清貧(せいひん)に就いての考察 その一 

平成22年5月度

 6日

私は、どうもこの清貧という言葉が気になって仕方がない。そうありたいとの思いが常にあるからであろう。それは多年に亘ってのことである。だが、齢80歳に喃々とする傘寿を迎え乍ら、この清貧生活とは程遠い現実がある。世間の方々と比較すれば、私の生活など清貧に近いものであろうとは信じているが、どこか内心には「お前の生活はそうでもないぞ」という良心が囁いており正面から打って出られない感じである。

 7日

だが、私はこの清貧という生活態度の思想に惹かれてやまないのである。かの兼好法師の言葉、「吾が(せい)既に蹉た(さた)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり」の言葉を噛み締めている。この言葉を意訳すれば、「人生盛りを過ぎた、人間社会のしがらみは全部捨てよう」であろうか。私は、頭を抱え込んでしまうのである。

 8日

この兼好法師の言葉、現世を極限まで簡略化することで、精神の自由と心の豊かさを得た過去の日本人の精神的系譜を「清貧の思想」というのであろう。私は、とてもこの精神的系譜に惹かれるのである。そこで、海図無き航海のようであるが、清貧に関して考察をしてみたい。

 9日

「物欲の充足」こそが幸福の道というのが戦後日本の特徴である。戦前はそこまでには至っていなかった。自分の分を守り知っていたのである。明治とか江戸時代になると、武士こそ清貧の思想の体現者であった、現実的には武士は喰はねど高楊枝であったとは思うが。だが、それにしても高度成長後の日本人の生活は、精神的なものを全て放棄し物欲オンリーになっていると嘆かずにはおられない。全ての価値判断の基準が「損か得か」であるようだ。

10日

この宇宙というもの、諸現象を含めて、その本質は「循環」である。有機物の循環は誰でも認めよう。精神的なものも実は、隔世的に循環していると思われる。人間は物質なくては生きて行けぬ、物質調達の手段が飛躍的に進展し人間は極限を追い求めてきた。だが、地球資源は無尽蔵に非ず、いずれ物質的限界を迎え、否応無く物質の節減が人間の精神生活を再び転換させて行くだろうということは適確に予想できる時代となりつつある。

11日

要するに「清貧の思想」は究極的には人間社会に必要となるとの予感がある。それも地球規模に於いてである。かかる意味に於いて、日本神道は実に清貧思想の実現者であり上代から守ってきている。その根本的体現者こそ日本の天皇様であられるのだが、今回は本論ではない。

12日

と言うことは、日本人の根元である天皇、そして神道こそ人類社会が模倣すべき在り方ということになるのである。要するに「物欲の充足こそ幸福の道という価値観とは正反対」の日本先人たちのしかとした道があったことを思い出して欲しいのである。これは21世紀の人間の必要な在り方になるような気がしてならない。

13日

日本人の物作りは世界最高のものがある。アメリカの金融という虚業、日本の銀行は実業に近いが、それは人間社会の営みとしては中心になり過ぎてはいけない。近年も或は昭和初期も、それ以前にも人間社会はアメリカ的金融という虚業で大きく躓いてきている。現代もその被害の余波の中に世界は漂っている。

14日

日本歴史を見ると、日本人には物作りとか、金儲けとか、現世の富貴や栄達を追及する者ばかりでなく、それ以外にひたすら「心の世界」を重んじる文化伝統があった。
低く暮らし、高く思う」と言うのか、現世での生存は能う限り簡素にして「心を風雅の世界に遊ばせることを人間として最も高尚な生き方とする伝統」が確かにあった。

15日

現代日本人には、余り感じられないのであろうが、無いこともない、高い精神生活をしておられる方々はあり、それこそが「日本の最も誇り得る文化」であろう。それが「清貧を尊ぶ思想」と言えるのではあるまいか。私はそれに惹かれる、いつかそこに逃げ込めると思っている。それこそが日本文化の精髄かも知れない。 

16日

少し話が外れるが、私は自説として色々の場所で書いた論述や講演の中でしばしば「西洋の原理」とか「日本の原理」とよく言う。西洋原理の核心は、大量生産、大量消費の思想であり、発想の根元は資源の浪費そのものである。資源枯渇により地球破壊が起きつつあるがそれは西洋原理の結末で行き詰まっている。日本の原理こそ21世紀の思想でなくては人類は救えぬと指摘してきた。

17日

地球規模で現在、エコとか環境問題とか言うが、シンプルライフを人類がやれば瞬時に解決する問題である。日本人の伝統から言えば、否、日本の文化伝統こそシンプルライフのエコそのものである。日本人には自明の道理である「勿体無いの心」である。それは、突き詰めると清貧の思想に他ならないのである。エコそのものなのである。何も英語を使わなくてもいいのだ。

18日

私の、見たり聞いたり読んだりした中での感想だが、物や金への執着と関心が強ければ強い程、「内面生活」の豊かさは失われるように思える。日常生活は、出来るだけ「簡素単純化」して寧ろ「心の世界の贅沢」を希求した方がより高尚だとする心の持ち方の育成をと思ったりする。

19日

それは、取りも直さず「内面生活」の充実であり「内面への旅」でもある。そういう意味に於いて、実は登山は実に自己の内面へ目を向ける素晴らしい機会なのである。そこは、自然と自己の心のみの場なのである。自然に対すると同様に自己の心に対しても素直になれる場なのだ。

20日

「内面への旅」、それは物ではなくて、「心の世界」に目を向けよ、である。「自然との共生」、それは自然を自分の対処物と見ないで自然の中で自然と共に生き深い喜びを感じることであり、「古典に学ぶ」とは自然と共生した祖先を学ぼうということなのではなかろうか。

21日

そうすれば、清貧とは、貧乏礼讃ではなくて、現世でできる限りシンプルにして、「情」とか「心」とか「感性」と言う人間の内面能力を活き活きと働かせ輝かせる高雅な生活ができるのではないかと言うことなのである。つまり量の問題ではなく、質を高めようというものなのである。

22日

幾ら高価な物を持っていても、それだけでは人から尊敬されない。寧ろそればかり関心持つ人間は世界からバカにされ軽蔑されるものだ。人間はどの国に於いても、品位こそ尊敬の対象なのである。

23日

西洋の原理に余りにも毒されて、風土の恵み、風土の気候の恵みというものを忘れているのではないか。和辻哲郎ではないが、人間は所詮は「風土の産物」である。人間も風土に根ざした生きものとならねば健康を台無しにしてしまうのではないか、それが自然の摂理のように思える。

24日

つまり日本人が昔から大事にしてきたものを忘れ去り、捨て去ったらばその報復は日本人の存在そのものを根底から覆してしまうようになると思えるのだ。清貧とは日本人の伝統文化をなしてきているものだからである。

25日

季節を問わず供給される胡瓜やトマトやイチゴなど等は本物ではない、科学的根拠は知らぬが健康なものとは思えない。本物のみで成り立つ生活は現代では最高に贅沢であろうが、清貧とはそういう本物の生活を志すところに在るのではないか。

26日

「民族も国家も個人も、みな繁栄のために滅んでいる。持たなくてもよいものを、持ったが故に自滅した」。これは坂本真民の言葉である。この方の言葉には不思議な力がこもっていると思う。

27日

その真民は言う、一遍は「(すて)(ひじり)一遍(いっぺん)」と云われ、「(しゃ)」の元祖の如きであると。真民は、日本の祖師たちの中で最も釈尊に近い生き方をしたのは一遍上人だと言われる。

28日

その一遍に就いて少し、探求してみたい、清貧の具体像を求めるためである。一遍の生命は「(しゃ)」であるという。だが、次ぎの話を知ると、なまじっかの気持ちで清貧などと言えないような気持ちになる。

29日

河野家という家も捨て、妻も子も捨て、破れ衣に素足で日本国中を称名念仏し歩いた僧は一遍一人だと言う。従って寺もなければ著述もなく、ただ南無阿弥陀仏の六字に帰一し南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を唱えるという処までおしすすめ全てを捨て切った僧は一遍よりほかに求めることができないらしい。「捨」こそ一遍の生命であり一遍その人である。山河称名という一遍独自の世界も捨離して初めて展開してくる広大にして無辺な仏世界と見た。

30日

一遍の死後、時宗(じしゅう)という教団が組織され既成の他の宗旨と対抗しようとした。教団が出来れば造寺も必要、信者の為に権威作りも考えねばならず、そうすると宗祖一遍が捨て果てたものと、全く正反対な現象が起こってくる、即ち教団により一遍の真生命が衰微してきたのであるる。同様なことが他の宗派にも言える。

31日

「捨」には権威づけは要らぬ。一本の木で結構、一個の石でいいであろう。日本人ほど権威づけを好むという。釈尊の最後の言葉を思いだそう。仏教の原点はお釈迦さまに厳然として存在することが判る。