5月 日本の心の古典 江戸時代
平成18年5月
1日 | 井原西鶴 |
本名、平山藤五、1642-1693、大阪の富裕な町人であったと言う。若くして談林派の俳諧の点者となる。 | 矢数俳諧(一定の時間にスピードと量を競うもの)で有名になる。一昼夜で23千句も詠んだという。後に小説に転じ江戸時代を通じて最も優れた作家の一人となる。 |
2日 | 浮世草子 | 41歳の時に俳諧から小説に転じ、以後10年余りの間に、二十数編の作品を残した。 西鶴以後、安永期ごろまで上方で行われた小説を「浮世草子」という。 |
西鶴は、人間に対するつきない興味と限りない愛情を持っていた人であった。その描く内容が、暗い絶望的な人生、悲惨な生活であっても、文章は淡々として寧ろ明るさがあり笑いさえある。それは人生を達観する眼を持っていたからと言われる。 |
3日 | 西鶴の文学分類 |
「好色物」・・好色一代男・好色一代女・好色五人女。 |
「武家物」・・武家義理物語・武道伝来記。 |
4日 |
西鶴の文学分類2 |
「説話物」 西鶴諸国咄・本朝二十不幸。 |
「町人物」 日本永代蔵・西鶴織留・世間胸算用。 |
5日 | 平太郎殿(世間胸算用 巻五の三) |
一とせ、大晦日に節分ありて、掛乞ひ・厄はらひ、天秤のひびき・大豆うつ者、まことにくらがりに鬼つなぐとは今宵なるべし、おそろし。 |
さて道場には太鼓おとづれて、仏前に御あかしあげて、参りの同行を見合けるに、初夜の鐘をつくまでに、やうやう参詣三人ならでかし。 |
6日 | 平太郎殿口語訳と続き |
ある年、大みそかと節分が重なった。掛乞への支払いに銀をはかる音、大豆打つ音など、全く何が出で来るか分からないのは今夜のことだ。さてお寺では、太鼓の音がして、仏前にあかりをつけ、信者の人を見ると、初夜の鐘がなるまでに、たった三人しか参詣の人がいなかった。この三人も夫々信心から参詣したのではない。一人の老婆は、息子が借金を払えなくなり、 | お寺に隠れにきたのだという。又一人は、養子に入った家から、甲斐性なしと女房子供に追い出された男であったし、もう一人の男は、「履き物でも盗もうかと思って・・」と言ううちに涙声になつてしまった。先ほど三人に有り難い説教をした住職も、子供が生まれたの、井戸の水がつぶれたなどの知らせで、暇のないことである。誠に、大みそかは人生の縮図である。 |
7日 | 世間胸算用について |
世間胸算用は、五巻二十話からなる短編集であり、二十編が総て大晦日に集約的に現れている。中下層町人の金銭の支払いの有様や、金策に走り回る、哀れで滑稽な姿を描い | たものである。 |
8日 | 近松門左衛門 |
近松は公家に仕える武士であった。主人の死とともに浪人となり、後に劇作家となる。1653-1724。 |
坂田藤十郎の為に歌舞伎の脚本を書いていたが、竹本義太夫と組み浄瑠璃の脚本を書き多くの傑作を残した。 |
9日 | 近松の文学 |
近松の作品は百編以上あるが。大きくは時代物と世話物との分けることが出来る。 |
「時代物」江戸時代以前の題材。国姓爺合戦出世景清、世継曽我。 「世話物」江戸時代社会の現実の題材。冥土の飛脚、女殺し油地獄、心中天の網島。 |
10日 | 曽根崎心中(道行) |
この世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。鐘のひびきの聞きをさめ。寂滅為楽とひびくなり。 |
鐘ばかりかは。草も木も空もなごりと見上ぐれば。雲心なき水のおと北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも。我とそなたは女夫星。必ず添ふとすがり寄り。二人が中に降る涙、川の水嵩もまさるべし。 |
11日 | 曽根崎心中解説 |
あだしが原(無常の原の意、特定の原ではない)、七つ時(午前二時)、寂滅為楽(生死の苦を脱して初めて真の楽があるということ)。 |
星の妹背(七夕のけん牛・織女にあやかり、梅田の橋を
鵲の橋と見立てていつまでも添い遂げようという意味)。 |
12日 |
曽根崎心中の粗筋 |
大坂平野屋の手代徳兵衛は天満屋のお初と恋仲であったが、平野屋の主人は、妻の姪と結婚させるつもりであった。お初のことで徳兵衛は、その結婚話を断る。すると主人は、今まで貸していた金を返せと迫る。 |
漸く金を集めた徳兵衛は、泣いて借金を頼む親友九平次にその金を用立ててしまう。処が九平次は、期限が来ても返さないばかりか、証文偽造だと言い徳兵衛を人々の前で辱める。進退窮まった徳兵衛はお初に相談し心中を決意する。 |
13日 | 浄瑠璃 |
室町時代に始まった浄瑠璃という語り物に、三味線で伴奏するようになり、更に操り人形をこれに合わせて所作させる興行物が起こった。 |
特に義太夫と近松門左衛門との提携による「曽根崎心中」の成功により、人形浄瑠璃として確立された。 |
14日 | 歌舞伎 |
慶長元年(1596)、「出雲の阿国」が異様な姿で「かぶき踊り」をしたことが始まり。「かぶき」とは異様なことをする意の「傾く」から出た言葉。これが流行したが禁止され、代わって現れた若衆歌舞伎も、風俗を | 乱すとして禁止されたので男性だけの野郎歌舞伎が生まれ劇的なものとなった。(この為、女形が生まれた)、江戸では市川団十郎の「荒事」、上方では坂田藤十郎の「和事」が人気を博した。近松以後も竹田出雲、並木五瓶、鶴屋南北らの優れた作家が出て次第に隆盛していった。 |
15日 | 本居宣長 |
伊勢・松阪生まれる、医者であったが、かたわら古典の研究に努めた。国学者・加茂真淵と出会いその門下に入る。古事記伝などを著し、国学の発展・完成に大きく寄与した。1730-1801. |
生家は木綿業、商人の器でないと見た母の勧めで医師となる。宝暦13年、近畿地方を旅行中に加茂真淵と松阪で会う。古事記の研究では30年の歳月をかけ古事記伝を完成。名著である。 |
16日 | 故郷(玉勝間より) |
旅にして、国をふるさとといふは、他の国にうつりて住める者などの、もと住みし里をいへるにこそあれ、ただ行きかへる世のつねの旅にていふは、あたらぬことなり。されば万葉集古今集などの歌には、しかよめるはいまだ見あたらず。 |
万葉などには、行きかへる旅にては、国をば、国または家などこそよみたれ。然るを後の世には、おしなべて故郷といひならひて、つねのことなれば、なべては今さらとがむべきにもあらざれども、万葉ぶりの歌には、なほ心すべきことなるに、今の人心つかで、なべてふるさととよむなるは、いかがとこそおぼゆれ。 |
17日 | 故郷、口語訳 |
旅に出て、今自分が住んでいる所を故郷というのは、よその国に移り住んでいる者などが、前に住んだことのある里を言うのである。ただ行ってすぐ帰ってくる普通の旅で、今住んでいる所を故郷というのは当て嵌まらない。だから万葉集、古今集などの歌で、そのように詠んだものはまだ見たことがない。 |
万葉集などには、ただ行って帰るような旅では、現住所を国または家と詠んでいる。しかし、後の世では、総じて故郷と言いならはしてそれが当たり前のことになつている。だから今更、とがめだてはしないけれども万葉調の歌を歌うときには、やはりこのことは注意しなければならないのに、現在の人は気がつかない。すべて故郷と詠むのはいかがなものか。 |
18日 | 玉勝間 |
万葉集などの歌の解説、学問に対する考え、門人、知人から聞いた興味のある話など、本居宣長の思想全般に関する随想を綴ったものである。 |
故郷は一つの言葉を使うにも古典の例をとり正確に用いなければならないと言う考えを示した文章である。 |
19日 | 上田秋成 |
1734-1809、大阪に生まれる、雨月物語、春雨物語は不朽の名作。4歳の時、油商を営む上田家に養子となる。最初、浮世草子などを書いてい | たが、読本の雨月物語で世間に知られる。 |
20日 | 雨月物語 |
五巻九話、白峰・菊花の約・浅茅が宿・無応の鯉魚・仏法僧・吉備津の釜・蛇性の淫・青頭巾・貧福論からなる小説集。 |
中国小説の影響が見られるが、秋成は独特の脚色を加えて独創的な内容の小説となる。わが国怪異小説の最高である。 |
21日 | 菊花の約(粗筋) |
播磨の国加古川宿の丈部左門は、旅の途中で病気になった赤穴宗右衛門を助け義兄弟となる。赤穴は重陽の節句(9月9日)には必ずもどると言い故郷の出雲に帰った。 |
約束の日、霊魂となって現れた赤穴は、従兄弟の丹治に捕らえられ、脱出できなかつたので自害して約束を守ったという。左門はすぐ出雲に行き丹治に会い、一刀のもとにこれを斬り捨てた。 |
22日 |
浅茅が宿(粗筋) |
下総の国の勝四郎は、京に出て身を立てようとし、妻の宮木としばし別れた。だが関東にも京都にも戦乱が起き、あっという間に七年が過ぎた。 | 故郷に戻った勝四郎がやつと見つけたわが家には別人のようになった宮木が待っていた。二人は喜び合ったが、一夜明けると妻の姿はなく、荒れ果てた庭に妻の塚だけが残っていた。 |
23日 | 滝沢馬琴 |
1767-1848、下級武士の家に生まれる。読本の大家として知られる。又の名を、曲亭馬琴、最初山東京伝に師事。 |
黄表紙などを書いていたが、後に読本作家となる。椿説弓張月(源為朝の英雄伝)、南総里見八犬伝の作者。 |
24日 | 南総里見八犬伝 |
南総里見八犬伝 |
中国伝奇小説「水滸伝」を根底におき、波乱万丈のストーリーと構想の完璧さと雄大さを誇る我々の年代の幼少時の長編史伝小説である。 |
25日 | 南総里見八犬伝(粗筋) |
室町時代末期、落城寸前の安房里見城の城主・里見義実は、愛犬八房に、戯れに「もし敵将の首を取って来たら、娘の伏姫を与えてやろう」と言った。八房は敵将の首をくわえてもどり里見方の勝利となった。伏姫は約束だからと八房と共に富山の洞に住むが、身ごもったことを知り自害す | る。やがて身につけていた数珠の、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目を刻んだ珠を持った武士が次々と現れる。この八人の勇士(犬塚信乃・犬飼現八・犬山道節・犬川荘助・犬田小文吾・犬江親兵衛・犬坂毛野・犬村大角)が怪しい運命の糸に操られ、ある時は互いに闘い、或る時は力をあわせて里見家を再興してゆく。 |
26日 | 十返舎一九 |
1765-1831、駿河国の下級武士の子、大阪で仕官したが長続きせず,浄瑠璃の脚本を作ったりしていた。30歳で江戸に出る、本屋の蔦屋重三郎の居 |
候となり黄表紙、洒落本などを書いた。享和二年、東海道中膝栗毛初編を出して人気を得た。以後21年間に亘り続編を書き続け、滑稽本と言われるジャンルを確立した |
27日 |
十返舎一九の滑稽本、神田八丁堀に住む弥次郎兵衛,喜多八の二人づれが東海道を見聞しながら上方へ。 |
伊勢に参宮し、京・大阪に至るまでを、失敗談を交えて綴る道中記。初・続編など21年書き続けた。 |
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28日 | 大井川の巻き |
弥次・北の二人が難所といはれる大井川を渡るとき、弥次は武士に化けて問屋から連台を出そうとするが。刀が折れているのを見破られる。 問屋「かたなのおれたのをさす武士がどこにあるもんだ。こんたんしゅ(お前さん方)、問屋をかたりに来たな。そんではハイ、すませないぞ」 |
弥二「イヤ身どもは、みをのや四郎国俊(三保谷四郎国俊、屋島の戦いの時、刀が折れて引き下がる)の末孫だから、それで刀のおれたのをさしておるて」 問屋「たはごといふと、くくしあげるぞ」 |
29日 | 大井川の巻き2. |
北八「コウ弥次さんおさまらねー。はやくいかふ」と手をとって引づられ、弥次郎兵へそれをしほに、こそこそとにげ出す。(二人は、その場を逃れ、渡し場で連台に乗る) |
大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちも捨てなんとおもふほどの恐ろしさ、たとゆるにものなく、まことや東海第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して連台をおりたつ嬉しさはいはんかたなし。 |
30日 | 滑稽文学の流れ |
仮名草子「仮名を多く交えて書かれた読み物で、民衆の啓蒙と教訓を目的としたものだが娯楽的なものも多い。「可笑記・御伽婢子・伊曾保物語・醒睡笑・竹斎がある」 |
浮世草子「井原西鶴の好色一代男が出版されて以後80年間、主として上方で行われた現実的な町人文学を言う」好色一代男や、江島其蹟の世間息子気質がある。 |
31日 | 滑稽文学の流れ2. |
洒落本「遊里における客や遊女たちの言動を細かく観察し、会話を主とした文章で書かれた小説。山東京伝がその代表作家。 |
滑稽本「笑いや駄洒落を多く用いて町人の現実的な生活を描いたもの。会話を主としている。十返舎一九の浮世風呂、式亭三馬の浮世床がある。 |