第二章           女王・卑弥呼と邪馬台国の謎 

       「日本」の出発点
平成24年6月

1日 旧石器・中石器時代の確認

まず日本の国家が誕生した時代のことについて、文献から離れて考古学などの実証資料に基づいた方面から話を始めたいと思います。私自身は考古学の専門家でありませんので、考古学的な事物の羅列ということではなく、

それらを基にして、それを日本の歴史の中にどう反映したらいいかという点を主として話していきます。

2日

戦前までは、日本には旧石器時代が存在しない、日本の文化は新石器時代の縄文文化からであるというのが定説となっており、我々も子供の頃から日本では縄文文化が最初であると教えられてきたわけです。

処が、戦後になって旧石器文化、(いわ)宿(じゅく)文化といわれる旧石器の発見によって一挙に日本に旧石器時代が存在したということが定説となってきたのです。
3日

それによって日本の歴史も旧石器時代から始めなければならなくなり、今日では「旧石器時代」、それに続く「中石器時代」という石器だけの文化の時代、やがて中石器時代の終りの頃に土器の文化が出現し、それを基盤として「新石器時代」、いわゆる縄文文化と言われる時代が訪れるというように大きく学説が変わってきています。

そこで、今ここでは旧石器時代や中石器時代の詳しいことは考古学の方面に委ねるとして、主として縄文時代以後の時代について考えていきたいと思います。

4日

漁撈・採集の縄文時代

縄文時代は、縄文土器と呼ばれる新石器時代の土器を基本とした文化が見られる時代です。石器としては打製の石器と磨製の石器が使用されました。然し、まだなお金属器は姿を現さない時代であるという特徴があります。縄文文化は、全体として見ると、

その文化の担い手である縄文人が初め日本の北の方にその中心を置いていたのですが、時とともに次第に西の方へもその文化を波及させていったという傾向が見られます。

5日

古仙台湾とか古東京湾といったような太平洋岸の海岸地域に縄文文化に一指標である貝塚が広く分布し、発展していたまので、縄文文化は中心を北日本あるいは東日本の海岸地帯に置いた文化であることはほぼ明らかです。そして貝塚を伴う文化であるということから、まず漁撈を基本とした文化であることがわかります。人類史的な視点でみれば、北アジアの中石器文化の系統を引くと考えてよさそうです。

つまり、初期の縄文文化は、漁撈ないし狩猟を主としていましたが、やがて採集の技術も発達し、それらを基本として生活の安定した採集経済の段階に入っていた文化であると見ることができます。

原日本人の固有文化

縄文時代の遺跡は貝塚が主体となりますが、その貝塚の分布は、日本列島の北部-東北地方から関東地方の太平洋岸が中心となり、列島の西部に行くに従って次第に希薄になる傾向を示しています然し、縄文時代のごく初期から、日本列島のほぼ全域に亘って分布しており、縄文文化は全日本的な文化だったと見られます。

それ故、縄文文化は、「日本人の祖先の文化」であると言ってよいでしょう。

6日

日本人の祖先、私はそれを「原日本人」と名づけています。縄文文化は、その原日本人が持っていた、恐らく北アジアの地域から伝えられた北アジア的寒流系漁撈文化を基調とした文化であったと見られます。この文化は、余り他の異文化の影響を受け入れることが少なく、日本列島内で独自の発達を遂げた、停滞性の強い、固有の文化であったろうと考えます。

というのも、縄文文化は新石器時代の文化ですが、世界的に見ると、他の先進文化地域でみられるような農耕の開始が明確に見られないからです。

7日

新石器時代というと、VG・チャイルドは、「新石器時代革命」という言葉で呼んでいます。然し、わが国の縄文文化は、まだ農耕文化、即ち生産経済の段階に入ることは出来ず、終始、採集経済の段階に留まっており逆にそれが特徴となっているのです。そして縄文時代の初期においては、

基本的に群社会から出発した原始共産体の無階級社会ではなかったかと考えられるのです。言うまでもなく、これは他の新石器文化が農耕の発達と共に階級社会を形成していったのと対照的なわけです。

8日 縄文時代
縄文土器が使用されていた時代。日本列島で人類が土器・磨製石器、弓矢の使用を開始した時代で、紀元前後まで数千年間続いた。
 

縄文土器 日本の石器時代に製作・使用された土器。土器の一部に、撚紐を押し付けた縄目文様が見られることから、この名称がつけられた。 

貝塚 
先史時代、人が捕食した貝類が堆積して層をなしている遺跡。
 

新石器時代
 農・牧畜による生産経済の段階に到達し、人類文化の革命的転機と見られる。
VG・チャイルド

1892-1957、イギリスの考古学者。



農耕
主に(くわ)を用いた農耕、または農業のこと。
(どう)耕作(こうさく)には、ジャガイモ、甜菜などが
ある。わが国の稲作も(どう)(こう)に類似作とされる。
9日

国家形成の序曲

農耕がもたらした母系性社会と定着生活

縄文文化中期になると、初めて(どう)(こう)と称されるごく始原的な農耕が開始され、縄文社会にも変化が起こります。

例えば、人々の集団は、はじめ父系性の集団であったのが次第に母系性の集団へと変化してゆきます。また、(どう)(こう)の開始とともに移動的生活を続けていた人々も定着生活を始めるようになります。

10日

縄文中期から集落も規模を拡大し、多数の共同作業による集団狩猟法も発達して、集団の許容人口数も次第に増加したことが遺跡の上からわかります。

また、この(どう)(こう)の開始については、西日本地域から伝播してくる異質の文化の受容も考えるべきでしょう。

11日

中期以降の縄文文化の中には、東南アジア系の文化の伝播が窺われるようになります。それは、(どう)(こう)ちとともに母権社会的な要素が加わり、さらに漁撈においても、それまでの北アジア的寒流系漁撈文化のほかにもたとえば中期までの貝塚でき見られなかったアワビ貝が出土するようなことに代表される、文化の変容に表れています。

アワビ貝の出土などは、後の海女による専業的な漁法とされる潜水漁撈法の最初の伝播を思わせるものです。

12日

この潜水漁撈法は、主として東南アジア的暖流系漁撈文化の要素であり、こうした点からも東南アジア方面から日本列島に移動してきた種族がもたらした異文化が伝播し、新しい文化の要素が加わったことも考えられるのです。

このように東南アジア系の異質文化の伝播によって、僅かずつ縄文文化に変化が現れてくることも見逃せないことで、やがて縄文文化が大きな変化をみせる一因と考えるべきでしょう。

縄文後期となると、西日本の貝塚、例えば(よし)()の貝塚などから、洗骨葬の遺跡と思われるものが発見され、また土器の形も多様化してきて、後の弥生土器への移行を考えさせられるような劇的変化が起こってきます。

14日

水稲耕作と日本の始原国家の出現

縄文時代の(どう)(こう)文化とでも称すべき文化基盤の上に弥生時代の水稲耕作技術を受け入れることによって、漸くわが国にも生産経済の段階に入る時期が訪れます。即ち、原始共産体が崩壊して私有財産を認める階級社会が出現し、その社会的な変革の基盤の上に日本の始原国家が出現してくるわけです。通常、わが国は水稲耕作による生産経済の発達によって出現した農耕国家である

という考え方が一般になされています。私はこうした日本の国家起源論について、あながち全面的に反対しません。もちろん、そのような形体をもって成立した日本の始原国家も存在したことであろうと思います。

15日

然し、日本列島の社会が全面的に水稲耕作を受け入れた金石併用期の弥生時代に入り、初めてチャイルド博士の言うような「新石器時代革命」と呼ばれるのに相応する状況を呈したからといって、農業だけが日本の国家発生の条件であったとする考え方に、私はいささか異論をもちます。

単に水稲耕作を受け入れることによってのみ、わが国に国家が発生してきたのではなく、それまでの縄文文化の中にも重要な国家発生の要因が含まれていると考えるべきだと思うのです。

16日

水稲文化、金属器文化という新しい文化要素が、いずれもみな外来文化として大陸から日本列島へ、種族的・文化的に伝播してきたものであるという従来の考え方に対し、私は、日本にその文化が普及したのは縄文文化の荷担者である原日本人自身によるものであったと考えます。

それ故、私は日本国家の発生の主動因も、それ以前の文化的。社会的基盤の中に見出されるべきであろうと思うのです。

17日 吉胡貝塚 
愛知県渥美郡田原町大字吉胡にある縄文時代の貝塚。後期・晩期の土器・石器のほか、埋葬人骨を340体以上発見。屈葬・甕棺葬や貝製腕輪・腰飾りをつけた埋葬例
洗骨葬
遺骸を一定期間保存し、後に改葬する葬法。
18日 日本人の祖先

縄文文化は原日本人の文化
戦前までの日本の縄文文化に対する考え方の中で、縄文文化は日本人の祖先の文化ではない、言い換えればアイヌの人々の祖先の文化である、という考え方がありました。そして弥生時代に頃になって、大陸からツングース系の種族が渡来し、先住民族としてのアイヌの人々とその文化が駆逐されて新たに日本人の文化が成立した、という考え方が唱えられてきました。こま考え方によれば、縄文文化は日本の文化とは全く関係なく、大陸から渡来したツングース系の種族こそ日本人の祖先であるということになります。 然し、それに対して私は、縄文文化を担っていたのは原日本人自身であったと考えているのです。

それでは、その原日本人とは何か。

私は次ぎのように考えます。
19日 旧石器時代や中石器時代の洪積世(こうせきせい)(200万年前から1万年前迄)の時代、大陸と繋がっていた今の日本列島の地域(それを日本列島域という名前で私はよびま)に、 大陸の北方から原モンゴロイド=古シベリア族と言われる種族の祖型人種と見られる一群の人々が入ってきていました。
20日 日本人の祖先、縄文文化を築き、その後の日本国家の基礎を用意した原日本人、それは遥か洪積世に、道無き道を、恐らく気の遠くなるような時間をかけ、幾多の艱難を乗り越えてこの日本列島域にやってきた種族を祖先とする人々にほかなりません。
21日 ツングース 
シベリヤのエニセイ川からレナ川、
ムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布するツングース諸語を話す民族の総称。
モンゴロイド
黄色ないし黄褐色の直毛状の頭髪とを主な特徴として分類され、眼瞼の皮下脂肪の厚いこと、蒙古皺襞、乳児に蒙古斑の頻度が極めて高いことなども特徴となる。

10講 縄文時代は貧しかったか

22日

豊かな縄文文化

(どう)(こう)と狩猟採集生活

縄文中期以降の(どう)(こう)民の文化は打製石器を中心とした石器文化を展開させています。打製の石器には石斧と言われるものがありますが、その(せき)()が中部山岳地帯から関東地方にかけて爆発的な出現を見せているのです。それらの石斧は主に(どう)(こう)用に使ったとみられ、(どう)(こう)すなわち球根の採集や、栽培に用いたり、或は原始林の伐採や耕地の開拓に斧や(くわ)のように使ったものと推定されます。

石器は通常、平たい石の一端を直線的に削って鋭利性をもたせただけの非常にシンプルな石器です。ただ、こうした単純な道具ではあっても、食糧獲得術の上に大きな変化を及ぼし、食生活の多様化と安定性の強化とによって、社会の発展に大きく寄与したことは間違いありません。

23日

然し石斧の大量出土は確かに(どう)(こう)の普及による定着、集団生活の拡大を示唆しますが、その事は必ずとも縄文人たちが直ちに狩猟生活を止めて農耕生活に移行したことを意味するものではありません。

言い換えれば、狩猟採集生活より農耕生活が著しく優れていた為、縄文人がその基本的生活パターンを農耕民のそれへと変えていったというわけではないのです。
24日

寧ろ、(どう)(こう)が加わったことによって、狩猟採集生活がより豊かになった、即ち主たる生活手段である狩猟採集に対して(どう)(こう)は従

たる生活手段として縄文人の生活に多様性と豊かさを加味するようになったと見られるのです。
25日

豊かな食糧事情

縄文時代の遺跡はゆうに1万を超えると言われます。そして注目すべきは、その遺跡の8割ほどが落葉広葉樹林に集中していることです。中部関東地方から東北地方、さらに北海道西部の落葉広葉樹林に集中しており、縄文文化は気候的には寒冷の地方に栄えたということになります。

何故に南の地方ではなく、一般に厳しい環境と思われる寒冷の地方を縄文人たちは生活の場として選んだのか。当然、そうした点が疑問になります。

26日

常識的には、南の方は自然が豊かであり、北の方は自然が厳しい、したがって寒冷の地を中心とした縄文文化は貧しく、未開の文化であると考えられるかも知れません。然し、事実はその逆です。当時の極めて少ない人口密度を前提に考えると、日本列島内においては落葉広葉樹林帯ほど豊かな食生活を保証してくれる地はなかったのです。

一般に南の地、例えば九州とかが豊かであろうと思われるのは、その温暖湿潤の気候が稲作栽培に向いているからです。
27日

--30日

然し、水稲耕作の技術もない時代においては却って九州などの地は食糧事情が貧弱だと言えます。なぜなら、そうした地の常緑広葉樹林は木の実の量においては落葉広葉樹林帯のそれの何分の一しかないからです。つまり、耕作技術のない狩猟採集民である縄文人にとつては、常緑広葉樹林帯は労多くして得るものが少ない貧しい地にほかな

らず、それに対して落葉広葉樹林帯は木の実をたやすく得ることができ、しかも鹿や猪などの動物も豊かで、川には鮭・鱒などが溢れている実に理想的な生活の場だったと言えるのです。