徳永圀典の「日本歴史」
平成19年5月度

 1日 幕府政治の動揺
転換期の幕府
17世紀も半ばとなると、戦国時代の気風も弱まり、幕府の統治も次第に安定した。そこで幕府は大名に対して、それまでの 厳しい領地の取り上げとか領地を減らすとかを改めた。大名を潰すと浪人が増え社会不安の原因となつたからである。
 2日 五代将軍・綱吉 綱吉は武士たちが殺伐とした行動に出ないようにと「生類憐みの令」を発して、子供や病人を捨てることを禁止し、更に犬から虫に至るまで一切の生き物の殺傷を禁じた。(1687) また湯島聖堂で孔子を祭るなど儒教の普及にも努めた。武道より学問を重んじた綱吉の政治を文治政治という。各藩でも藩校を設け儒学による武士教育に努めるようになった。
 3日 正徳の治

綱吉の死去の後、新井白石が登用され、生類憐みの令を直ちに廃止し、貨幣の価値を元に戻した。

物価高を抑えたのが正徳の治であるが、今度は不景気を招き、白石の政策は効果をあげなかった。 

 4日 幕府財政悪化 幕府の財政難の根本原因は産業の発達に伴う大きな社会変動であった。17世紀の産業発展により様々な商品が生産されるようになったが、それだけ幕府の支出も増大していた。18世紀になると、米価格はこれらの商品に比較して下落しており米を年貢に依存している幕府や諸藩の収入は、慢性的に不足する こととなるわけである。これに対処する為、幕府は綱吉の時と同様に貨幣改鋳を対策とした。これがその後も江戸時代を通じて屡行われたし大商人への借金も増大した。貨幣改鋳は物価高を招き反対に幕府財政を悪化要因となった。また大商人への借金も限度があった。
 5日 享保(きょうほう)の改革

八代将軍の吉宗は幕府政治の大改革を始めた。先ず支出を抑制する為、大名・旗本に徹底した倹約令を出した。そして諸大名に上米(一定の量以上の米を幕府に献上)を命じ、更に新田開発や年貢率を上げたりして収入増加に努めた。

商業の発展に伴い増大する訴訟のため公事方御定書という法律を作り裁判の基準とした。目安箱を設け民衆の意見を聞く制度も作った。これを享保の改革と呼ぶ。年貢率の増大は百姓一揆を頻発させたが一応の成功はした。
 6日 公事方(くじがた)御定書(おさだむしょ)(徳川禁令考より) 盗人御仕置之事(ぬすびとおしおきのこと)

一、人を殺し、盗みをはたらいた者、引き廻しの上、獄門

一、盗人の手引きをした者、死罪

一、通りすがりの人から金品をうばった者、獄門
一、手元にある品をふと盗んだ場合、金で十両以上、物で代金にして十両くらいより以上は、死罪。
一、金で十両以下、物で十両くらいより以下は、入墨叩敲(いれずみたたき)

 7日 葉隠(はがく)れと赤穂武士

戦乱の機会が遠のき、武士達も平和な生活に慣れていったが、半面で自分達の本来の姿を示したいという欲求もあった。江戸城で吉良上野介に斬りつけ切腹させられた赤穂城主の浅野長矩の家臣たちが吉良へ仇討に成功

して評判(1703年)、後に忠臣蔵という芝居となり後世に伝えられた。また肥前藩の山本常朝は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で有名となる「葉隠(はがくれ)」という談話集を残した(171)
 8日 問屋制家内工業 18世紀後半となると、年貢の基盤である農村そのものが大きく変化する。流通の発展で農村も問屋が農家に資金や原料を前貸しして生産を依頼する「問屋制家内工業」が見られ、より大きいな収益を求めて働く傾向が農民の間にも拡大した。
この為、米以外の農産物や生産

や副業に力を注いで成功し豊かになる人々がいる反面、失敗して借金のため土地を失い小作となる人々も出てきた。結果、村内部での対立が発生、またより自由な生活を求めて江戸など都市に出て零細な商人となったり商家に奉公する人々も増えた。従って地方では田畑が荒廃する地域も発生している。

 9日

工場制手工業

マニファクチャーである。19世紀中頃になると酒造業や綿織物業などで、労働者を工場に雇い入れ、分業により生産するという方法、工場制手工業が出現するようになった。幕府の老中として政治の実権を掌握した田沼(たぬま) (おき)(つぐ)は、発展する商業・流通に着目して幕府財政を豊かにしようとした。彼は商人たちに株仲間を公認しその独占的利益を認める代わりに一定の運上金(営業税)を納めさせ収入増加に努めた。
10日 田沼(たぬま)(おき)(つぐ)

幕府は海産物を輸出するため、蝦夷地(えぞち)(北海道)の開発も試みた。田沼の政策は斬新であつたが、余りにも大商人が幕政に深くかかわり賄賂が横行して批判を浴びるようになった。

その頃、1783年には気候不順で起きた大飢饉(天明飢饉)で数十万人もの人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発した。田沼はその責任を問われて失脚した。田沼が政治の中心のいた時代は田沼時代と言われた。
11日 浅間山噴火 浅間山の噴火が世界の気候に影響し不作が発生した。 農産物の不作が原因になり1789年のフランス革命が起きたという説もある。
12日 天明の飢饉 十八世紀の終りごろ天明年間(178189)は毎年のように豪雨がつづいた。大小河川が氾濫し、凶作がつづき、人びとは飢饉にせめられた。この時期の飢饉は享保の飢饉と天保の飢饉 とをあわせ、普通”近世の三大飢饉”といわれている。当然物価は上昇し、大住郡内では天明元年当時、金一両で米六斗が買えたが、同六年には四斗八升となった。飢饉>物価高により、全国に一揆が激発した。
13日 ロシアの対日接近 18世紀末頃から、日本の周辺に欧米諸国の船舶が出没し始めた。特にロシアは16世紀後半からシベリアの征服を開始していたが、18世紀末にはアラスカとカムチャッカ半島に到達してきた。 ロシアは酷寒の地シベリア経営の為の食糧などの生活必需品調達先を日本に求めようとしたのであるそこで18世紀末頃から19世紀初頭にかけて使節を日本に派遣し通商を求めた。
14日 ロシアの日本襲撃 ロシアとの通商を幕府が拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので緊張が高まった。小林一茶の「春風の国にあやかれおろし(ロシ)()舟」「初雷やえぞの果てまで御代の鐘」の句はこの時の緊張が庶民にまで感じられ たことを示す。幕府は蝦夷の松前藩の領地を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に樺太を含む大規模な実地調査を命じた。フランスのナポレオンがロシア遠征を開始すると日本とロシアの緊張は緩んだ。国際情勢に敏感に影響されだした。
15日 英国の侵入 文化五年(1808)、イギリスのフェートン号がオランダの長崎商館の引渡しを求めて長崎港に侵入するという事件が発生した(フェートン号事件) 当時、イギリスとフランスは戦争状態にあり、フランス側に属していたオランダの東洋各地の拠点を攻撃して獲得しようとしたのである。傍若無人の当時の白人である。
16日 異国船打払令 北太平洋では、欧米の捕鯨船の活動が盛んとなり、日本の太平洋岸にはこれらの船が接近して、水や燃料を求めるようになった。幕府は海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、文政八年、1825年に異国船打払令を出した。 その後、幕府は浦賀に日本の漂流民を届けにきたアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払った。(モリソン号事件、1837年)。蘭学者の高野長英や渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知っており幕府の措置を批判した。幕府は彼らを厳しく処罰した(蛮社の獄)。
17日

間宮林蔵 

間宮林蔵は、安永9年(1780) 常陸国筑波郡上平柳村に生まれた。名は倫宗(ともむね)号は蕪嵩(ぶすう)、林蔵は通称。幼い頃から神童と呼ばれた。 日本各地で行われた治水、新田開発の仕事に従事しながら測量や土木技術を身に付けた。19歳の年はじめて蝦夷に渡る。それから文政5年(1822)松前奉行が廃止されるまで、林蔵はほとんど蝦夷地内で活動し、華々しい成果をあげた。 間宮海峡発見の後の半生を、蝦夷地測量12年間という大事業に捧げている。カラフト探検はあまりに有名だが、蝦夷全土を測量し、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させたのは大きな業績。その成果はさらに、今日の北海道地図の基礎となる『蝦夷図』の完成となり林蔵の『蝦夷図』には、主だった集落の名が驚くほど細かく記されている。
18日 寛政の改革 18世紀末、田沼意次の失脚後、松平定信が老中に就任、田沼政治を否定し将軍吉宗の政治を模範として改革に取り組んだ、これを寛政の改革と呼ぶ。定信の改革は、倹約の徹底、農村再建、飢饉のような非常事態対策の充実が基本であった。
農村では米など主要穀物の生産
奨励、都市に流出した農民の帰村、荒廃した農村に他村からの呼び寄せが試みられた。各地には社倉(しゃそう)義倉(ぎそう)と呼ばれる貯蔵庫を設け飢饉に備えた。江戸では非常事態に備え、基金である七分積金を設置、江戸石川島の人足寄場で無宿人の職業訓練を行った。
19日 寛政の改革2 寛政の改革は、主として流通の発展に伴う農村の変化を抑えることを目指していた。この時代、社会変化により人々の多様な職業や生活の機会は増えたが、反面、飢饉のような非常事態の緊急物資配布の適切な方法が無かった。 交通は未発達、藩ごとに行政区画も別れていたからである。為に被害が大きくなり、農村では百姓一揆、都市では下民層の生活が直撃されて打ち壊しが発生した。飢饉対策は、農村・都市を通じて不可欠のものとなっていった。
20日 寛政の改革3 定信の改革で最重要なものは、倹約の徹底であった。社会全般の華美に気分の引き締めの為、文化や風俗の取り締まりがなされた。然しこれは幕府内部でも不評を呼んだ。
定信が老中に就任すると、将軍家斉が権勢を奮うようになり
、家慶に譲った後も大御所として政治の実験を把握した。この時期は贅沢により弛緩の気分が漂い大御所時代と呼ばれた。幕府は再び財政難となり盛んに貨幣改鋳を行った。物価高を招き、一方で好景気を呼び起こし江戸の町人中心に化政文化が栄えた。
21日 徳川(いえ)(なり) 家斉は40人の妾を持ち、55人の子供がいた。 寛政の改革の風刺狂歌「白河の 清き魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
22日 飢饉と大塩平八郎 天保4年、1833年から六年間ほど日本は凶作に襲われ深刻な飢饉となった(天保の飢饉)。各地では藩当局の対策を問題にして百姓一揆や打ちこわしが発生した。
大阪でも餓死者が出たが、陽明学を学んでいた大塩平八郎は、
豪商が幕府の命令で米を買占めて江戸に送っていた事に怒り、1837年、門弟や民衆を連れて豪商を襲撃した。暴動は一日で鎮圧されたが、大塩が大阪町奉行所のもと与力であったことが幕府に大きな衝撃を与えた(大塩平八郎の乱)。
23日 天保の改革 天保12,1841年、家斉が死去すると水野忠邦が老中首座となり、幕府財政の改善をして大塩の乱のような都市騒動に備え、更に外国船来航に対処するための改革を開始した。これを天保の改革という。忠邦はまず徹底した倹約令をだし、歌舞伎や華 美な風俗、大衆向け文芸を厳格に取り締まった。そして農村再建のため、農民が商業を営むことを禁止し農民の都市からの帰村(人返しの法)を図った。物価抑制のため、株仲間の解散を命じた。定信以上に農村再建と商業抑制に取り組んだのである。
24日 外交と国防 忠邦は、アヘン戦争で清国が敗北したことを知り、欧米諸国の軍事力が強力なことを悟り、異国船打払い命令を緩め、漂着船には水や薪の給付を命じた。一方、西洋式砲術を採用し軍事力を整えた。さらに上知令を出し て、江戸と大阪周辺の旗本や大名の領地を幕府直轄地にして江戸湾と大阪湾の海防を強化した。また外国船が江戸湾封鎖をする場合に備えて、房総半島の銚子から利根川を経て江戸へ至る水路を開くため、印旛沼の工事を行った。
25日 幕藩体制の動揺 忠邦の改革は商業の犠牲の上の農村再建であり流通が激しく混乱した。また大名たちの上知令への反発が強まり、遂に忠邦は老中職を追われた。
このように幕府の政治は行き詰まり大名たちへの権威は揺ら
いでいきた。幕藩体制が動揺してくると、幕府や藩は統制を強め、その動きは身分秩序にまで及んだ。各地で、えた、ひにん、と呼ばれる人々への差別が強化されたが、差別支配に抵抗する動きも出た。
26日 雄藩の改革 薩摩藩や長州藩は財政が困窮していた、商人から莫大な借財を帳消し同然に処理し、有能な人材を登用して専売制を強化す

るなど、財政立て直しに成功した。この両藩は、この成功を背景に雄藩として幕末期の政治に対抗してゆくのである。 

27日 化政文化 18世紀の中頃から、江戸の経済力が増すにつれて、文化の中心も大阪から江戸に移った。寛政の改革の反動で文化・文政年間には江戸を中心に町人文化が栄えた。これを「化政文化」と呼ぶ。文芸では、幕府の政治 を風刺し世の中を皮肉った川柳、狂歌が流行った。―また十返舎一九の「東海道膝栗毛」や式亭三馬の「浮世風呂」のような滑稽な読み物が愛好された。どちらも庶民の生活ぶりを面白おかしく表した作品である。
28日 町人は時代の主人公 町人こそ時代の主人公であったことを示している。滝沢馬琴は、大長編の「南総里見八犬伝」など、現実離れした娯楽性の強い歴史小説を書き庶民の人気を よんだ。俳諧では、画家であった謝蕪村が絵画的な美しさを表現した、小林一茶は農民の生活を歌った句で人々に愛された。
29日 この頃の庶民 町人たちは、歌舞伎見物に繰り出し人形浄瑠璃や寄席で演じられる落語を楽しんだ。

寺や神社の祭りや縁日は賑わいを見せた。また余暇を使い伊勢参りや四国巡礼も流行しだした。 

30日 浮世絵 世界に誇る優れた美術作品が次々と生まれたのはこの頃である。浮世絵では、錦絵と呼ばれる多色刷りの版画が工夫され豊かな表現が可能となった。喜多川歌麿は美人画に筆をふるい、東洲斎写楽は短期間に、人物の性格や表情をとらえた役者絵の傑作を世に送りだした。 葛飾北斎が出て、奇抜な構図と華麗な色彩を用いた風景画で名をはせた。彼の富嶽三十六景や諸国滝廻りを見ると、江戸初期に伝わっていた西洋絵画の遠近法や陰影のつけ方まで完全に消化した上で独自の空間表現を行っていることが分かるとされる。
31日 黄金時代の浮世絵 歌川(安藤)広重は北斎の影響を受けながら、東海道五十三次などの情緒溢れる風景画を描いた。これらの浮世絵は19世紀後半、西洋に持ち込まれて西洋近代絵画の形成に大きな影響を与えた。

浮世絵が江戸の町人に人気を博した一方で、知識人の間では、池大雅や与謝蕪村、浦上玉堂ら文人画家の作品が愛好された。文人画家は中国の文人の生き方に学んで、自然に親しみ日本的な山水画を描いた。