徳永の「近現代史」 5月輪読

三国干渉
          アジアと日本

日清・日露戦争
1.朝鮮半島情勢

明治9年の日朝修好条約後は日本の影響力が次第に朝鮮に増大した。実権を持つ国王の外戚である、閔氏一族は日本と結ぶ政策であった。反対者は国王の父大院君に結集し明治15-1882年一部兵士が日本公使館を襲撃。対抗上日本が出兵すると清も出兵。妥協が成立し清は宗主国として朝鮮に融和を勧告し朝鮮と日本と条約締結し損害賠償や公使館守備隊の駐留を認めた。清に頼りたい事大党の勢力増大する、日本と結ぶ勢力の金玉均等はクーデターを起こしたが失敗。伊藤博文は翌年天津にて清国全権の李鴻章と天津条約締結、朝鮮半島に於ける日本と清国との撤兵と出兵の相互通知の確約をした。このように朝鮮は当事者能力が皆無であった。

2.朝鮮半島情勢

朝鮮国王と閔氏一族は清国の支配脱出の為に親ロ政策を取ったため清国は朝鮮の支配を更に強化した。このように19世紀末は朝鮮にガバナビリティが存在せず、当然の事として国家主権は無きに均しく外交自主権も無い有様で、朝鮮半島は日本・清国・ロシア三国の勢力争いの舞台となった。清国は朝鮮の外交権を認めず、日本の経済活動に圧力を加えつつ貿易量を大幅に増進した。この当時の朝鮮半島情勢は、特段に、正確に認識しておかなくて現今の問題理解に繋がらない。

朝鮮半島と日清戦争1    

明治27-1894年、朝鮮で東学党の乱と呼ばれる乱があった。キリスト教の西学に対抗して東学道徒を中心とする農民が地方官の暴政に対して反乱を起こしたものである。朝鮮半島南部の全羅道一帯を占拠した為に清国は朝鮮政府の要請を受けて即出兵した。天津条約に基づき清国は日本に通知し日本も直ちに派兵。反乱は鎮圧されたが日本と清国の共同で朝鮮の内政改革をするとの提案をめぐり交渉が難航し対立激化。半島に平穏がないと日本に安定がないのは現今の半島状勢を勘案すれば容易に理解できよう。ここで日本は清国の勢力を朝鮮から一掃の決意を固め豊島沖海戦をきっかけに清国に対し8月宣戦布告した。これが日清戦争である。朝鮮半島は力の空白状態であり、清国の力とロシアの意向を洞察した日本の自衛策であり、これは当時の国際常識である。いかなる時代も力の空白は戦争を誘引する。日本がかかる決断をしなければ半島はロシアに占領されるのは必定であった。そして清国はロシア初め欧米諸国の歯牙にかかり最終的に日本に再び強烈なその矛先が向けられるとの脅威が実存した。

朝鮮半島と日清戦争2    

日清戦争の開始と共に帝国議会は政争を停止し全会一致で軍事費の支出を可決した。ここらに現在の政党の国益観の欠如が見事に見て取れる。国家、国会議員とはかかるものでなくてはなるまい。陸軍は平壌から鴨緑江を経て満州に入り北京へ進撃する態勢を示した。海軍は黄海海戦に勝ち明治28-1895年陸軍は威海衛を陥落し北洋艦隊を降伏させた。同年4月伊藤博文・陸奥宗光と清国の李鴻章間で下関条約を締結調印し講和が成立。内容は1.清国が朝鮮の独立を認める。2.遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本割譲。3.賠償金支払い。4.新たに四港の開港。これが弱肉強食の当時の様相であり日本のみのやり方ではない。幕末のペルーの米国・英国・オランダ・フランスとて日本が軟弱であれば彼らに同様にされていた事は絶対に間違いない。

下関条約余談  

第一条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし。
第二条 清国は左記の土地の主権並びに該地方に在る城塁、兵器製造所及官有物を永遠日本国に割与す。
一 左の経界内に在る奉天省南部の地。
二 台湾全島及その附随諸島嶼。
三 澎湖列島
第四条 清国は軍費賠償金として庫平銀二億両を日本に支払うへきことを約す。右金額は都合八回に分ち、初回及次回には毎回五千万両を支払うへし。(下略・日本外交文書)

この条約により日本は清国に対して欧米列強と肩を並べる治外法権などの不平等条約を獲得した。ペルー以降日本が列強から受けた不平等条約はそのままである。将に弱肉強食の現実であり、食うか食われるかの時代であった当時の国際情勢をしかと認識しなくてはならぬ。更に清国から得た賠償金は金本位制の確立、陸海軍の軍備強化に貢献し、わが国の本格的な産業革命への起動力となった。

 

三国とは、ロシア・フランス・ドイツである。ロシアは極東進出の国策を持ち満州に野心があった。清国の働きかけに乗り白人仲間のドイツとフランを誘い日本領有となった遼東半島を清国に返還するように強く日本に要求してきた。これを三国干渉といい私達の年齢では大屈辱として忘れ難いものがある。日本はこれら三国の圧力に対抗できる軍事力が無いために、やむなく要求に屈した。国民の間には「臥薪嘗胆」が合言葉となりロシアへの復讐を叫ぶ声が広まったのは当然である。それはこれ等三国が干渉をした報酬として清国から得た利権だからである。ロシアはその遼東半島等を租借、ドイツは山東省の利権を得た。日本が清国に戦勝し割譲受けたものをむしり取られたわけである。

蚕食される清国      

1.ロシアの脅威        日本との戦争で負け弱国と見られた清国は列強国により分割を招く事となる。日清戦争後はロシアの勢力が一段と朝鮮王室に対して影響力を強めた。1896年ロシアは満州の吉林・黒龍江を横断してウラジオストックに至る鉄道の敷設権を得てシベリヤ鉄道と接続した。更にロシアは遼東半島の旅順・大連湾一帯を租借し鉄道敷設権も得た。ロシアの野望は全満州から朝鮮迄を勢力圏としシベリヤから太平洋へ地続きの不凍港確保にあった。これは日本の大脅威以外の何ものでもなく放置できないのが国家というものだ。現今の拉致・北朝鮮問題はわが国政治家が依然として属国的であり主権国家でない事の証左である。矜持と主権ある国家なら戦争勃発である。政治家の甘い認識は絶望的と言えよう。

2.ドイツ・英国・フランス・米国  

1898年ドイツは清国から膠洲湾の租借権や山東半島の鉄道敷設権を得た。英国は九竜半島と威海衛の租借権、フランスは広州湾の租借権と鉄道敷設権を得た。アメリカはこのような列強の清国分割に直接加担しなかった。然し1898年ハワイ併合、フィリピンをスペインから獲得して他国への干渉政策に転換して極東・太平洋へ意欲的に進出してきた。

3.日英同盟      

列強が進出した清国では、国家再建改革運動があったが失敗した。排外運動は高まり義和団が天津の外国人居留地を攻撃し、北京でも各国公使館を包囲した。清国は列強国に宣戦布告した。日本は欧・米・八ケ国連合軍の中核となり義和団を鎮圧した。これが北清事変である。清国は降伏し謝罪し多額の賠償金と列強軍隊の北京駐留を認めた。この事件を契機としてロシアは満州を占領し事後も撤兵せず、この地域の独占権を清国に認めさせた。これが当時の国際情勢である。真空に吸い込まれるように力の空白は侵略を呼び込む、これは今も昔も変わらぬ冷徹な真理である。国内ではロシアと妥協の意見もあり満州と韓国交換論さえあった。韓国はそれ程当事者能力を欠いていた。英国はロシアの南下を恐れており、これが日本と利害が一致し、遂に大英帝国はわが国と同盟条約を結んだのが明治35-1902年である。この同盟は画期的なもので極東の力学が日本に有利に運ぶこととなり自衛上、日本はロシアの極東進出を阻止する事を決断した。

ロシアの動向  

ロシアは中国から旅順の割譲を受けると要塞を築き、ロシアと清国以外の入港を拒否し大連を貿易港とした。ロシアの脅威に対抗上、日本は台湾を維持するために対岸の中国福建省を他国に割譲させない事を約束させた。ロシアの極東活動は積極的で日本にとり脅威であった。朝鮮半島がロシアに席捲された場合を想定したわが国の脅威は国家の興亡にかかわるものであった。

大韓 

明治28年韓国内親ロ派の排除を図った日本公使三浦悟楼等は独断で閔妃を殺害した。列強の非難を浴びたのは当然であり許される事ではなくいらざる禍根を残した。国王高祖はロシア公館に避難し韓国に親ロ政権が出来た。1897年韓国は大韓と国名を変更した。韓国を取り巻く列強の動きはわが国に深刻な議論を巻き起こした。主体性のない韓国はこのように清国・ロシアに撹乱され、それは日本の防衛上深刻な影響を与えるものであるが、明治初年以降早や四半世紀に及び朝鮮半島の動向に対する当時の日本の忍耐が窺える。

日露戦争

日露戦争1      

明治36-1903年、ロシアは日本の撤兵要求を無視して満州に軍隊を駐留させた。ロシアは朝鮮半島にも野心があり満州・朝鮮半島に於ける日本の脅威となった。桂内閣は、あくまで外交により衝突を避けるべく交渉を続けた。ロシアに対して日本は軍隊の撤兵・満州の門戸開放、朝鮮半島に於ける日本の地位承認を求めたが拒否された。それ処が朝鮮半島におけるロシアと日本の勢力範囲を定める事まで提案してきた。これは日本として限界である。両国に衝突の危機が発生したのは国益上当然であり開戦の準備も進めた。明治372月交渉決裂し戦争が始まる。大国ロシア帝国の執拗にして強引な政策に遂に小国日本も遂に我慢の限界に達したのである。

日露戦争2      

戦争の経緯は記載しない。当時の大国ロシアに勝利した事は日本の威信をいやが上にも高めた。戦費17億円の多くは国債と外国債で調達されたが、高橋是清の努力により主として英米二国で8億円調達した。勝利した乃木希典将軍が敗軍ロシアの将軍、ステッセルと水師営で会見した時の言葉こそ日本武士道の真髄である。「昨日の敵は今日の友」と歌われたように、これこそが最も日本的であり世界に誇りうる武士道の精神であり西洋列強の植民地収奪のようなものはない。日本武士道の精神・魂こそ人類の在るべき姿を示している。目には目を、のアングロサクソンやイスラムと違う素晴らしい日本精神の伝統をもっと自覚し子弟に教育し世界に敷衍してよい。

日露戦争3      

日露戦争に勝利した事により、ロシアは1.朝鮮半島における軍事・政治・経済上の日本の優越権を認め、2.旅順・大連などの租借権を日本に譲渡3.満州は長春以南の鉄道と炭鉱を譲り4.樺太の北緯50度以南を日本に割譲と日本海・オホーツク海・ベーリング海の日本漁業権を認めた。これがポーツマス条約である。小国日本がロシアの南下を食い止め独立を確保したことは中国の孫文、インドのネール初めアジア諸国民に自信を与えた。トルコ・エジプト・ポーランド・フィンランドに独立運動が巻き起こった。ロシアのロマノフ王朝は権威を喪失し革命運動への道筋をつけたと言える。

中国革命の父・孫文       

孫文は中国革命の父と言われるが日本との関わりが深い。明治維新の後、日本にはアジア各地から民族解放運動で迫害された活動家が亡命して来ている。孫文もその一人である。彼は漢民族を支配している化外の清を倒すことを目指し、日本の明治維新を目標とした。不平等条約撤廃に成功した日本を見て孫文は「初めてアジアの最初の独立国となった」と日本を高く評価した。挙兵に失敗した孫文は日本に亡命し中国革命の準備をしたが彼を支援する日本人が多かった。孫文は日露戦争で日本海海戦で勝利した日本に戻り明治28年中国の留学生を集め中国同盟会を結成し三民主義を発表、国名を中華民国と定めた。

橋梁的な朝鮮半島人       

日清戦争に勝利した日本の影響力は朝鮮半島に次第に高まって行きた。日露戦争を遂行するにあたり、日本は日韓議定書を結び戦争遂行上の多くの特権を韓国政府に認めさせた。韓国政府に日本人顧問を入れ、内政・外交・軍事にわたる広汎な発言権も得た。日本は明治初年以降、朝鮮に自主権を持たせるべき働きかけたが、日本を軽蔑し宗主国清に遠慮するも、一方でロシアと結ぼうとする。このような朝鮮半島人の橋梁的な性格が禍し結局日本・清国・ロシア三国のどの国にも真の同盟関係をもち得ないまま日清戦争を招き日本が勝利し、更にロシアにも勝利し遂に韓国は日本に従わざるを得なくなった。これは自業自得の結果と言えよう。世界の列強、アメリカ・英国・ロシアも日本の韓国に対する優越的地位を認めた。ここで漸く征韓論争が起きた明治初年以降40年ぶりに隣国の安定を得た事となる。日本の大陸進出への大きな足がかりとなって行くのは理の当然であった。明治37-8年にはまだ韓国を併合していない事も重要な日本の意志と認識してよい。