正法眼蔵・現成公案 5

事前の用語の解説も先月終えたので、愈々現成公案に取り組むこととする。

平成18年5月

 1日   

@

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修証あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。」

仏法一体、諸法(あらゆる事と物、あらゆる事象)

仏法的立場(認識・関係)からすれば、迷悟・修証・生死・諸仏・衆生、等々の万法は、(続く)

 2日


A
「万法ともに、われにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。」

万法(諸法と同じ、即ち迷悟・修証・生死等々)
(
前日よりの続き)、相互にあらしめられながら、休むことなく運動し続けている。すなわち、一体として全部が「ある」のである。
 3日

B

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。」

豊倹(豊は「あり」、倹は「なし」の意味)
しかし、仏道的立場(行動・流れ)からすれば、行動する者にとっては、「迷」の時は「迷」だけの一法のみ「ある」のであって、そこには「悟」の一かけらもいり込む余地はない。即ち「迷一如」である。「生」の時は「生」一法のみ「ある」のであって「死」の介入は許されない。「生死一如」である。

 4日 一如行 知や観は、いくら深まっても、知識の段階にとどまり、行動には中々つながらない。道元は、これら知の人や、観の人を文字法師とか文字の学者と呼び蔑んだという。これに対して感は、ただ感にととまらず、必ず行に進む。一体感は一如行に進まざるを得ないのである。 例えば、正義感・使命感に燃える者は自己を捨ててもそれを遂行しようとする。それは使命知でもなく、正義観からでもなく、使命感・正義感から湧き出る、やむにやまれぬ強い実行力からである。
 5日 自己を捨てる 自己を捨てて、でなければならない。 自己を捨ててが「身心を挙して」「身心脱落」に該当するという。
 6日 一体・一如の境地 禅の境地が進むと「感」も「行」も消え去る。一遍上人が若い時、法燈国師に修行していた。国師は一遍の心を練磨するため「口を開かずに念仏せよ」と出題した。数日考えて心眼を開きその心境を歌にした。
「称うれば 仏も我れも なかりけり。南無阿弥陀仏の声ばかりして」
国師はまだ未熟であるとして、更に心境の練磨を命じた。一遍は練りに練って練り抜いて、
「称うれば、仏も我れも、なかりけり。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と国師に示した。

国師は「うーむ」と嘆声を発して即座に印加証明した。
 7日

C

しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

花は愛惜に散り云々の詩的表現の中に深い哲理がある。時間と空間について深い認識が潜む。有(存在)は時(時間)であると道元は考えた。故に、有と時は一つものであるとして「有時(うじ)」という熟語を用いた。花を地位・名誉・金とすれば理解が深まる。
 8日 序論まとめ 以上が序であり、以下「身心脱落」、「得・法通・法」などに論理が展開されるのだが、今迄の要約をすれば、

@認識論的ありーー()・・・
仏法
(一体)
A認識論的なしーー()・・・
仏性
()
B行動論的ありーー()・・・
仏道
(一如)
C感情的認識・・・・・・・・ 世法

 9日

さとり

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」 修証(修は修行、証は要点、ツボ、コツ。この場合の修は行動、証は認識と解す。)。何をするにも誤った自我意識(愛惜、棄嫌のような)から離れず、その自我意識を中心に行動()し、その結果、認識()するということ。万法すすみて自己を修証するは之に反して万法(あらゆる事象)に受身になること。要約「自己が存在を限定するのでなく、存在が自己を限定する。
10日 さとり 「迷を大悟するは諸仏なり。()に大迷なるは衆生なり。さらに、悟上に得悟する漢あり、迷中()迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく。」 悟上に得悟の漢(大悟の人)、迷中又迷の漢(大迷の人)。前文で諸事象(万法)についての認識の態様により、迷いとか悟りとかが生ずると述べた後を受けて、迷悟にも種々程度の差があることに触れ、更に悟った人は必ずしも自分で悟ったことを特に「意識」することなく、「行動」でそれを示すと言っている。(証しもてゆく)
11日 一如 「身心を()して(しき)を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず。水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。」 一つの対象・現象を真に把握するには、全身、全神経を集中,無我夢中に己を忘れてぶつかって行く。この無我、己を忘れることを、道元は「身心(しんじん)脱落(だつらく)」と言う。己を忘れるから自我意識はない。
12日 数学者・岡潔の言葉 私の場合は、この垢を除くのに念仏が役立っており、念仏につれて身も心も軽くなり、騒音を騒音と感じなくなる。音は聞こえてもやかましくてたまらないと思わない。 また胃が痛んでたまらなくても、痛みは残るけれども、自分の胃が痛いという感じはなくなる。一言で言えば世の中がまるで変わったようになる。宗教には確かに力があると言わねばならない。
(春宵十語)
13日 身心脱落 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり」 仏道(達人道)をならふというのは、自分自身をならうということなのである。

「ならう」とは「よく知る」ことである。充分に知り尽くすことである。
14日 身心脱落2. 自分自身を知り尽くした上での脱落である。自分自身をならうといのは、自分自身を忘れることである。自分自身を忘れるとは、小我を忘れ大我(万法、大自然)に従うことなのである。大我、即ち大自然に従うとは、自然の道理をよくわきまえて、それに従うことである。 自然の道理とは、「一方を証するときは一方はくらし」、これである。この場合、一方とは仏道であり、他の一方は、自己及び他己である。人間である。
仏道をならう為には、つまり悟る為には、他の一方たる自己及び他己の身心を脱落させなければならないのである。
15日 一如 一如とは、「主体と対象とが一体になって行動の中に溶け込むこと」である。この場合、時間と空間の観念は消滅する。一如の「如」は「ごとし」、主体と客体とは一体となるが、主体は主体のままで 一如となり、客体は客体のままで一如となる。そこで一つの如し、というのである。
どうすれば一如となれるか、道元は、自己の身心及び他己の身心を脱落すればよいと教える。
16日 ならう 良く知るとの意味。充分知り尽くすことである。知り尽くした上での脱落である。知らないでいきなりの脱落ではない。 禅家は一般に「行」を尊び「知」を排す。「不立文字」の思想はこの現れである。しかし、道元は、この点異なる。万法(あらゆる事象)の中には当然あらゆる「知」が含められている。即ち「知」排除しないのである。
17日 身心脱落3.

悟迹(ごせき)休歇(きゅうかつ)なるあり。休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」

悟迹(悟った様子)、休歇(休息)、真から悟った人には悟りの様子は無い。一方を証すれば一方はくらし、要するに悟り自体があかるいと悟りの相はくらい、表面に出ないものである。
18日 身心脱落4. 「人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人(ほんぶんにん)なり。」 (仏法、真理)、本分人(仏、達人)
19日 身心脱落5. 「人舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯(べんこう)するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。」 弁肯(弁は見分ける、肯は物の急所)
行李
(行動)、箇裏(このところ)
あきらけし
(明らかな筈だ)
20日 身心脱落に就いて 文字通り身心脱落を解釈しても正確に把握は至難。自心自性は常住なるかとあやまる(流れ)、万法のわれにあらぬ道理あきらけし(関係)、動くと見た岸は本当は動かず固 定していると感じる舟、自分が動いている。そこで、固定し常住不変と思う自心自性は実際は無常であり、「ある」と思っている万法は「ない」ということである。
21日 そこで、身心は既に脱落しているものであり、脱落が自然である。身心脱落、即ち無常・無自性の概念の説明なのである。 生理学者ホールデンは「植物でも動物でも「合成」と「分解」がいつも並んで同時に行われている。ただその割合が異なるに過ぎない」。これは本来、生物は「無常」であり「無自性」であることを、化学的・生物学的に説明したものである。
22日 一体と時間 「たきぎははひとなる。さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり。

「一時の位」は永遠の過去・未来をつなぐ時間軸(無常)と、無限の空間を示す空間軸(無自生)との交差点。永遠の時間と、無限の空間との「かさなり」である。この交差点では、時間は空間であり、空間は時間、今は此処であり、此処は今である。一時の位は、一点であるが故に絶対である。

23日 一体と時間2. 「かの薪、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく人のしぬるのちさらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。生も一時のくらいなり。たとへば冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」 生から死への直線と考えないで、生の時は、生の一点(一時の位)、死の時は死の一点(一時の位)と考える。
24日 一体と空間

「人の悟をうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

全月(月全体)、弥天(天全体)
25日 閑話休題

真理は簡明で冴えわたっている。それは一滴の水も宿る。これは道元が、素直に直下に我々に語りかけていると見る。ただし、その一

滴の水は「身心脱落」した一滴の水でなくてはならぬ。「無」なる一滴の水にこそ「無」になる一点に真理も万法も宿るという。
26日 一体・一如

「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。たとへば船にのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。

法もし身心に充足すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。で一滴の水に宿る悟りが、その一滴に充足すれば、どことなく、たりないと感じて、それを充足しようとして、二滴、三滴の悟りへと進む。
27日 一体・一如2 しかあれど、この大海、まろにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿のこどし、瓔珞(ようらく)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。 海徳(海の価値)、宮殿(魚は海を宮殿とみる)、瓔珞(世間)
28日 一体・一如3. かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中(じんちゅう)洛外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみるよりほかに、のこりの海徳山徳おほく、きはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。」 万法の家風(すべての現象を知る)
29日 一体・一如4. 魚の水を行くに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみづそらをはなれず。 悠久な時間、無限な空間にとらわれないで、それを超越して生きることの教えである。それを「一時の位」に圧縮する。時間も空間も、いずれも「点」として考える。
30日 一体・一如5. 「ただ用大のときは使大なり。用小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふことなく、処処に(とう)(ほん)せずといふことなしといへども、鳥もし空をいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづればたちまちに死す。 頭頭(魚の頭が方方に向かって動くさま)、処処(鳥が方方に飛びかうこと)、踏翻(飛び交うこと)。「点」は一如になれる。
31日 一体・一如6. 以水為命しりぬべし。以空為命しりぬべし。以鳥為命あり。以魚為命あり。以命為鳥なるべし。以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし、修証あるべし、その寿(じゅ)者命者あること、かくのごとし。」 以水為命(魚は水が命)、以空為命(鳥は空が命)、修証(修行して得るコツ)、寿者命者(寿者は長命な人、命者は短命な者で、いずれも人間をさす)
一体・一如7. 「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にも、そらにもみちをうべからず、ところをうべからず。」 水をきわめる(水の終わる所を知る)、擬する(考える)、みち(行く路)、ところ(行動の方向)。考えるときは考えるだけ、考えながら歩かない。