徳永圀典の「日本歴史」@ 日本の美形
初めにお断りしておく、これは自分の勉強の為である。土台本の中心は扶桑社、市販本の「新しい歴史教科書」初版本とその他数種である。内容はそのままではない、徳永圀典流に変更している。
平成18年5月
1日 | 日本の美の形 |
縄文時代には、火炎のような土器や奇妙な土偶、 弥生時代には幾何学的な銅鐸等が製作された。 |
古墳時代になると、おおらかな埴輪が作られ、前方後円墳のような巨大な墓も建設された。それらの形は、世界美術の中でも類例のないものと言われる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2日 | 縄文土器1. 紀元前 |
Aビーナス土偶、妊娠している女性像は安産への祈願だが美しい造形である。 |
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3日 | 縄文土器2. |
C不思議な形の女性土偶、同様なものが各地から出土。崇拝したものと言われる。 (青森県亀ヶ岡遺跡) |
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4日 | 縄文時代像を変えた 「三内丸山遺跡」(青森市) |
江戸時代から知られた有名な遺跡、平成4年、1992年から調査開始。縄文時代前期から中期(約5500年―4500年前)の大集落跡や、平安時代の集落跡(約1000年前)、中世末(約400年前)の城館の一部が検出された。 |
特に縄文時代の大集落跡は @部分的にしか分からなかった縄文時代の集落と営まれた暮らしが丸ごと発掘。 A集落が約1500年間の間継続して営まれた事。 B定住生活をしていた事。縄文時代のするイメージを根本的に大きく覆す発見。 |
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5日 | 三内丸山遺跡2. |
大規模な盛土遺構や大型掘立柱建物跡と、約500軒にものぼる竪穴住居や墓は明確に分離して作られている事は、大人数による計画的な村作りが行われ、しかも長期間継続された組織の存在を示す。動物や魚骨、大量出土の植物の種子や花粉により当時の土地自然環境や食生活を具体的に知ることが出来る。クリの実のDNAを検査したらどの実にも一定のDNAが揃って |
見られ似通った遺伝子を持つ木から得られたものとの結論から、人が管理していたクリ園の存在が証明された。トチ・イヌビエ・ヒョウタンなどもある程度管理して収穫していた可能性すら考えられる。土地堀り棒も出土し縄文時代からの農業についても活発な議論を呼び起こしている。極めて高度な文明があったと思われる。(年輪年代法) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6日 | 三内丸山遺跡3. |
盛土遺構、縄文時代中期に約1000年間に亘り作られた。竪穴住居や大きな柱穴を作った時の残土、排土と共に生活用具の土器・石器を捨て、それらが何度も繰り返され周囲より高くなり最終的に小山のようになった。 |
規模は南北約70米、東西60米も厚さ最大2.8米。この遺跡に暮した人々は食べ物のゴミ=生ゴミと産業廃棄物=粗大ゴミを分別していたのだ。高度な文明は誇るに足る。 |
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7日 | 三内丸山遺跡4. |
大型掘立柱建物跡、縄文時代中期、4500年前の六本柱の長方形の大型建物跡が検出された。柱間の長さは全て約4.2米と統一され、柱穴からははクリの巨木を |
加工した直径約80センチ以上もの木柱も発見。この建物跡は高床式で柱の太さから高さ20米以上ある高層のものと考えられ、物見櫓や灯台の可能性も考えられる。 |
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8日 | 三内丸山遺跡の発掘物 |
ヒスイの大珠、黒曜石の石匙、天然アスファルトの付着した石鏃。 | 縄文ポシェットは約5500年前の地層から完全な姿で発見、イグサで編んだ小物入れ。中にクルミの実あり、腰に結んでいたもの。 |
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9日 | 弥生時代の大規模環濠集落、 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神崎郡) |
昭和6年1931年から発掘調査され弥生時代の全国最大規模の環濠集落であると判明。これにより魏志倭人伝に紹介された邪馬台国時代の「クニ」の状況を知る貴重な資料とされる。弥生時代の全時期を通じて営まれ2000基の甕棺、物見櫓、高床倉庫、竪穴住居跡の他、長さ40米。推定高さ4.5米と最大規模の墳丘墓もあり胴剣と菅玉も発見された。このことから吉野ヶ里遺跡は1世紀には「クニ」の中心的な首長の為の大規模墓で、2-3世紀には外壕内壕、物見櫓を備えたクニの中心であるとされる。 |
各種出土品から、田手川―有明海―朝鮮・中国への海上交易圏も伺える。邪馬台国論争に関係する大遺跡である。 環濠集落、外壕と内壕をめぐらし、内壕を掘った土を外側に盛り上げて土塁とし、その上に柵を立て並べた。その柵の一部に門があり、内部には二階建ての建物、半地下構造の家、物見櫓がある。 外壕の手前には最大40米もある高床式倉庫が多数ある。集落の低地で稲作があったと推定される。 |
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10日 | 吉野ヶ里遺跡 | 管玉・銅剣、先刻的に珍しい十字形の柄を持つ銅剣が発見され、身分表現したり祭祀用の儀器の性格も見られる。スカイブルーの75個の管玉は中国から取り寄せ、朝鮮か九州で製作され山形の頭飾り、即ち王冠と思われる。 |
甕棺には300体以上の人骨、首のないもの大腿骨骨折のものは闘争の時代を伺えさせる。南海の巻貝の形の巴形銅器の鋳型が外壕から発見されたのは青銅器技術者の存在を示す。 |
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11日 | 吉野ヶ里遺跡 | 物見櫓、内壕の一部が半円形に外側に突き出た部分の内側に6本の堀立柱に支えられたもの。建物の高さ11米と推定、魏志倭人伝の「楼観」 | と想像されている。外壕、V字形の巾6-7米、深さ3.5米に切れ込んだ外壕は3haの地域を囲む防御機能である。 |
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12日 | 最古の前方後円墳が集中すする「纏向遺跡」 |
ホケノ山古墳、纏向石塚古墳、箸墓古墳(奈良県桜井市)一帯、巻向川に沿う扇状地の広がる弥生時代後期から、古墳時代前期を中心とする約1キロ四方の全国最大規模の遺跡である。 |
巾5米の大溝に約1万枚もの矢板を使用した大土木工事、南関東から瀬戸内海西部の各地から運搬された土器の出土、最古の前方後円墳の存在から初期大和政権誕生と密接な関係を持つ。 |
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13日 | 「纏向遺跡」2. |
ホケノ山古墳、築造は箸墓古墳より古い、2世紀末-3世紀後半の邪馬台国に遡るとされる。これにより3世紀に弥生墳墓と異なる前方後円墳が築造されていたことが証明された。私も現地査察したが実に興味深い思い、 |
箸墓古墳、考古学に興味ある人なら知る箸墓古墳、卑弥呼の墓説もある、隣接する溜池、出土した土器片から箸墓古墳は西暦280年前後と判明した。この年代は卑弥呼の壱与の時代であり興味津々。 |
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14日 | 池上曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市) |
弥生時代中期の大規模環濠集落、高床式の「神殿」と「脇殿」の大型建物跡、直径2米もある祭祀用の「くり貫き井戸」が出土している。その神殿のヒノキ柱を年輪年代法で測定した結果、その1本は紀元前52年に伐採されたものと判明、神殿はその |
直後に建設されたものだが、過去の予測より100年早まった。この神殿は吉野ヶ里遺跡と規模や建築技術に匹敵するので、魏志倭人伝の邪馬台国より百数十年前に、九州北部と並ぶ水準の「クニ」が近畿に成立していたことを示すものである。 |
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15日 | 見瀬丸山古墳(奈良県橿原市) |
1991年、近在の子供たちの出入りが契機となり橿原市の見瀬丸山古墳の石室内の写真がメディアに公表された。最大の石室内には二基の石棺があり、 |
欽明天皇と妃の堅塩媛のものと考えられている。とすると、明日香村にあって宮内庁が管理する欽明天皇陵は一体何なのかとされている。 |
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16日 | 解明進む旧石器文化・高森・上高森遺跡 (宮城県築館町) |
宮城県北部、江合川流域の北東10キロの丘陵に位置する高森遺跡から1988年以降、石英の一種を使った小型のスクレイパーや大型の石斧など旧石器45点が出土。それらの遺物を含む地層は熱ルミネッセンス |
法など三種の測定法で43-61万年前のものだと判明。このことは、高森遺跡は中国に北京原人が登場した約50万年以前まで遡る日本最古の遺跡であることの裏づけであり、これらの石器を使用した原人の存在を証明する決定打である。 |
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17日 | 豊かな日本海交流を示す「上淀廃寺壁画」 (鳥取県淀江町) |
鳥取県西部の上淀廃寺から最古級の仏教壁画が発見された。この寺は新羅系独特の瓦を持つことが注目されていた。発掘調査の結果、金堂と塔が検出され、金堂北側から約270点の壁画片が出土。 |
寺は7世紀末から8世紀初頭の建立で、そこに描かれた壁画は現存する法隆寺金堂壁画と並ぶ第一級の資料である。淀江町には本州唯一の石馬を立てた石馬谷古墳など豊かな古墳文化もあり背景には旧淀江潟を拠点とした活発な日本海文化交流がある。 |
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18日 | 甦る奥州の都・柳の御所遺跡(岩手県平泉町) |
奥州平泉氏造営の平泉は12世紀末までは、京都・奈良と並ぶ都市。「柳の御所」と呼ばれる北上川岸の遺跡が1988年発掘され、台地を取り巻く長大な空堀で防御された藤原氏の居館、政庁である「平泉館」の全容が解明された。中心部には、京都の |
貴族邸宅を想起させる寝殿造風の建物、工房群(鍛冶・漆・金工など)、政庁事務機構もあった。また大量のかわらけ、和歌様の文字がある折敷、中国産白磁、渥美、常滑の陶器なども発見され京都風の儀礼、宴会も偲ばれる。 |
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19日 | 日本列島の形成 |
ミンデル氷河期、30-50万年前には、対馬海峡は陸橋となり、寒冷な気候のため、冬季は河川が凍結し、北方系の動物たちが大挙して日本列島に移住してきた。この時、原人の仲間たちも日本に移った可能性がある。 |
また、リス氷期、13-20万年前には、琉球列島の孤立化が著しくなり、津軽・対馬両海峡の陸橋は氷期でも狭くなり、現在の日本海が一大内陸海(湖)を形成したと言われる。 |
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20日 | 日本への渡来ルート |
日本列島最古の住人は、アジア大陸からの渡来者であった。然し、先土器時代に続く縄文時代には、大きな集団の渡来者は殆どない。弥生時代に入ると、山口県を含む九州北部の弥生人に見られる身体形質の激変は渡来者の数が激増したことを示すと |
いわれる。北方ルート(樺太から北海道を経て本州)、朝鮮ルート(沿海州から朝鮮半島を経てと華北遼東を経て本州)、東シナ海ルート(山東から九州)、沖縄ルート(台湾・沖縄から本州)、南洋ルート(ミクロネシアから本州)。 |
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21日 | 稲作の伝来 |
従来、稲は熱帯のインド東部で野生種から栽培種が作りだされたとされている。然し、最近ではインド北部のアッサム丘陵から中国の雲南高地にかけての亜熱帯地こそ栽培稲の起源と見ら |
れるようになつた。ここから西南、南、東北へと伝播した。稲の種類は日本型(ジャポニカ)、円粒、印度型(インディカ)、長粒・ジャワ型(ジャバニカ)・大粒に大別される。 |
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22日 | 古代人の生活 |
縄文人、春には貝類や木の芽の採集、夏には漁労、秋にはサケなどの捕獲、堅果や肉果の採集、冬には狩猟という1年を送っていた。食料確保の主体は食用植物の採集である。弥生人、米のほか、縄文以来の狩猟、漁労、採集 |
で得られた食料と栽培植物を利用した。農耕が導入されると農耕暦が生活のリズムになり、季節に合わせての営みが祭りにより明確になつた。狩猟・漁労・採集は農耕と競合しない形で行われ、道具の製作や修理は、農閑期に行われた。 |
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小国家分立から連合国家へ |
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23日 | 倭と中国との交渉 |
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24日 |
「魏志」倭人伝に記された倭人の社会 |
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25日 | 邪馬台国を巡る国々1 (九州北部1.) |
@「原の辻遺跡」、長崎県壱岐郡、内部面積が25haの三重の環濠を備える集落遺跡(弥生前期―後期)。 A「平原遺跡」、福岡県前原市、伊都国の王墓(弥生末期―古墳初期)、巨大な国産鏡四面・中国産鏡三十五面外多数の勾玉・管玉出土。 B「三雲南小路遺跡」、前原市、伊都国の王墓(弥生中期)。1号甕棺破墓から戦国時代の銅鏡2面、前漢鏡33面外中細銅戈・ガラス製の壁・勾玉・管玉多数出土。 |
C「桜馬場遺跡」、唐津市、末盧国の有力な甕棺墓遺跡、後漢鏡2面、巴形銅器・銅釧26点、鉄刀片、ガラス管玉・小玉の出土。 D「須玖岡本遺跡」、春日市、奴国の王墓(弥生中期後半)、甕棺墓から前漢鏡30面、国産ガラス製勾玉、中国産ガラス製壁など出土。春日丘陵を中心に青銅器・ガラス工房が集中。 E「那珂・比恵遺跡」、福岡市、奴国の拠点的集落(弥生中期後半―古墳前期)、環濠を持つ集落遺跡には大型の遺構発見。 |
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26日 | 邪馬台国を巡る国々2 (九州北部2.) |
F「吉武高木遺跡」、福岡市、早良平野の拠点的集落・墓群(甕棺墓34基・木棺墓4基・弥生前期―中期)、多紐文鏡・細形銅剣・細形銅戈・硬玉製勾玉・碧玉製管玉468個伴出、柱18本の大形建物遺構も発見。王墓に相応しい内容。 |
G「平塚川添・山の上遺跡」、甘木市、面積15haの巨大環濠(弥生中期―古墳初期)、内壕中央に並んで建つ4棟の高殿、環濠内の北東部奥に大型建物の遺構。 |
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27日 | 邪馬台国を巡る国々3. (近畿地方1.) |
@「纏向遺跡」奈良県桜井市、弥生末期―古墳中期の都市的な集落。大土木工事による人口水路や外来系の土器などが発見され、邪馬台国畿内説の都の候補地の一つ。A「唐古・鍵遺跡」、奈良県磯城郡、大和盆地の中央に位置し拠点的集落(弥生前期―古墳中期)、環濠を持ち楼閣の描かれた土器も発見。中国風の立派な建物が大和にあったことは、大和も邪馬台国の候補地としての資格も十分ある。 |
B「池上曽根遺跡」、大阪府和泉市、泉大津市、弥生前期中頃から続く和泉平野の拠点的集落、環濠を持つ集落で、宮室・大井戸・大規模な工房跡等が発見された。 C「瓜生堂遺跡」、東大阪市、河内平野の拠点的集落(弥生前期―古墳前期)、方形周溝墓が発見され、銅矛の鋳型も出土。 |
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28日 | 邪馬台国を巡る国々4. (近畿地方2.) |
D「広嶺15号墳」福知山市、全長40米の前方後円墳、景初4年、240年の年号がある銅鏡が発見、景初は魏の年号には無い。 |
F「伊勢遺跡」、滋賀県守山市・粟田群、弥生後期に現れた拠点的集落。大型建物の遺構が発見された。 G「安満遺跡」大阪府高槻市、三島平野の拠点的集落(弥生前期―後期)、環濠を持つ集落で方形周溝墓も発見。H「東奈良遺跡」大阪府茨木市、西摂津の拠点的集落、木棺墓が発見され銅剣の鋳型も出土。 |
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29日 |
統一国家の成立 |
大陸のすぐれた技術と鉄資源を求めた畿内の王権は、九州北部の政治勢力を服属させた。弁韓地方にも勢力を及ぼし、百済・新羅を挟んで北方の高句麗と戦闘を交えた。五世紀になると、 |
朝鮮諸国と中国南朝との関係が強まる動きに対抗し、倭の五王は東アジアに於ける倭国と地位確立をしようし図り、中国南朝へ使者を送った。南朝への使者のコースは、大和→加羅(伽那・任那)渤海湾経由→宋・建康。. |
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30日 | 倭の五王 |
五王のうち、済・興・武が允恭・安康・雄略の三大王にあたる。讃は応神・仁徳・履中、珍は反正、或いは弥と呼んで仁徳にあてる諸説あり。 |
宋書によると、讃、珍。済は興、武。梁書では、賛、弥―斎、興、武とある。 |
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31日 |
大和政権政治組織 |
夫々朝廷内に一定の地位と職務を有する多くの氏により構成されていた。氏は、臣・連・伴造・国造など大和政権を構成し、またそれにつながる |
諸豪族の組織である。大王に対する世襲的な服属・奉仕の理念こそ、氏の本質であった。この氏と王権の関係を表示するのが姓である。諸豪族は大王から諸種の姓を与えられ、大和政権内に一定の政治的地位を占めた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡来人の活躍 |
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