万葉集 地域別F 東国
平成18年5月

 1日 足柄(あしがら)のみ坂 足柄の み坂畏(さかかしこ)み 曇夜(くもりよ)の ()下延(したば)へを 言出(こちで)つるかも 東歌 巻14-3371 
下延へ
(心のうちに深く広がっている秘密の思い)、曇夜(曇ったような夜のように暗く思えて見えないで下延への枕詞)。古代の海道は足柄のみ坂越え(足柄峠759)
「足柄の坂の神のおそろしさに、すっかり思いこんだ秘密の思い、大切な恋人の名を、言葉に出して言ってしまった。」
 2日 足柄のみ坂

終始、富士山を背にして登り、峠からの富士・愛鷹の雄大な展望は圧巻である。南東方には金時山から明神が岳に続く高峰が壁のように聳え北側には矢倉岳の

突兀(とつこつ)とした山容、幽暗な渓谷を下る道。原生林の繁茂に、昔の人の怖ろしさは想像を越えるものであったろう。恐るべき神のいます御坂として畏怖されたのである。神の霊威の前に、告白しないではおられない古代人の心情。
 3日 土肥(とひ)の河内 足柄(あしがり)の ()()河内(かふち)に 出づる湯の 世にもたよらに 児ろが言はなくに

東歌 巻14-3368
足柄のなまり。土肥の河内は湯河原温泉の地。「その湧きでる湯のように、ほんとにゆらゆらとゆれ動くようには、あの娘は言ってはいないのだ、と恋する人の不安な気持ち。」

 4日 多摩川 多摩川に さらす手作(てづくり) さらさらに (なに)ぞこの()の ここだ(かな)しき 東歌 巻14-3373
古代、多摩川畔では調
(貢物)として手作(手織)の麻生が多く貢納された。調布村(青梅市)、調布市、田園調布もこれに因む。清流に洗いさらすサラスの音にかけて、どうしてこんなにこの娘が可愛いのかである。
 5日 多摩の横山 防人(さきもり)椋椅部(くらはしべの)荒虫(あらむし) 妻宇遅(うぢ)部黒女(べのくろめ)(あか)
(ごま)
を 山野(やまの)(はが)し ()りんにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか()らむ
せめて遠い旅路を馬で行かせたいのが妻の心、放牧の時期で「赤駒を山野に放して捕るに捕られない、あの多摩の横山の道を行かせねばなにないのか。」
 6日 真間(まま)の井 葛飾(かつしか)の 真間(まま)の井を見れれば 立ち(なら)し 水汲ましけむ 手児奈(てこな)し思ほゆ 高橋虫麻呂 巻9-1808
江戸川流域東西の地が葛飾。元々東国では「崖」のこと。ここは市川市国府台南の崖下にあたる真間町のこと。「手児奈」の伝説、手児は
娘子(おとめ)のこと、奈は愛称、多くの男に思われたがなびかずに入水した伝説。その空想力での思い描きである。安産の守り神となって堂や真間の井が現存。
 7日 真間の継橋 ()の音せず 行かむ駒もが 葛飾(かづしか)の 真間の継橋 やまず通はむ 東歌 巻14-3387
真間川の手児奈橋を渡ると手児奈堂がある。近くの入江橋の北に色褪せた朱塗りの石橋脇に「つぎはし」の碑がある。手奈児追慕の名残か。「女のところに行くのに音のしない馬があったらいいな。」思いはいつの時代も変わらない。
 8日 鹿島(かしま)の神 (あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に われは来にしを 


筑波嶺(つくばね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも (かな)しけ妹ぞ 昼も(かな)しけ」。

防人大舎(さきもりおおとね)人部(りべの)千文(ちふみ) 巻20-4370
鹿島神宮は、国土開発の武神武甕鎚神を祀る常陸一の宮として古来聞こえた社である。広大な自然の鬱蒼たる神域を誇る。霰降りは枕詞、鹿島立ち、郷土の神の前に勢揃いしての「鹿島立ち」したのであろう。


ゆるは百合の地方訛り、筑波山においてきた美しい妻、夜の寝床でもかわいかったが昼もかわいくてたまらない」。
 9日 筑波嶺(つくはね)

筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも (かな)しき児ろが 布乾(にのほ)さるかも

筑波山には男体山と女体山がある。常陸は武蔵国以上に布の貢納が多い。布さらしは筑波乙女の仕事。「筑波山に雪が降ったのかな、いやいや、可愛いあの()が布を乾しているのかな」。
10日 ()の神 ()の神に 雲立ちのぼり 時雨(しぐれ)降り ()れ通るとも われ帰らめや

筑波山の男体山、女体山は奥宮で夫々イザナギ・イザナミの神を祀り男女和合の神である。古代には春秋二回、この山で神の祭りとして「かがい」(歌垣)があった。男女が集会して愛欲の歌を唱和し交会する行事。

高橋虫麻呂 巻9-1760

男の神は男体山のこと、「どんなに濡れても相手を得ずには帰ろうか、帰りはしない」。
常陸国風土記「・・坂より東の諸国(くにぐに)男女(をとこをみな)、春の花の開くる時、秋の葉の(もみ)つる(をり)相携(たづさ)ひつらなり、飲食(をしものく)をもちきて、(うま)にも(かち)にも登臨(のぼ)り、遊楽(たの)しみ栖遅(あそ)ぶ。」
11日 師付(しづく)田居(たい)・鳥羽の淡海(あふみ) 草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと 筑波嶺(つくばね)に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽の淡海も 秋風に白浪立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに 思ひ積み来し 憂へは()みぬ

反歌 巻9-1758

筑波嶺の 裾廻(すそみ)の田居に 秋田狩る 妹許遣(いもがりや)らむ 黄葉手(もみぢた)()らな

高橋虫麻呂 巻9-1757

この歌は直接、犬養孝先生の解説で記録と記憶は確かである。

筑波山の東は霞ヶ浦、当時の西方には鳥羽の淡海
(淡水湖)の大沼沢。

関東平野の東方に突き出た筑波山の展望は素晴らしい。

「この良い景色を見ていると長い間の憂いはやむ」、

反歌「あの娘の許にやる黄葉を手折ろう」。

12日 曝井(さらしい) 三栗の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えず通はむ そこに妻もが 高橋虫麻呂 巻9-1745
三栗は枕詞、「那賀の地に向き合っている曝井の水が絶えないように絶えず水を通おうと思う」。水戸市愛宕町滝坂、愛宕神社裏手に滾々と湧出する清水が今もあるという。
13日 手綱の浜 遠妻(とほづま)し (たか)にありせば 知らずとも 手綱(たづな)の浜の 尋ね来なまし

高橋虫麻呂 巻9-1746
茨城県高萩市の関根川に沿い下手綱、上手綱の村落あり。海に近い、「遠くに離れている妻が、多賀にいるのだつたら、道は知らなくても、この手綱の浜の名のように、尋ねて来もしようよ。」

14日 わざみが原・不破の関 ・・真木(まき)立つ 不破山(ふはやま)越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)(いま)して・・ 柿本人麻呂 巻2-199
伊吹山系の南端と鈴鹿山系の北端との間の不破の峡谷は、近江と美濃の国境部で畿内と東国との境界として古来の要衝。東方の関が関が原である。壬申の乱の時も、東の国の御軍を召集して大海人皇子
(天武天皇)側の拠点の「和射美が原」は関が原のことであろう。総指揮官の高市皇子の亡くなった時の挽歌の一節。
15日 神のみ坂 ちはやぶる 神の御坂(みさか)に (ぬさ)(まつ)り (いは)ふ命は 母父(おもちち)がため 防人神人(かむと)部子忍男(べのこおしを) 巻20-4402
岐阜県は恵那山近く、神坂峠、東山道の要路。御坂は恐ろしい神のいます意。迫る山気の中では、荒らぶる神に手向けして親に思いを馳せ我が身の無事を祈らないではいられないのだ。
16日 千曲(ちぐま)の川 信濃なる 千曲(ちぐま)の川の 細石(ざざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ 東歌 巻14-3400
佐久地方から小諸・上田を経て善光寺平で犀川と合流して信濃川となる。「川の石もあの方がお踏みになったのなら玉として拾います」。細石も抱きしめんばかりの乙女の純情。
17日 伊香保嶺 伊香(いか)保嶺(ほね)に (かみ)な鳴りそね わが()には (ゆえ)は無けども 児らによりてぞ 東歌 巻14-3421
伊香保嶺は榛名山のこと、
厳穂(いかほ)の意。雷の激しい地方、「伊香保嶺に雷様よ鳴ってくれるな、私の上にはわけはないのだが、あの女の為にさ」。
18日 伊香保の沼 (かみ)毛野(つけの) 伊香保の沼に 植え子水葱(こなぎ) かく恋ひむとや 種求めけむ 東歌 巻14-3415
伊香保の沼に植えるコナギではないが、こんなに恋いこがれようと思って、種を求めたのだろうか。コナギは水葵の類いで九月に紫色の花の咲く水草、食料とか花摺の染料ともなる。榛名湖のこと。
19日 子持山 子持山 (わか)かへるでの もみつまで 寝もと()()ふ ()()どか() 東歌 巻14-34
かへるで
(カエデ・モミジのこと)、もみつ(もみじする意)。群馬県沼田市の子持山1296米、古くから性の信仰のある子持神社あり。「子持山の春の若いカエデの葉が秋に真っ赤に色づくまで、いつまでも、一緒にお前と寝ようと思うが、お前さんはどう思うかね」。
20日 利根川 利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波に逢うのす 逢える君かも 東歌 巻14-3413
利根川は元々関東平野を流れ、東京湾に注いでいた。近世になり下流を太平洋に注ぐように替えたものだ。逢うのすの「のす」は「なす」の訛り。「利根川の浅瀬の場所も考えず、真っ直ぐに渡ってしまって、突然、波にぶち当たるように、ぱつたりお逢いした貴方ですよ」。
21日 佐野の舟橋 (かみ)毛野(つけの) 佐野の舟橋 取り放し 親は()くれど ()(さか)かるがへ 東歌 巻14-3420
高崎市街の東南、烏川沿い、碓氷・榛名山地の水量豊富、「上州佐野の舟橋をしりはなすように、親
(母親)は私たちの間を遠ざけるが、私は離れるものか」。「がへ」は訛りで「かは」の意。貫いてやまない愛欲一途の抵抗か。
22日 多胡の入野 ()が恋は 現在(まさか)もかなし 草枕 多胡(たごこ)の入野の 将来(おく)もかなしも

東歌 巻14-3403
高崎市街から烏川を渡り南に中山峠、鏑川の多胡橋がある。欅の森の下に
上野(こうづけ)三碑の一つ多胡碑がある。新羅の帰化人多し。入野は奥が深い、将来を「おく」とかけて、「私の恋しく思う気持ちは今もたまらない、多胡の入野のように奥かけてたまらないよ」。

23日 安蘇の河原 (しも)毛野(つけの) 安蘇(あそ)の河原よ 石踏まず 空ゆと来ぬよ ()が心() 東歌 巻14-3425
旧安蘇郡、現、足利市。秋山川に広い石の河原がある。「安蘇の河原を通り石も踏まないで空を飛ぶようにしてやってきたよ,さあ、お前の本心を聞かせておくれ」。
24日 みかもの山 (しもつ)毛野(けの) みかもの山の 小楢(こなら)のす ま(くは)し児ろは ()()か持たむ 東歌 巻14-3424
両毛線小野寺駅の南に
三毳(みかも)223米、三毳(みかも)神社もある。小楢の新緑の、ういういしい芳しさ。「コナラの新緑のように美しく可愛らしいあの()(ま麗し児)、誰の家の食器()を持つようになるのだろう。
25日 あだたらの嶺 ()()多良(たら)の ()()鹿猪(しし)の ありつつも (あれ)は到らむ 寝処(ねど)な去りそね 東歌 巻14-3428

福島県、安達太良山、1700米、山の谷に鹿猪はいつも寝床を変えないことから「そのようにいつもお前の処へ通うよ、寝場所を変えないでおくれ」。

26日 真野のかや原 陸奥(みちのく)の 真野の草原(かやはら) 遠けれど 面影にして 見ゆといふものを (かさ)女郎(いらつめ) 巻3-396笠女郎は大伴家持をめぐる女の一人、家持への歌である。「陸奥の真野のかや原は遠いけれども、心に思えば面影となって見えると申しますのに」、家持に逢えない嘆きを甘美な余情で訴える。
27日 みちのく山 天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむと (あづま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く 大伴家持 巻18-4097
聖武天皇天平二年二月、造営中の東大寺大仏の塗金不足、陸奥の小田郡からはじめて金を産出し陸奥国守百済王敬福が黄金
900両を献納。宮城県涌谷町に黄金山神社にその「黄金始出地」碑がある。
28日 筑波嶺の歌 ()(もて)の 忘れも(しだ)は 筑波嶺を ふり()け見つつ 妹は(しぬ)はね 茨城郡占部小龍 巻20-4367
さ百合と妻への思慕、土の香りのままの田舎言葉で愛情を示す。
29日 筑波嶺の歌 筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 世にもたゆらに わが(おも)はなくに―筑波の山川の水の「たゆら」は風土色。 常陸国の歌 巻14-3392
30日 田子の浦 昼見れど 飽かぬ田児の浦 大君の (みこと)かしこみ 夜見つるかも

おくれ居て 恋ひつつあらずば 田子の浦の 海人(あま)ならましを 玉藻刈る刈る

田口益人(たぐちますひと)大夫 巻3-297
田子の浦が既に名所化されている。

別れを悲しめる歌 巻
12-3205
31日 東国 東歌を多く引用しているが、防人の出身地は東国であった。高橋虫麻呂とか山部赤人は大和から来ている、虫麻呂は筑波山を中心に常陸一帯、下総、上総、武蔵 と関係が深い。異国での強烈な憧れと思い入れ。
防人の歌は、東国夫々の地方で歌われたものが多い。生活の中からの歌であろう。