 6日 (きのえ)(きのと)の字

また干の(つちのえ)の字は、くさかんむりをつけた()、しげる、と同じ字であのます。十干というものはご承知の通り(きのえ)(きのと)(ひのえ)(ひのと)(つちのえ)(つちのと)(かのえ)(かのと)(みずのえ)(みずのと)の十種類でありますから、

(つちのえ)はちょうどその真ん中に当たります。
甲―きのえ、は初春、木の芽が殻を破って出たという象形文字で、従って芽が出たが、まだ寒いので、伸び切らずに曲がりくねっておるという象形文字が、乙―きのと、でありまして、春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)の季節をあらわしております。
 7日 (ひのえ)(ひのと)

それからずっと陽気が進展致しましてあきらかになったのが―ひのえ、であります。そこで火―ひへんをつけますと((あきらか))あきらか、季節でいうと陽春にあたります。

その陽気の末期が(てい)―ひのと、でありまして、ちょうど昨年がこの年にあたります。丁の字の横の一は、陽気の進展をあらわし、同時に陽気が下降する、これを縦の亅があらわしております。
 8日 (ひのと)壮丁(そうてい)

そうすると、いままで地中に伏在しておったものが地上に出てくる。そこで(てい)の字には、さかんという意味があります。壮丁(そうてい)と申しますと、十分成熟した男性を言います。
また陽気が盛んになると従来地中に伏在しておったものが地上

に出る。そして在来のものと突き当たる。そこで丁にはあたるという第二の意味もあります。去年の干支、丁巳(ていし)は従来支配的であった陽気の末期的状況で、盛んであると同時に、いままで伏在しておったものが出現するという意味もある。
 9日 丁巳(ていし)の政界状況 政界などを見ますと、まさに丁巳(ていし)の通りであったと思います。あきらかに既成支配勢力であった自民党はかなり老成、老熟し、それに対して少し前には、石原慎太郎氏等を始め若手の連中が集まって既成勢力に抗して青嵐会などを作りましたが、脱党するまでには至りませんでした。
それだけまだ党に統制力があり
ました。処がその後、河野洋平君達が脱党して新自由クラブをつくりました。自民党ばかりではありません社会党も同様です。然しまだこれは大事にいたりません。それは巳の字が示すように伏在しておった勢力の動きの程度でありますから、大きな勢力になりませんでしたが、本年の(つちのえ)(うま)になりますと、戌は陽気で枝葉が茂る。
10日 枝葉の剪定(せんてい)

茂ると日当たり、風通しが悪くなり虫がついたりしますから、植木屋がやるように思い切って枝葉を刈って手入れをしなければなりません。
そこで()のほうは

(うま)で、これが組み合わされておることは、新興勢力が思うように伸びず、在来勢力と紛糾衝突をすることをあらわす。先ほど、述べましたように午には、そむく、さからうという意味があります。
11日 矛盾・衝突 そこで本年は去年よりも問題が紛糾して、色々と矛盾、撞着(どうちゃく)、争いが起こりやすいので、政治家も、事業家も見識と手腕を必要とする年であります。それをやり損ないますと、非常に混乱、紛糾することを覚悟しなければならないことを この干支は教えております。又、歴史に徴しましても過去の事実がこれを証しております。その矛盾、衝突をうまく処理していくことが結論になるわけですが、それを手際よくやりませんと、年は捨てておけないような思い切った整理、調整を必要とする年になります。
12日 指導者の見識次第 これが更にまずいと三年後には革新・革命の干支と言われる辛酉(しんゆう)、かのと・とり、の年を迎えます。時局も人事も変革を要するような異常事態に入っていきましよう。この事態をスムースに処理できるか如何かが本年と来年の働きによります。全ての指導者は明確な見識と実力を持ち筋を通して出来るだけ矛盾、衝突を避け、あたかも名人が(かん)()(ぎょ)していくように やっていかなければならぬということであります。面白いと言っては語弊(ごへい)がありますが、大変意義の深い、切実な、それだけに興味のある年回りでありますが、やり損なうと厄介なことになつていくという分岐点でもあります。こういう事を心得ておりますと、何かにつけて非常に為になる切実な問題だと思います。以上をもって本年の干支―(ぼう)()の話を終わります。
13日 陰陽(両儀(りょうぎ)) 易というものは、大にしては宇宙の進行、生成。小にしては、自然と人間の推移を明らかにしたものであります。その易に(ろく)()があるということを前回も解説 致しましたが、その第一は、変わるということであります。然し、変わるというのは、変わらぬものがあって始めて変わるので、不変ということがなければ変わるということもないわけであります。
14日 不易(ふえき) 従って易には不易という意味があり、これが第二の意味であります。 然もそれが非常に純粋であり、(やす)むことなく駸々乎(しんしんこ)として移っていく。疑を入れない明々白々、これが第三の意味であります。
15日 ()()・神秘

それは人間が考えると極めて神秘的なものであります。そこで第四番目に神秘的という意味があります。()()という言葉がありますが、希は聞けども聞こえず単なる聴覚だけでは分からない。それから夷という字は、たいらか、という文字であり、

又見れども見えずというような視覚では容易にとらえられない、神秘という意味であります。よく易を好む人が希夷という雅号をつけるのはその為で、聞けども聞こえず、見れども見えず、然しそこには厳として微妙なものがあるという神秘な存在を希夷と言います。これが第四の意味であります。
16日 (えき)(せい)

また易は、どこまでも終わることのない無限の進行でありまして、これが第五の意味で、最後に色々と足らざるを補い、誤れるを正す、即ち、おさめるという意味があります。これが第六の意味であります。

(えき)(せい)という熟語がありますが、これは世を治めると読むのが正しい読み方でありまして、易という一字の中には、このように大きくわけて六つの意味があります。
17日 陰陽の意味 この易の真髄をなすものは陰陽相対(相待)性原理だということも申しておきました。その陰陽も余りに普及しまして、色々と浅解や誤解が多くなりました。陰と言えば曇る、陰気などと云って余り快くない。陽というのは、太陽を想像して明るい、晴れ晴れとして気持ちが好い。そこで陰気はいやだ、陽気でなければいかんというような事が よく言われますが、これは俗説でありまして、陰なき陽はなく、陽なき陰も又ありません。陰陽というものは相対立すると共に、相待つ意味の相対(待)でありまして、陰あって始めて陽があり、陽あって始めて陰が生きるのであります。これで人生、自然というものが営まれていくのであります。この陰陽相対(待)性原理を教えておるのが易経であります。
18日 易経は一生もの 昔から東洋哲学をやる人が結局どこへ行くかと申しますと殆ど易経に到達致します。従って易経に首を突っ込むと一生ものだというぐらい学問の中では面白い、面白いと言っては語弊がありますが、小にしては我々の人生から、大にしては国家、人類の運命まで考えることができる大変な学問であります。
嘗て触れたと思いますが、トイ
ンビーが A Study 0f History「歴史の研究」という名著を世に公にしました。之に当たって、彼が非常に煩悶しましたのは、第一次世界大戦のとき、一世を風靡したシュペングラーの Der Untergrng des Abendlandes        「沈みゆくたそがれの国」、或いは「西洋の没落」という本を書くました。
19日 易学で救われたトインビー これが大変な反響がありまして、結論的に申しますとトインビーもそれを一歩も出ることが出来ない、これがトインビーの非常な悩みでありました。過去の歴史の法則に徴すれば、今日栄光あるヨーロッパ文 明もやがて暗黒期を迎え滅亡するだろうと言うことになるのですから 大変なことであります。何とか活路を拓くことが出来ないものかと非常に煩悶して勉強しております時に、彼トインビーに示唆を与え、救いの道を開いてくれたのが東洋の易学でありました。易学の陰陽相対(待)性理論、(ちゅう)の哲学、これによって彼は始めて救われました。
20日 限りない興味 それ程にこの陰陽相対()性原理というものは微妙なもので、これが本当に腹に入りますと、思想で窮するということはありません。又どのような生活、どのような職業に従事する人でもこれを学べば、限りない所得と、安心立命のできる、これく らい魅力ある学問はありません。その代わり、あっさりやろうと思えば、世の中に沢山通俗易がありますが、あれも割に面白いです、然し本格的にやれば実に微妙と言いますか、限りない興味のある思想学問であります。
21日 易は無限の創造変化 易は無限の創造変化であります。人間の存在、生活というものは、絶対的なものでありますから、その意味において「(めい)」と言います。またこれは動いてやまないものでありますから「運命」と言います。草木は春がきて芽を吹き夏には花を開き、秋には実をつけそして冬には枯枝となって毎年 それを繰り返していくように、この「命」というものは動いてやまない絶対的なものであります。その運命の中には「立命(りつめい)」と「宿命」とがありまして、よく学ばなければ宿命に陥ってしまいます。つまりきまりきった機械的な、決定的な存在と活動の人生になってしまいます。
22日 (すう)

この命の中に存する理法、真理、これを「(すう)」と言います。(かず)もその一つでありますが、全部をつくすものではありません。これは前回も申し上げました。(すう)とは(めい)の中にあるところの複

複雑微妙な因果関係を言いまして、その理法が数理であります。これが生命の命と結べば命数(めいすう)でありますが、70まで生きたとか50で死んだとかいうような単なる数ではなく、もっと深い意義をもっております。
23日 (すう) 2

そこで易とは(めい)の中に含まれておる深い理法、因果関係を明らかにして、宿命に陥ることなく、常に創造的、クリエーティブにする、これを「立命」と申しまして易の学問は、宿命より立命に向かう、或

いは入っていく学問であるということが出来ます。東洋の学問をやると、日本人も中国人も結局は易に入ると申しましたが、これが中々独学では難しい。最初の踏み込み方、つまり易の習い始めが一番大切であります。
24日 最初が肝腎の易 入門の時に一番正しい、本当に親切な道を選ばなくてはなりません。易学入門の序論、序説というものが大変大事であります。そういうわけで、若い時にはそれ程に思いませんが、中年以降になると次第に宿命ということを感ずるようになり、自分の存在、生命、あるいは事業等に対して懐疑を持つようになる。或いは抵抗を感ずるようになります。淮南子という書物に、きょ(きょ)(はく)(ぎょく)五十にして四十九年の非を知り、

六十にして六十化す、という有名な言葉があります。四十九年の非を知り、六十にして六十化す、という有名な言葉があります。?(きょ)(はく)(ぎょく)というのは、衛の国の有名な賢者でありまして、行年五十にして、−昔の人の五十というのは、今日でいうなら七十ぐらいになりましょう。四十九年の非を知るー五十という人生の終点に到達して、それまでの四十九年が皆いけなかったと悟った、という意味です。これは深刻な話であります。

25日

六十にして六十化す

皆さんが定年を迎えられて、これでやめなければならない時に、省みて全部駄目だったと自己を否定しなければならぬということでありますと大変なことです。処が、このきょ(きょ)(はく)(ぎょく)については、そのあと に非常に好いことが伝えられております。それは、六十にして六十化す、ということです。即ち今までの生活が全部駄目だったということを知って、それから自己改造をやり六十になっても六十になっただけの変化をした、という非常に名高い言葉であります。
26日 化していく 宇宙、自然は常に進化してやみません。人間も宇宙、自然の一部分でありますから、その本質は絶えず進化しなければなりません。停滞は許されません。生ける限り化していく、これが東洋哲学の一つの深遠な思想、信条であります。 嘗て引用したと思いますが、日本人は非常に海老を珍重し、おめでたいときによく使います。その理由を尋ねますと、大抵の人は、俗説に従って、夫婦が腰の曲がる年になるまで添い遂げるようにと、特に婚礼などに海老を使うのだと言います。
27日 海老の脱皮 処が学者の研究によりますと、海老は生きておる限り殻を脱ぐ。殻の中で固まってしまわない。言い換えれば常に新鮮ということであります。これが本当の意味だそうであります。人間も若い間は色々理屈を持ったり情熱を沸かしたりして溌剌としておりますが次第に浮世の苦労を積んでゆくうちに、即ち中年 頃から固まりだして意外に早く進歩が止まって変化しなくなります。それではいけませんので、常に殻を脱いで新鮮で、悪固まりしないようにしなければなりません。こういう意味で海老を珍重するのだそうでありまして、成る程これは非常に好い解説であり好い習慣であります。
28日 (ちゅう)

さて易の最も大事なものは陰陽相対()性原理、即ち、宇宙、人生を通ずる創造であります。つまり宇宙、人生の本質その根本原理の一つは、陰陽相対()性の理法、原理原則であります。またこれによって無限に存在を進行させていく、これを(ちゅう)と言います。
そこで中とは非常に行動的、創

造的でありまして、相対しつつ相待って、無限に矛盾統一して進歩向上していく働き、これが本当の(ちゅう)であります。その相対()性原理、原則というものが陰陽であります。そして無限の進行が易であり、易学の要約であります。これが易学を全体的に把握した場合の解説、説明であります。
29日 根と幹」と「枝葉」 そこで陰陽の意味を正しく理解することが根本であります。これが出来なければ易は混乱に陥ってしまいます。この陰陽と、その結果における中の理法、これが易学であると申して宜しい。儒教に中庸(ちゅうよう)という書物がありますが、これはちょうど易の中を別の面から把握解説したものであります。更にもう一つ顕著なのは老子であります。この中庸、老子、易というものは一連のもので皆相待って東洋哲学の大事な

中核をなしております。人間も陰陽によって出来ております。女は陰性であり男は陽性であります。この造化の働きの中で一番分かりやすい具体的な例は植物であります。草木を生み育てていく創造自体は何かと申しますと根であります。次に幹であります。これが根幹であって、枝葉が分かれ、花が咲き実がなる。そこでこれを陰陽で申しますと、根幹が陰の代表であり、枝葉と花実は陽の代表であります。 

30日 女は造化のまま この陰陽が相対しつつ、相待って、始めて草木、樹木というものの存在繁栄があります。陰とは「統一含蓄」であり、陽は「発現(はつげん)分化(ぶんか)」であります。これを統一発展せしめるものが「(ちゅう)」であります。

そこで女は相対()性原理の陰原理的なものでありますから、どちらかと言うと「根本」であります。或いは「本体」であります。従って人間の男女を比較すると大事なのは女であります。女は自然そのまま、造化のままであります。 

31日 仁・愛・慈 女の本質を男と比べますと、これを儒教の言葉で申しますと「仁」であり、仏教の言葉で言うなら「愛」であります。 愛のうちで最も創造力、つまり生みの働きについて昔の哲学者は悲という字を与えております。それにものを育て慈しむという「慈」の字をつけて慈悲という言葉を使っております。