物になる 鳥取木鶏会5月講話 徳永圀典

あれも、近頃、「物になったな」とか言う表現があります。最近は使わぬから若い方々は分からぬかもしれない。

その「もの」の字をご存じでしょうか。

者ではありません。「物」なのです。

どこから、この表現が来たのか、

 

実は、日本人は、難しい仏教とか古典から、平気で日常で使って人口に膾炙しているのであります。ガキもその一つでしょうね、仏教かに出てくる「餓鬼」、

色々あります。

投機、挨拶、宗教、老婆心、無事(むじ)心外(しんげ)脱落、退屈、大衆、大丈夫、達者、他力本願、畜生、道楽、など元来は仏教から出た難解な言葉であります。これは後日に解説致しましょうか?

 

横道に逸れました。

 

元に帰ります。あれも、近頃、「物になったな」。

その「もの」の字をご存じでしょうか。

者ではありません。「物」なのです。

 

例えば、あるがままの、人間の状態、これを「」と申します。粗野、野蛮の野ですね。私には現代人は、これに近い感覚。

これは、人間が、「垢抜けしていない」、

「修養の加わらない」、「在るがままの状態」の人間ですね。

この、野蛮な人間が、「真理」を聞き、「道」を学んで、

やや出来た状態、と、申すよりは、

「在るがままの無知で、素朴な状態でなく、真理とか、道に「耳を傾け出す状態」、それを「」と申します。

 

「野」の次に「従」です。

一年にして野なり、二年にして従であります。

 

一年、二年とは比喩でありまして、現代人には60年経っても「野」の人ばかりかもです。

 

三年続きますと「」、これは「真理」を聞き、「道」を学んで、ある程度の所まで進歩してきた状態です。

 

ここで言う一年、二年とは譬えであります。

何年たっても「物にならない」もいるのであります。

 

そこで、四年にして「」、いわゆる「物になる」。

これが「物になった」の語源であります。

 

とにかく、在るがままの最初の「野」から、「従」、「通」じてきて「別の物」になった。

 

どうやら、「只の人間」ではない。一つの「本物」になったと言うので、四年にして「物」になったのですね。

これが、第一次の完成段階であります。

あれも、物になったなであります。

 

物になって参りますと、野とか従の時代、道を聞かざる前には無かった何ものかが、即ち、「別の力」、或いはインスピレーションが現れてくる。

これを「」と言います。

 

五年にして「来」。新たなるものが、第一次完成から出てくるわけです。

 

つまり、「道」の中に、ぐんぐん入ってゆけるのです。

出てゆくのではありません。入って行くのであります。

 

そうしますと、一定の進歩を遂げた第一次完成の後からは、インスピレーションがやって来て、何か、神秘的なもの、つまり「霊的」なものが現れてくる。

これを「霊」と言わずに、老荘流には「()」というのです。日本の鬼も「き」と理解すれば本質がわかるのであります。

これを、「鬼入(きにゅう)」という、六年にして「鬼入(きにゅう)」。

 

そして、七年にして、「天成」。

これが第二次人物完成へ到達であります。

 

「物」までは人成、まだ人間的であります。

そこから新たなるものが流入してきて、そこに

何か神秘的な作用が起こってくる、そこで初めて

第二次の完成、即ち「天成」となる、「人成」ではありません、「天成」、つまり人間から「天」に入った。

 

こうなりますと、もう、人間の生死などは問題ではない。

八年にして「死を知らず」、「生を知らず」、即ち、

「不知死」、「不知生」。

 

かくして九年にして、大いに妙なり、「大妙」となるのであります。

 

実は、これは、

老荘流の、「人間完成九段階の説」であります。

荘子の雑篇の「寓言」にある有名な比喩であります。

 

これが、老荘流の心境、或いは「人格発達の道程」であります。

誠に面白く、よく出来ている話であります。

 

色々の法を、最初から、付けてゆくのではない。

全て、去ってゆく、捨ててゆく、そこから抜けてゆく。

それが「奥深く入って行く」ことが東洋流なのであります。東洋哲学なのであります。

 

そして、最後には、人間の本源、「人間の幹」、或いは「人間の根」に到達する、これが本当の「生」となり、

「大妙」になるのであります。

 

なかなか、西洋流思考には無い、陽より「陰」こそ、根源であるという易の哲学と同根であります。

 

    平成28年5月2

    鳥取木鶏会 代表 徳永圀典