日本、あれやこれや その37
平成19年5月度

 1日 創氏改名 反日家が、日本の朝鮮の悪政の一つとして「創氏改名」を持ちだすが、事実に反している。上からの押し付けではなく下から進んで願い出たものである。日清・日露戦争に勝った国の日本名なら、朝鮮人も大手を振っ て中国大陸に進出できたからである。日本の士官学校を出て中将にまでなった浩思翊や、日本の国会議員になった朴春琴氏など、朝鮮名のままで通していることで分かる。こんな事は、欧米植民地ではあり得ない。
 2日 韓国の反日理由 戦後、不幸にも韓国は極端な反日国家となってしまった。その理由は、マッカーサー占領軍が日本に進駐し、抗日の闘士、李承晩をアメリカから連れて来て

韓国大統領にして、東京裁判を有利にする為である。そして日本帝国の36年の悪業を捏造し、反日を国是とし国民の反日感情を煽ったからである。 

 3日 平気で嘘つく韓国 日本には江戸時代から明治以来、一貫して反韓思想も、反韓運動も無く、親韓国なのに、隣国の韓国が一方的に反日政策を取っている不幸がある。
韓国で、日本帝国36年を反日

のスローガンにしているが、実際は34年数ヶ月である。それを都合よく切り上げ、四捨五入を使い36年にしたものである。このように明かな「ウソ」を平気でつく韓国のやり方は中国と同様文化で信用できない。

 4日 親日国・台湾 台湾は日清戦争の賠償として清国から下関条約により割譲されたものである。当時の台湾は蛮族の住む未開の地とされ、中国は化外の地(文明の外、中国ではないの意)として厄介者で

あり日本に押し付けたのである。事実、百年前の台湾は、亜熱帯林に覆われて、恐ろしい風土病、毒蛇の出没する為、人口は僅か250万人、現在の一割程度であった。

 5日 日本の台湾政策 一視同仁、即ち日本人と同じの皇民化政策である。莫大なお金を使い道路、鉄道、電気、学校などの社会基盤の整備に全力を尽くしたのは朝鮮半島と同じである。 特に教育の普及は住民の知的水準を高め、忽ち野蛮国から文明国になり、戦後アジアで日本に次ぐ経済発展国に成長した。日本の50年に亘る台湾経営の成果は見事に成功した。朝鮮半島とて同様である。
 6日 ミニ・ジャパン 台湾には今でも二宮金次郎の像が勤勉と儒教精神の鏡として尊敬され、教育勅語や天皇の御真影を大切に守っている家があるという。戦後台湾が東アジアの優等生になれたのは、基本的には日本統治時代の社会基盤があった上に、日本からの資本と技術移転の波に乗り、日本文明 の一つのサブ・システムとして、日本経済の全身基地の役割を果たしたからである。台湾が「ミニ・ジャパン」として、日本の世界経済の前進基地の役割を果たしたからである。台湾が「ミニ・ジャパン」、または「第二の九州と言われるのはこのためである。
 7日 唯一の親日国・台湾 台湾の今日あるのは日本のお陰と考え、島民は日本を怨むどころか感謝している。総統をされていた李登輝さんは、いまでもそう各地で発言し続けておられる奇特なお方であるが日本人は冷たい。
台湾の歴史の中で、日本統治時
代が最高に幸せな期間と懐かしんでいるのが実情である。台湾は世界の中で最も親日的な唯一の国である。大東亜戦争もアジア解放と考えている。台湾人も日本人として志願して兵隊となり勇敢に戦った。靖国神社には二万人もの英霊が日本人と同様に祭られている。
 8日 海南島との対比 台湾の日本統治の成功は、中国の海南島と比較すれば一目瞭然である。海南島は中国大陸の南海上にある、九州や台湾と面積が同じ島である。
両島は百年前は全く同じ地理的
歴史的条件であったと言える。今日、台湾の国民一人当たりのGNPは遥かに一万ドルを越えている。中国はその三十分の一、海南島は六十分の一の貧困のままである。中国の政策がいかに劣っていたかが分かる。
 9日 フィリピンの貧しさ フィリピンの住民の声を聞いて感動した人がいる。フィリピンは台湾の隣りの南の島国、だが台湾と比較してあの貧しさ。フィリピンの住民は、自分達も 台湾のように日本の植民地になっていたら、どんなに豊かになり良かったと残念がつていたという。フィリピンは、スペイン、アメリカの植民地として収奪されたままだからである。
10日 韓国 韓国は「日帝36年」をスローガンにして、日本統治を怨んでいるが、それなら日帝50年の台湾はもっと悪政が続いてより悪くなっている筈なのに、逆に韓国より栄えてきた。何故だろうか。国との約束は守らなくてはならぬ、他国に干渉してはならぬ。韓国自身に問題があると思われる。 白人植民地と日本のそれとの決定的な違いは、戦後の姿にも如実に現れている。日本が戦前植民地にしたり、占領した土地や民族は、日本に近い程栄えている。アセアン諸国の発展は何を意味するのか、米国支配のフィリピンが隣の台湾と豊かさに天地の違いが出たのは日本に原因がある。
11日 光り輝くアセアン諸国 現在、東南アジア諸国は、世界で最も成長率の高い国々ではないか、「日本に学べ」の日本システムの学習成果であろう。極東の小さな島国・日本は、貧しい資源小国から経済大国になる

システムを開発した。この「日本文明」こそ、「21世紀最大の世界諸国の目標」でなくてはならぬ。日本文明は世界の日本化現象にならなくてはならない必然性がある。

12日 日本人は世界一温和 中国や欧米の一部は、日本人は世界一残虐性に富む野蛮人だと、戦犯の原罪三悪の一つにされているが、これは彼等の謀略であり事実は全くアベコベである。日本人は温和な島国で草食で暮らす農耕民族である。
中国から欧米に至る大陸民族は
肉食で毎日、血を見て暮らして平気な動物型人間で闘争心と残虐性に富んでいる。日本は国土が光と水と土に恵まれ、豊かな緑の環境の中で殆ど外敵らしいものがなく植物中心のおとなしい羊的人間になっていたのが自然の生態から当然なのである。
13日 神様のお供え比較 日本では神様へのお供えは、野菜果物だが、大陸民族はイケニエを捧げる。西洋の神に野菜など供えたら神は首を横に振って、バカにするなと怒るだろう。キリスト教徒は十字架に磔にされたキリストの血のしたたる残虐な刑死の姿を毎日拝む。 東洋の仏教徒は自然死されたお釈迦さんの涅槃の安らかに横たわる姿に感動し親しみを覚える。観音様も如来の像も血とは縁が無い。仏教には一神教の怨念や原罪思想はなく慈悲に満ちた温かい安らぎがあるではないか。ここに民族の根底的な人間性が伺える。
14日 奴隷 日本には奴隷制度の歴史はない。
ドレイという言葉も無かった。
世界の文明国で、日本のみドレイという概念さえ全く知らぬ唯一の国である。
15日 紋所の比較 西洋の王家の紋所―紋章は、ライオン、熊、双頭の鷲という猛禽類である。英国王室は先祖が海賊(バイキング)であることを 誇りにしている。日本の皇室は菊、将軍家は葵の御紋である。各家の家紋もすべて植物で構成されている。
16日 世界の動物分布 世界の動物分布を観察すると弱肉強食、自然淘汰の原則に従い、弱いもの程、大陸の辺縁や、島や山奥に追いやられて分布している。
ユーラシア大陸の真ん中には虎
や狼のような強い肉食類が棲み、有袋類のカンガルーやコアラが大陸より遠いオーストラリアに逃れてやっと生き延びている。山頂に追い上げられて生き残ったのがパンダである。
17日 人類の分布 動物の生態分布と同様である。大陸中央にはジンギスカンを生む勇猛な蒙古族が占拠し、周辺の移民族を蹴散らして、弱い民 族ほど辺境の山奥や半島、島に追いやられている。マレー半島や朝鮮半島の民は弱いが故に半島に逃れて生き延びたのである。
18日 日本民族と大陸民族の違い 日本民族は、半島から更に前方の島に逃れてきたコアラのように争わない温和な民族なのである。幸い移動先の日本列島の自然が豊かで気候温暖、花鳥風月を愛し、義理人情に心を動かし、大陸の民のような荒々しい闘争心が育たなかったのである。 農耕民は自然相手だから勤勉正直に働けばその分だけ報われる。対する狩猟の民はワナやオトリをかけて相手を騙すことが商売で平気である。日本人は正直で騙されやすい民族となった。性善説と性悪説の相違である。
19日 存在しない南京大虐殺 中国人は白髪三千丈と大袈裟を平気で述べるだけでなく存在しない南京大虐殺30万のように白を黒といい含めて少しも良心を咎めない国民性がある。
東京裁判で、アメリカは広島・長崎で30万人余の虐殺の罪を
隠すために、突如として南京虐殺30万を捏造して、これでおあいこだと相殺したつもりでいる。白人や大陸国民は、戦争で一般大衆の虐殺は平気なので日本人も南京でやった筈だとデツチアゲたのである。
20日 虚構の南京虐殺 南京虐殺説が虚構である間接的な証明がある。それは、蒋介石の戦後処理で明白となる。シナ事変で日本軍が戦わされたのは中国共産党ではなく蒋介石軍である。その蒋介石は終戦後直ちに在中国日本軍人、軍属、民間人210万もの日本人を無傷で直ちに帰還させた。
賠償金500億ドルも放棄し、天
皇制の維持と日本分割にも反対してくれた。極めて寛大な措置を取ってくれた恩人といえる。もし南京大虐殺が真実なら、親分の蒋介石が日本人をタダで帰還させると言っても、被害を受けた民衆が承知しなかつたであろう。在中国日本人への略奪、殺人、暴行の大混乱があった筈である。
21日 シナ人のたかり習慣 また、多数の残留日本人孤児をあれ程大切に育ててくれた事実からして、シナの大衆が日本人に怨みを抱いていたなどとは到底想像できない。 日本軍が大陸で民衆を虐殺したり、乱暴して迷惑をかけたなどの説は、殆ど前後の誇大デツチアゲで謝罪と賠償金をせしめようとするシナ人のタカリ習慣から生まれたものであろう。
22日 日本軍の規律正しさ 明治以来、日本軍は規律正しく統制のとれた模範の軍隊として世界的に定評があった。軍人勅諭と戦陣訓の下、厳粛な規律があり、占領地での略奪・強姦など有り得ない。発見されれば軍法会議で即刻重営倉入りであった。

処が外国の軍隊では白人もそうだが、シナの軍隊は馬賊と言われるように、侵略先の町村を破壊し、泥棒や強姦はやり放題、それが唯一の給料でありボーナスだから、この時とばかり悪事を働いていたのである。 

23日 外国軍隊の乱暴 アヘン戦争以来、英国兵士のシナ大陸での泥棒行為は有名である。占領地で珍しい絵画、陶磁器、宝物などを奪って給料とし後に大英博物館の東洋の古美術として大量に展示されていることがその証明である。南京入城における松井石根大将の軍隊の整然たる規律正しさは当時の世界の新聞に報道され、欧米居留民を安全に保護したことなど

で感動された事実を伝えてさえいるのだ。戦い終えて無抵抗な民衆を虐殺するような残虐行為は日本人の心情として出来ない。シナの兵隊が自分達がふだんやっているものだから、日本軍も当然やった筈だとのデツチアゲである。南京事件が無かったことは日本の学者により証明され、信用ある多くの著書が出ている。

24日

日本軍の精神

日本軍の真実の姿は、根幹は武士道精神だが、戦前のよく歌われた、赤い夕陽の満州の「戦友」と、乃木大将の「水師営の会見」の歌詞の中に集約されている。戦友では、「軍律厳しい中なれど・・」で解るように、戦場でさえ戦友を助けることが 出来なかった我が軍規の厳しさと友情をうたっている。「水師営の会見」では、昨日の敵は今日の友で敗者をも懇ろにいたわる日本の武士道精神が脈動し、世界の人々をも感動させたものだ。日本人は自分の先祖を知り誇りを持たなくてはならぬ、不勉強ではないか、喝!
25日 「戦友」歌詞 

真下飛泉・作詞 
三善和気・作曲
1)ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
2)思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
  敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
3)ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
  にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて
4)軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
5)おりから起こる吶喊に 友はようよう顔上げて
  御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙
6)あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
  それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
7)戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きていてくれと 物なと言えと願うたに
8)虚しく冷えて魂は 国へ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
9)思えば去年船出して 御国が見えずなった時
  玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
10
)それより後は一本の 煙草も二人分けてのみ
  着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
11)肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
12)思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは
13)隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
  友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙
14)筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
  読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく
以上が「戦友」の歌詞です。満州という地名も出てきて大日本帝国が中国大陸に出兵した頃の歌ですが、決して戦意を鼓舞するような好戦的な歌ではありません。むしろ「満州」は御国を遠く離れた異郷であると冒頭にあるとおり、何で他人の国に入ってまで戦争をしなくてはいけないんだ、そのためにあいつは死んでしまったんだという反戦・厭戦の気持ちさえ感じられます。これは反戦歌だと言った左翼系の友人もいました。もちろん実際に従軍した世代の人たちはそんなことはなかったと言うかも知れませんが、戦後に生まれた我々の世代からみると他の軍歌とは明らかに異なった雰囲気が感じられます。当時の軍部でもこのような雰囲気の歌は本当はあまり歓迎しなかったでしょうが、兵隊たちがこのような挽歌を歌う気分は軍部の力をもってしても抑えきれなかったものとみえます。ただこの4番の歌詞で「軍律厳しい」とは何事かと横槍が入って、「硝煙渦巻く」と歌い替えたこともあったそうです。
26日 「水師営の会見」歌詞

文部省唱歌 「水師営の会見」


佐佐木信綱 作詞

一、旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル
   乃木大将と会見の 所はいづこ、水師営

二、庭に一本棗の木、弾丸あともいちじるしく
   くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

三、乃木大将は、おごそかに、御めぐみ深き大君の
   大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる

四、昨日の敵は今日の友、語ることばも打ちとけて、
   我はたたえつかの防備、かれは稱えつ、我が武勇

五、かたち正して言い出でぬ、「此の方面の戦闘に
   二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞ」と

六、「二人の我子それぞれに 死所を得たるを喜べりこれぞ部門の面目」と、大将答え力あり

七、両将昼食共にして、なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり今日の記念に献すべし」

八、「厚意謝するに余りあり 軍のおきてにしたがいて他日我が手に受領せば、ながくいたわり養わん」

九、「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左砲音絶えし砲台に ひらめき立てり、日の御旗


水師栄の会見の際にステッセルより乃木希典が受領した白馬は、後にステッセルの名に因んで、「寿(ス)号」という名がつけられました。なお、乃木希典はステッセルに鶏30羽と酒2ダースを贈っています。
27日 日米
勝者の態度比較1
先ず、日本が勝者の時、日露戦争の終結後、勝者としての日本の敗者に対する寛容さと米国の勝者としての日本に対する残虐性を対比すれば分かる。日本とアメリカ、どちらが武士道・騎士道に従っているのか明白である。 日露戦争終結で、乃木大将は敵将ステッセル将軍を水師営に招き、天皇の大勅(おおみことのり)(お言葉)を伝え、昨日の敵は今日の友として遇し、敵の防備の素晴らしさを称えている。
28日 日米勝者の態度比較2 大量のロシア軍の捕虜たちは、四国各地の町で住民に懇ろに扱われ、途中に死んだ将兵をも手厚く葬り、今でもその墓所には市民の献花や清掃が続いている。日露戦争後の日本のこの処理に対して、日米戦後処理では、 日本の将軍や指導者を残酷な絞首刑に処し、無法な東京裁判で五千人もの人々を刑務所に放り込んだ。このように東京裁判と水師営とを対比すれば、彼我の民族性の残虐性の相違が、武士道と騎士道の違いが明確となる。日本人はこれを自覚し矜持を持つべきである。
29日 米国の秘かな謝罪1 日本が戦後謝罪病となっている間に、米国識者の中から戦争中の真実、東京裁判の違法性を告発する論評が多く発表されているのは流石であり中国と違う理性も持つ大国ではある。米国歴史学の権威、チャールズ・ビアード博士は、終戦間も1948年、米国公式資料に基づいて「ルーズベルト大統領と第二次世界大戦」の著書を発表した。 この中で博士は、日米戦争は好戦大統領の周到な準備で日本を挑発して仕掛けた謀略、つまり米国の侵略戦争であることを痛烈に告発している。この本からルーズベルトは米国民自身と日本国民とを同時に騙して無謀な戦争に突入したの、日本は「騙まし討ち」にのせられたのである。
30日 米国の秘かな謝罪2 戦後、アメリカ青年詩人のコーエン氏は、そのビアード博士の本を大学の図書館で読んで仰天、大統領が戦争を仕組み無実の日本の指導者を処刑したことに心から詫びたいと来日、巣鴨処刑場跡の記念碑の前で次の詩を書き残した。

ああ アメリカよ、法を曲げ 正義を踏みにじった

ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン 今や 黄泉にて 汝の非道に 涙す 

31日 世界が裁く東京裁判 東京裁判の不当性を突き、無罪論を展開したのはインドのパール判事だけではなかった。海外の多数の国際法の専門家や著名文化人らが大東亜戦争の世界史的意義や東京裁判の不当性を論評していたのである。 その中、85人を選んで「世界が裁く東京裁判」という著書が国際法の権威、佐藤和男教授の解説で出版された。東京裁判の判事11人の判事の中にはパール以外オランダのレーリックもフランスのベルナールも裁判自体の違法性を強く訴えている。