安岡正篤先生語録 K 
平成
185

 1日 日本に欠けているもの ・・やれやれと思ったのか疲労が甚だしく体調の変化を覚えた。病気はやはり気である。・・それは人間の体ばかりでなく、国家内外の問題も、突き詰めてみると、結局、心である。つまり人であるということです。今日の日本に何が欠けておるのかというと資源でもない、経済力でも金融でもない、詰まる処「人」である。 ・・まさに「多くある人の中にも人ぞなき」である。

然るべき所にあらねばならぬ所に、あるべき人がない。つまり、その地位にある人に心ができておらんということに帰する。心を修めた人が、あるべき場所に座るということよりほかに、何もないと言ってよかろうと思うのであります。
(孟子より)
2日 己自身の驚覚が必要 人間は時々衝撃を受けて、特に自己に衝撃を受けて驚き、目が覚める、覚ますということが最も必要。人間の生命というものは、慢性的、慣習的、因習的になると忽ちだれてしまう。これにショック療法といい時々衝撃を与えないと生命は躍動しない。神経衰弱とか消化不良に陥っている人間に、いくら薬を飲ませてもどんなに養生を勧めても完全 に回復することはない。こういう人間には衝撃を与えるのが一番いい。・・真理とか、道というものはそういうものです。己自身を驚覚する必要がある。自己、本当の吾というもの、これが一切の根底である。一切の原因、一切の創造主、クリエーターである。この真我、自我というものを失うと人間の創造は止まる。(東洋人物学より)
 3日 事業徳業天業 徳業という言葉を味わわなければならない。ただ我々が欲望や才能でやっていることは、これは事業です。その事業にその人の人間内容が出て初めて徳業となる。・・これ抜いたらその仕事に生命がなくなってしまうようなのを徳業という。 人間の根本的なもの、即ち、切々として人間の真実に深く結びついておる、これが宇宙、人生、自然と人間に一貫して、自然と人間とを繁栄せしめるという業が天業というものであります。
(東洋人物学より)
 4日 文明と大都市 民族には生活を創造する力がある。これが文明能力というべきもので、道を開き鉄道を走らせ自動車、飛行機、ガス、電気、建築、法律、あらゆる国家生活の現象はこの能力によって生産された文明である。文明は文化能力の作り出す肉体である。それが民族の文化創造力の重荷になるとその民族は病気し滅亡する。ある民族が永延の発展を企画せんためには文明を重荷にせぬ工夫が肝心である。しかしながらそううまく行かぬ。人間つい飲みすぎ食いすぎたり余計なことをする。 財産や名誉のために老病死を招く者が多いので、民族も文明のために倒れている。自ら作った文明によって死滅している事実を歴史は語っている。文明の第一表現は世界的大都市の出現である。大都市は壮麗な物質的な施設と、多くの民衆の集団であり、その賑やかさの中に一切を幻惑してしまうものである。然るに多くのそれは全民族を腐敗堕落に導く巣窟であり、腫物のような危険なものである。大都市は考古学の立場から明らかに立証されるところであるが、いずれも案外脆く崩壊しているのである。
(古典を読むより)
 5日 素行より始めよう ダンテの神曲に「憤りの魂」というものを力説しておるのに感動したが、それは夙に「論語」のなかに孔子も力説したことである。「憤を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘る」。もとより単なる私憤ではなく、道義的発憤であり、それが国家的、民族的、政治的発憤になると、もっともよくしられているのは文王 赫怒(かくど)、すなわち「文王一怒(いちど)して天下の民を安んぜり」(孟子)というものであろう。 この義憤的精神エネルギーが民族にあれば、「文王無しと雖も猶興る」(孟子)ことは王陽明もその「抜本塞源論」に力説して、古来多くの志士仁人の感憤するところである。然し、この自由民主主義制の堕落し、巨大都市化の文明頽廃生活に放縦になってしまつている今日「猶興」というものは容易に期待できない。まず「素行」あたりから考えねばなるまい。素行とはいうまでもなく、心ある人々がまず各々その位すなわち立場・立場に即して良心的に行動することである。(天地有情より)
 6日 民族の春の日本青年の風景 天台宗権僧正という法位を持つただ一人の外国人、ジャック・ブリンクラー氏が最近の東京人、特に青年学生を評して、「江戸っ子も変わった。学生の変わり方は特に酷い。戦前の学生は地味で、探究心が強く、伝統の良さを正しく活かそうと努力していた。今の学生は伝統もなければ特色もない。落ち着きも無ければ、礼儀も知らない。ことに正しい日本語を知らない。英語を習う前に日本語を習いなさいと言っている。」 恥ずかしながらその通りである。民族の春である青年学生の世界に、この頃は何という殺風景なものが流行することか。真に穢国(えこく)・悪国ということを感ずる。西田幾多郎博士晩年の歌に「しみじみとこの人世を(いと)ひけりけふこのごろの冬の日のごと」とあるが、今生きていたならば、なんと思うことであろうか。この精神的頽廃を一掃して、国民ことに青年子弟を奮起さすことができねば、日本は遂に滅亡のほかあるまい。(天地有情より)
 7日 運命は測り知れない

宇宙の創造活動を「命」と()う。それは(おのれ)自らに足りて何ら他に待つことなき作用、即ち絶対自由なものであり、同時に、どこまで行ってもこれで十分ということのない作用、すなわち永久不慊(ふけん)なものである。それは動いて()まぬものゆえ、また「運」とも謂い、これに続けて「運命」とも謂う。だから運命は誰に依ることもなければ、何故と疑うこともない。俺は誰の為にこんなに貧窮

な家に生まれついたろうとか、俺は何故こんな愚かに生まれついたろうとか、考えるぐらいナンセンスなことはない。それこそ妄想である。富貴(ふうき)()しては富貴を行い、貧賎(ひんせん)に素しては貧賎を行えば善いのである。人間の運命に至っては到底凡人の独断し得るところではない。この俺が如何にけちな野郎に過ぎない様でも、案外どんな美質が含まれていて、如何なるお役に立つかも知れないのだ。決して棄てたものではない。
(経世瑣言より)

 8日 大臣 いかなる職業でも、仁を求めて仁を得ぬことはない。その職業を通じて仁を為し得ること偉大なほど、その職業は貴い。宰相の職が薬屋より貴いと考えられるのは、宰相の職は一薬屋の到底及びもつかない大なる仁を為し得るからである。それにも拘らず、身宰相の職在りながら、民の疾苦を救うことも出来ず、(いたずら)に俸禄を費したり、或いはその公器を(もてあそ)んで私利私欲を(ほしいまま)にするならば、それこそ市井(しせい)の一商人にも劣るもので、職を(はずかし)め、身を汚し、不 忠不幸この上も無いと謂われねばならぬ。
之に反して我々は五反の田を耕しながらも、真に仁を求むれば、凡庸な農夫の数倍の収益をも実現して、国家の人口食糧問題の解決に大なる光明をも与えることができる。
質屋の主をしながらも、
細民(さいみん)に自由に且つ簡単に金融の便を与え、同時にいつか富を為すことも出来、真に憐なる人々を救う大侠(たいきょう)ともなり得るであろう。
然らば農夫、
市人(しじん)も王侯に伍して(いささ)かの遜色も無い。
(
東洋倫理概論)
 9日 経済と若者の人間完成 若人が親のおかげで経済的に恵まれることは、決して唯物史観を(あやま)って軽々しく個人的生活に援用する世の社会主義者的思想の臆断(おくだん)するように人間の尊い完成に役立つものではない。それは往々逆に人間を動物的堕落に(おとし)いれ易いばかりでなく、抑々貧苦を知らぬことは人間の深刻な情意の健闘力を萎靡(いび)させ、人格の線を細くし、才幹をふやけさしてしまう。 貧苦は却って人間の骨力を養い、人間をして動物的な苦しさに堪えかねて真の精神的な境地を渇求し邁往(まいおう)せしめる。故に孟子も「天の(まさ)に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚(たいふ)を餓えしめ、其の身を空乏(くうぼう)にし、行には其の為す所を(ふつ)(らん)す。心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を会益する所以なり」と言っている。経済的恩恵は道徳的教育が根本になって居って始めて能く其の子を啓沃(けいよく)する。(東洋倫理概論)
10日 (しん)(いかり、怒り、立腹) (しん)」、いかり。昔の人は偉いですね。目に角立てて瞋りという字だ。瞋は目の枠いっぱいに目をむき出すこと、かっと目をむくこと。瞋恚(しんい)(ほむら)などという。

私心私欲で腹を立てる、神経を尖らせるのを瞋という。これは最もいけない。世界最古の医書といわれる「素問霊樞」の開巻第一頁に上古天真論というのがある。そこで人間

のあらゆる病気の一番悪い原因は怒りだということを説いている。それがアメリカの医学者によって究明されて、我々の息を冷却装置の試験管に入れたら息のカスができる。その息のカスの中の凶悪犯人の息をとって調べたら栗色のカスができて、それをモルモットに舐めさせたら頓死した。その毒を調べると、アメリカのあらゆる薬局の毒素の中で一番猛毒だったという。お釈迦さんもそれをちゃんと知っておられたと見えて、食欲の次に「瞋」ということを説かれている。(禅と陽明学)
11日

快感楽易(らくい)

本当に人間はつまらんことに、ことに自分の欲望や感情から、私欲私情から腹を立てるということくらいよくないことはない。

そういう人間というものは、まあ非常に微妙なものでありまして、心を練る。そして退屈しないで、無心になつて仕事に打ち込むということは、非常にいいことである。人生の一つの秘訣である。

と同じように、くよくよするということは、大変エネルギーの消費になるばかりでなく、人間そのものを暗くする。血液も従って暗くなる、よどむ。これに反して笑みを含む。しゃっちゅう笑みを含んだ楽しさ、愉快、快感というものを「快感楽易」(心地よく、楽しく、安らかであるの意)という。これを失わんようにする。いつも笑みを含むということはいいことだ、「くよくよせず、いつも笑みを含んで」あれ。(心に響く言葉)
12日 抱一(ほういつ)無難(ぶなん)

我々の肉体も「一を抱いて離るるなし」(統一を保って分裂しない)、抱一無難でなければならぬ。我々の精神も、知性・意思・感情などが渾然(こんぜん)「一を抱いて離るるなからんか」(統一を保って分裂しなければ)、その人格は円満です。これらが分裂して来ると、その程度に従って、雑駁(ざっぱく)、偏向から精神分裂・人格破産となるのです。

ちょっとあいつは変だなと言われる者の何と多いことでしょう。理屈っぽい、激し易い、ひねくれている。感情ばかりで理性がなかつたり、非常に慾の皮がつっぱっているなどというのも一つの偏向であり、そうなって来ると、人間として変態であります。生命の真の姿から離れるものであります。世界は自己という小なるものから、大にしては、宇宙に至るまで、無限の調和から出来ている。調和・大和(だいわ)、これが宇宙人生の本然(ほんねん)の姿ですが、その調和・大和は言い換えれば抱一無難であります。
(東洋学発掘)
13日 友達 人間というものは一つには自然の存在でありますから、自然の法則にも支配されるので、我々の精神や生活が単調になりますと、物の慣性、惰力と同じ支配を受けまして、じきにエネルギーの活動が鈍ってくるのであります。つまり人間が(つま)らなくなってくるのです。眠くなってくるのです。それを防ごうとするならば、就中(なかんずく)やはり良い師友(しゆう)、良い先生や友達を持つ、つまり交際に注意するということが第一です。 毎日見馴れておる顔をみて、定りきった話をして、定りきつた生活を繰り返しておるために、だんだん無内容、無感激、いわゆる因習的マンネリズムというものになってしまう。出来るだけ生活内容を異にした友達、交際をもつ。つまりなるべく広く味のある、変化に富んだよい交友を豊かに持つという心掛けがまず第一に必要なのであります。我々の仕事は案外思いがけない示唆によって活気を与えられる。思いがけない人から思いがけない話を聞いて、その話が思いがけない影響、示唆を与えるものなのであります。(暁鐘)
14日 尽力 研究する、(きわ)める、その中に含まれているものを(あま)すところなく把握することが「尽」である。我々の心も研究すれば研究するほど神秘なものであるが、その心というものを遺憾なく究明する、解明することを尽心(じんしん)という。尽力という言葉がある。「はい。尽力いたします」などと、みな何げなく使ってい るけれども、これはたいへんな言葉である。尽力というのは、力を尽くす、ありったけの力を発揮することをいうのであって、ちょっぴり手を貸すというのは、尽力ではない。やかましくいうと、尽力ということは容易に言えない、大変なことである。真理を学ぶとか、道を修めるとかいうことは、自分の与えられた心というものを遺憾なく究明し、発揮することである。(知命と立命)
15日 退屈 我々は退屈するということは案外いけないことなのです。我々が働くことによって消費されるエネルギーよりも、退屈することによって消費されるエネルギーの方が大きい。退屈するということは非常に疲れることであり、毒なことであるということが、最近、医学的にはっきり実験、証明されております。だからその意味においても、我々は退屈してはいかん。あくまで,(びん)敏求(びんきゅう)敏行(びんこう)でなければならぬ。 昔から四耐(したい)ということがあります。四つの忍耐、
一つの冷ややかなることに耐える、人生の冷たいのに耐える。
第二は苦しいことに耐える。
第三は煩わしいことに耐える、この
(かん)、退屈に耐えるということが一番難しいことです。「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす」というのは名言であって、そこで退屈せぬように、とにかく自分が日常絶えず追求すべき明確な目標を持ち続けておるということです。
(暁鐘)
16日 先孝(せんこう)先妣(せんぴ) 死んだ父親のことを先孝(せんこう)と言う。これは「考える」ということと同時に「成す」という意味を持っている。何故亡き父を先孝というか。親父が亡くなってみると、あるいは亡くなった親父の年になってみると、なるほど親父はよく考えておった、と親父のしてきたことがはじめて理解できる。人間は考えてしなければ成功しない。考えてはじめて成すことができる。孝成(こうせい)という語のある所以(ゆえん)です。 と同様に死んだお母さんのことを、先妣(せんぴ)という()という文字は配偶、つまり父のつれあいという意味と同時に、親しむという意味を持っておる。母というものは、亡くなった母の年になってみてはじめて親父の本当のよき配偶であった、本当にやさしく親しめる人であったということが解る。いわゆる恋愛の相手とは違う。本当の女性、母・妻というものは亡くなった母の年になると解る。
(人間学のすすめ)
17日 長所・短所 日本という民族に優れた長所がある。長所があればもちろん短所があるが、この長所、短所というものも相対的なもので、それは相対立すると同時に相待つものである。元来、自然と人間というものは非常に複雑微妙にできていて、長所と短所は別のものではない。 たいていは一つのものであり、表れ方が違うだけけである。まかり間違うと長所が短所になる。うまくやると短所が長所になるところに大変微妙なものがある。その短所を長所にするのは何かというと、教学の力である。教えを学ばないと折角の長所も短所になつてしまう。
(続人間維新)
18日 トントン拍子は衰えの始まり 人間というものは、トントン拍子に伸びていった時が、まず衰えの始まり。換言すれば、いい気になって、昔を忘れて、ぽつぽつと忠言を聴かなくなる。その最も堕落の始まりは、美酒嬌娃(きょうあい)(なまめかしい美人)に親しんでその努めを怠ったり、道を聴くことを忘れたりすることだ。 わずかばかりの地位名誉財産、わずかばかりの知識技術学問なんどというもので、もういい気持ちになつて、善言に耳を傾けない。真理を追究しない。道を聴かない。一かど自分が出来たつもりでいい気持ちになる。そうしてつまらない混濁した情欲だけになる。恐ろしいことだ。
(運命を開く)
19日 急速な成功は危険 人間というものは、出世や成功、あるいは利財というようなものでも、食物の腹八分目と同じように、せいぜい八分目くらいに成功しておくのが、一番理屈に合っている。柄にもなく成功するなんていうのは最もいけないことだ。文明でもそうです。メガロポリス、エキュメノポリスの都市文明、恐るべき公害をほしいままにしながら、市民を惨憺たる破滅に導いておる近代 大都市を無反省に、急速にまねをし、野や畑をぶち壊して死の都を作り上げ、大変なスピードで発展してゆく現代文明というものは行き過ぎである。できるだけこれに制約を加えて、恐るべき文明の急速度の蔓延を是正しないと、民族の恐るべき破滅に突進する、ということはもはや現代のあらゆる先覚者・碩学が肝を冷やしておる事実である。大にしては文明のあり方、小にしては我々の体の持ち方、心の持ち方、すべてそうであります。(人間維新)
20日 若くして高華は不幸

年の若いのにどんどん上へあがる。世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。というのは修練というものを欠いてししまうことになるからで、これは不幸である。今日は選手万能の時代で、野球とか、歌舞とか、若くしてできる者にわいわい騒ぐ。これは当人にとって大きな不幸であります。小娘がちょっと歌や踊りができると、やれテレビだと引っ張り出して誇大に

宣伝する。つまらない雑誌や新聞がそれをまたでかでかと報道する。変態現象というか、実に面妖(めんよう)なことで、決して喜ばしい現象ではないのであります。というのは、人間でも動物でも、あるいは植物でもなんでもそうでありますが、本当に大成させるためには、長い間の年期をかけた修練・習熟というものが()るのであります。インスタントにでき上がるものではない。
(人物を見る)

21日 単なる批判的な知性 人間が発展するのは煩瑣(はんさ)なイデオロギーなどではないので、永遠の理想精神に燃えあがらなければ発達しない。華厳(けごん)の哲学に焔慧(えんえ)という言葉があります。 冷静な知では駄目でありまして、人格の情熱、理想の(ほのお)に燃えて出てくる智慧でなければ、人間を救うことができない。単なる批判的な知性では人間をどうすることもできない。
(人物を創る)
22日 学問修養の九段階 学問、修行の初めは、まだ垢抜けない、これを野人の()という字で表す。それがしばらくするとこなれてくる。これを(じゅう)という。一年にして、二年にして。そうなりますと次第にゆき詰まらなくなる。進歩する。これを(つう)という。三年にして。そして四年にして、((ぶつ))、つまり日本語でいうと(もの)になる。学問的にいうと物は、法という文字に通ずるのでありまして、野、従、通と順を経て進みますと初めてきちんと形ができる。つまり法則が立ってひと通り人間が出来る。 そうすると五年にして((らい))。これは新たなるインスピレーション・霊感が出でくることであります。そうすると、それまでに見られなかった神秘な作用がでるようになる。これを鬼入といいます。鬼は悪い意味ではなく、神秘的という意味です。つくり六年にして鬼入、そうすると七年にして天性、つまり人間のくさみ、癖というものが抜けて、自然の姿が出てくる。そこで八年にして、死を知らず、つまり。生を超越する。そうなると最後に、九年にして大妙なり、妙は真に通ずということであります。
(易と人生哲学)
23日 私淑ということ 現代にいなければ故人でもいい。それには伝記を読め。伝記を読むのはいいが、伝記を書いた人によつては、あまりよくない伝記もあるから、その人の著書を学べ。 書いたもの、作った詩・和歌を読まなければいけない。まず原典を読むことを心がけなければいけない。一部を抜粋してようなものではいけない。大部の書を通読しなければいけない。
(安岡正篤に学ぶ人物学)
24日

人間的妙味

もし後世史家の中に現代政治家の人物言行を伝纂しようとする者があるならば非常に困るであろう。現代人は概して信念、情操、識見、気節、風格、言行というような人物の要素には重きを置かず、経済問題と法令制度、組織機構の点を主として、人間をこれに従属せしめ、さながら社会という大工場に働く機械的労働者か、事務員や技術者並みにしか評価しない。故に形式的な出身学校関係、法定資格、社会的閲歴というような

皮相な点からのみ人を観察して、人物の真骨頂に触れない。それで現代の人物はおのずから機械的で、人間的妙味に乏しく、現代の評壇に人物評論というものがない。あってもほとんど低級俗調、見るに堪えぬものが多い。今日の機械的政治が行き詰まり、世が乱れるに従って、真の創造力を持つ活きた人物が要求せられるようになり。殊に教育問題がその時勢にふさわしく革新せられてくれば、やがてまた人物も出るであろう。
(東洋宰相学)
25日 至善は「柔和」 至善(しぜん)の特徴と思われる風光(ふうこう)虚明(きょめい)である、柔和である。その中に無限の力が充実して、親炙(しんしゃ)する者に不可思議な敬虔(けいけん)の念を覚えしめる。剣道などでも達人になると、いかにも身心(しんじん)脱落(だつらく)して虚明(きょめい)である。そして木の端のようにぎこちない振舞いや、すぐに腰の物を(ねん)(ろう)したがる殺気(さっき)が失せて、 (すこぶ)る柔和になる。手合わせをしても、下手の剣術はガサガサとささらを揉むように硬いが、上手の太刀は柔らかくてどっしりと千鈞(せんきん)威重(いじゅう)がある。何かにつけてかくのごとく脱落してこなければ真でない。詩でも、書画でもその通り、道徳も、政治も、宗教もこの理に洩れぬ。真に「大学」の「止を知って後定有り。定にして後能く静。静にして後能く慮。慮にして後能く得」という通りである。(儒教と老荘)
26日 本当の偉人 えらい金を作った大実業家とか、大政治家とか、それは成功者というのであって、偉人とは関係がない。少し長い目で歴史的に見てくると、本当の民族の価値、民族の権威というものは、いわゆる成功者によってはほとんど築かれていない。試みに明治以来今日に至るまで、本当に日本人の胸に偉大な感激をもって刻まれておる偉人という者はどこにいるか。 偉大な権威を振った大政治家、総理大臣なんていう人は沢山おったけれども、今日ほとんど名前も知らんだろう。大臣には依然として今日でも人がなりたがるし、郷党の人はちやほやする。しかしそういう大臣の一体誰が日本民族の魂に感動を与えるような印象を留めたか。本当の偉大な人、民族の生命、民族の代表、権威といったようなものは、現実においてはほとんど無名の人の中におるものです。それを養うことが民族の永遠の生命に関することだ。(人間維新)
27日 徳性 徳性というものは、樹木でいうと根幹のようなものである。根幹には花や葉が着かぬ。しかしながら、それは直に青天を(ささ)げて立ち、無数の枝を派生して、そこに花を咲かせ葉を茂らせる。根幹はつまり万化(ばんか)の根源たる創造者である。近代人は、やれ英語ができるとか、ドイヅ語ができるとか、劇に通じておるとか、法制に詳しいとかいうことを第一義のことのように大切がるが、それは美しく咲いた花や瑞々しい葉のようなもので、根幹ではない。 それだけでは別段価値のないもので、根幹から生まれ出て始めて価値がある。花を一つ葉を一枚ちぎって(ほう)り出したのでは、造葉造花の方が便利かもしれない。花や葉を抱いて根幹を(わす)れた者は、一朝にして顔色変ぜざるを得ないであろう。会話の上手な、フランス語も読める、文芸通の娘を、()めるのは好い。何も知らないが、機嫌よく娘の着物でも縫って間違いなく家庭を治めてゆくその母親よりも娘を進歩しておるなどと思うのは、とんでもない近代的錯誤である。(儒教と老荘)
28日 道徳の源 道徳というものは普通、徳目として、即ち形式的に考えるのであるが、そういうものは道徳ではない。道徳の根本、道徳の源というものは「誠」である。誠とは何かというと、これは「造化(ぞうか)の純粋な持続」である。教育というものは、聖人の教えと言うものは、従って、道徳というものは、人間をして自分で自分の悪、悪とは何かと言えば、天地自然の真理に違うことである、天人一貫する法則に反することである。 自らその悪を()えて、天人一貫の法則、真理、これあるによって、万物が生成(せいせい)化育(かいく)していく、つまり進化してゆく。これが(ちゅう)である。純粋持続である。その(ちゅう)に至らしむのみ。即ち本流から離れた人間を本流に、レールから脱線したものをまたレールに帰してやる。これが教育である。そうして動いて正しいのが「道」である。これを使って物事が統一合体してゆくのが「徳」である。用いて和するを徳という。(禅と陽明学)
29日 礼の本義 最近の人たちは、なぜ互いに礼をするかということの意義を知らぬようであります。頭を下げて礼をするのは相手の人のためにするのだ、と大部分の人は思っておる。しかし、それは大違いでありまして、礼というものは、相手にすると同時に自らが自らに対してする、というのが本義であります。その礼は敬の心から生ずる。相手を敬すればこそお辞儀をする気持ちになるものです。人間と他の動物との

限界線はどこにあるかということをつきつめてゆくと、結局この敬の心に帰する。よく「愛」だというのでありますが、愛だけならば、他の動物も多少はみな持っておる。人間である以上、愛は愛でも敬愛でなければいけません。「論語」に「敬せずんば何を以てか分たんや」というてありますが、敬の心は人間に到って初めて生じた感情であるばかりでなく、その敬によって人を敬し、己を敬することによって、初めて人間は自他共に人間となるのです。
(人物を修める)

30日 平和と幸福は

「夫は妻に」
@
愛して礼を失わず。
A自ら良心に
(そむ)くべからず、
B家事を委付す
(まかせる)
C家祭を忘れず。
D
(とも)清話(せいわ)を楽しむ。

「妻は夫に」
@先んじて起く。
A後れて
()す。
B和言す
(なごやかにもの言う)。C意に先んじて(むね)()く。
D道を聞くことを好む。

31日

「親族に」
@随時、物を贈る。
A事無くして
偶々(たまたま)訪れる。
B小言を
(ゆるがせ)にせず。

C退いて怨誹無し(陰にまわって怨み言や悪口を言わない)

D有事相
(すく)う。