律令国家の基盤をつくった聖徳太子

推古朝は、推古女帝というより寧ろ聖徳太子が執政にあたられて大きな治績を残されています。そこで、推古朝については聖徳太子を中心にして眺める必要があります。また単に摂政として聖徳太子が重要な役割を演じられたというだけでなく、実は推古朝以後、聖徳太子によって後の律令国家体制の基盤がつくられたと言う点からもその治績が注目されるのです。

従って、これより後、古代史上に大きな功績を残された聖徳太子に話の中心をおいて述べていきます。

 

聖徳太子の生涯

四十九年の生涯

聖君、賢君、律令国家の父と言われ。さまざまな伝説的逸話を持ち、古代史上、最も有名な人物にして、その徳が慕われて信仰の対象とさえなった聖徳太子、その太子の生涯は実のところどのようなものであったのか、まず年代を追って太子の生涯を概観しておきましょう。

聖徳太子の生年、崩年、宝算について、「上宮(じょうぐう)聖徳(しょうとく)法王(ほうおう)帝説(ていせつ)」という聖徳太子の一代記を記した伝記に、「上宮聖徳法王、また法主(ほうしゅ)(おう)と言う。(きのえ)(うま)の年に産まれ、(みずのえ)(うま)の年二月二十二日に薨逝(こうせい)される。生四十九年、小治田宮東宮と為る。墓は川内の志奈我の岡なり」とあります。

即と生年が甲午の年、崩年が壬午の年の二月二十二日というわけで、その干支を年代に当てはめると、敏達天皇の三年、西暦574年のお生まれであり、亡くなられたのが推古天皇の三十年、西暦622年ということになります。従って太子の年齢は四十九歳と書かれていますが、これは数え年で示されているわけです。

この聖徳太子の49年間という短い生涯、私はその生涯を歴史的に四つの時期に分けて考えています。

 

蘇我的環境で育った幼少期

お生まれになった年から崇峻天皇の五年(天皇暗殺事件の年)までの19年間を第一期と考えています。この時期は蘇我的な環境の中で育成され、そこで崇仏思考の吸収を中心として、蘇我的環境によって性格づけされていった幼少の時期です。

第一期のポイントは、先ほどみたように太子が蘇我氏の血を濃厚にうけ、その同族的な生活環境の中で育てられたということです。そして当時の蘇我氏が仏教受容を積極的に推進していたことから、生活環境としては仏教の信仰が強調されていたとみられ、太子は多感な幼少期を仏教的環境の中で過されたわけです。そのことが、後の太子の政策にも大きく関係しているのです。

政治改革の準備期間としての青年期

第二期は、崇峻天皇が暗殺された翌年、即ち推古元年から推古十年までの十年間です。これは聖徳太子の二十歳から二十九歳までの時期で、ちょうど青年期にあたります。推古元年から太子は摂政として政治の中枢に位置され、執政者の一人として国事に携わりながら政治を学ばれ、その一方では高句麗の高僧・慧慈に師事されて国家仏教的な教学を体得された時期であります。

この時期にはまだ注目すべき政治上の改革はみられませんが、太子の政治姿勢に仏教の普及と、仏教理念をもって政治の基本を定めようとする傾向が窺がわれ次期の政治改革の準備がなされたと見ることができます。

 

註 慧慈

 --623年、高句麗の僧。595(推古三年)来朝。聖徳太子の師となり、同年来朝の百済僧・慧聡と共に仏教界の中心人物となった。596年帰国。622年に太子の死を聞き、誓って翌年の同日に死んだと言われる。

政治改革を断行した壮年期

第三期は推古十一年から推古十八年までの八年間とみます。聖徳太子の年齢三十歳から三十七歳まで正に脂の乗り切った壮年期に当たるわけです。

太子の政治改革はこの第三期に集中してみられます。

恐らく摂政となられてから国家仏教的な理念も取り入れながら政治改革の構想を練り、十年の歳月をかけてその準備を進めてこられた太子は、機が熟したとみて、この時期に一挙に政治改革に着手されたのです。初めて冠の色を定めて「冠位の制度」布かれ、それについでいわゆる「十七条の憲法」を制定され、さらに「暦日の制」を採られるなど、立て続けに重要な内政改革を断行されているのです。

そうして先ず内政の改革を行い、その後さらに次ぎにみるような中国との直接交渉を方針とする新しい対外政策にも着手されたのです。