独坐(どくざ)大雄(だいゆう)(ほう)

白隠もさる者であれますから、冷汗を覚え、その後は天狗もおさまって、真剣に、そして謙虚に学ぶようになりました。

こういう怒鳴ったり、ひっぱたいたりするやり方が特に唐時代から発達してまいりました。

そういう禅に一つの宗教としての体系を与えた、言わば禅宗というものを開いた、その代表的な人が百丈和尚であります。

これは知識人、インテリ等にもこたえる問題でありまして、何かと言うと現代人はイデオロギー等といって理屈をふりまわす。これは論理や概念の遊戯ですから、こんなもので人間が出来るわけがありません

それよりも「独坐大雄峯」で、我々が今この日本にこうしておる、この会社の講座でこのように勉強しておるということは、考えようによれば奇特の事、実に不思議なことであります。

そういうことがしみじみ分かるようになるのが学問というものであり、修行というものでありますから、味わえば味わうほどの意味の深いものであります。

これは論語流にいえば「時習」の一つであります。

そこで儒教も仏教も惟神(ゆいしん)の神道も本当のところへゆけばみな共通でありまして、学問修行の本質的な問題であります。

安岡正篤先生の言葉