佐藤一斎「(げん)志後録(しこうろく)」その十四 岫雲斎補注  

平成24年6月1日から6月30日 

1日 112

不苟(ふこう)不愧(ふき)

不苟(ふこう)の字、以て()(すくな)くす可し。

不愧(ふき)の字、以て(きゅう)に遠かるべし。
 

岫雲斎
事を為すに、かりそめにしないと云う不苟(ふこう)の字を以て当たれば失敗は少ない。()(ぎょう)天地に恥じずの不愧(ふき)の字を以て身を持すれば、他人からの咎めを受けることは少ない。

2日

113.

天地の基本は情

古往(こおう)今来(こんらい)(いっ)(かい)(かん)輿()は、皆情の世界なり。感応の()(ここ)に在れども、而も公私有り。政を為す者宜しく先ず其の公情を持して以て物を待ち、人をして各々其の公情を得しむべきのみ。然れども私情も亦(じょ)として達せしめ(さわり)無かるべき者有り。事に臨み其の軽重を酌みて可なり。 

岫雲斎
(堪は天の道、輿は地の道のこと、総称して天地・世界を言う。)

天地の本質は人間の情の世界である。人と人の相感応する微妙なる機微もこの情に基づくものだ。情には公と私がある。だから、政治を為すものは、公私の別を明快にし物や人に対しては先ず公の情を得しめさせるの要がある。私の情も許容しなくてはならぬものもある。だから政事をやるに当りこれらの事の軽重をよくよく勘案して処理しなくてはならぬ。 

3日 114.

「大学」は総て情の解説
大学は、誠意に好悪(こうお)を説くことにより、平天下に(けっく)を説くに至る。中間も亦忿?(ふんち)四件、親愛五件、孝弟慈(こうていじ)三件、()べて情の上に於て()(かい)す。 

岫雲斎
大学という書物は、個人の誠意と情、心の動きを説くことから始め、一家を治め、天下を治めること、また己の心を以て他人の心を量るようにすべき事まで述べている。その中間では、人間の感情に関して四件、即ち憤り、懼れ、好楽、憂い、親愛について五件、即ち親愛、賎悪、畏敬、哀矜(あいきょう)傲惰(ごうだ)、及び孝弟慈三件を説いているが総て情を葉本として理会し得るとしている。

4日 115 

聖人の情

聖人は万物に(したが)いて情無し。情無きに非ざるなり。万物の情を以て情と為すのみ。 

岫雲斎
聖人は万物に対して、愛するとか憎むとかの情は持たない。本当に情が無いのではなく、万物の情を以て情としているのである。

5日

116.

人は好む所を話す

人は多く己れの好む所を話して、己れの(にく)む所を話さず。君子は善を好む。故に(つね)に人の善を称し、悪を(にく)む。故に()えて人の悪を称せず。小人は之に反す。 

岫雲斎
多くの人間は、事の善悪を離れて自分の好きな話題を採りあげて自分の嫌いな話は避けるものだ。君子は、善を好むから常に人々の善を賞賛し悪を嫌う。君子は人の悪を指摘する。小人はこれに反して人の悪を話し善を褒めないものだ。

6日 117.

人情と天理
()う可からざる者は人情にして、欺く可からざる者は天理なり。人皆之を知る。蓋し知れども而も未だ知らず。 

岫雲斎
人の知っていることだが、いつわる事の出来ないのは人情、欺くことの出来ぬのは天理である。だが実際にはこれに反することが多い、うわべだけ知っているだけで本当の事を知らないのである。

7日 118. 
外見を(てら)勿れ

門面(もんめん)を装うこと勿れ、家とうを(つら)ぬること勿れ。(しょう)(ぱい)を掲ぐること勿れ。他物を仮りて以て誇衒(こげん)ること勿れ。書して以て自ら(いまし)む。 

岫雲斎
門とか構を飾るな。家具家宝を自慢そうに並べるな。看板を掲げるな、他人の物を借りて誇りを衒うな。これらを書いて戒めとせよ。

8日 119.         

学問は自分の為にせよ

弊を()むるの説は、必ず()た弊を生ず。只だ当に学は己れの為にするを知るべし。学は己れの為にするを知る者は、必ず之を己に求む。
是れ心学なり。力を得る処に至れば、則ち宜しく其の自得する所に任ずべし。小異有りと雖も、大同を害せず。
 

岫雲斎
物事には色々と弊害があるが、それを矯正しようとすると別の弊害が出てくるものだ。学問は自分の為にするものである事を明快に知らねばならぬ。それが分かっている者は必ず弊害の矯正を自分に求める、それが心を修める学問なのである。この矯正力を会得できる境地に達したならば、己の心の悟る所に任せてよかろう。さすれば、小さな違いはあっても大きな差支えはないものだ。

9日 120.   

修養の工夫

(ごん)(はい)の工夫は、(しん)其の室を守る。即ち敬なり。即ち仁なり。起居食(ききょし)(そく)、放過すべからず。(くう)に懸け影を(とら)うるの心学に非ず。 

岫雲斎
精神統一して忘我の境地に入る、即ち(ごん)(はい)の工夫は、霊性を以て自己の本質を守ることに在る。形式的に言えば、つつしみ()であり、なさけ()である。起居、飲食、休息など全てに於て、心を見つめて放さないようにする事がポイントである。これが精神修養の工夫の核心である。架空の議論や影を捕えようとするような心学ではない。

10日 121. 

学の工夫

虚羸(きょえい)の人は、常に補剤を服せり。俄に其の効を覚えざれども、而も久しく服すれば自ら効有り。此の学の工夫も亦猶お是くのごとし。 

岫雲斎
身体の弱い人は常に補強剤を使用している。この薬は飲んで直ぐには効果は有るものではないが、長く飲んでおれば自然に効能がある。聖賢の学の工夫も、これと同じである。急に効果はなくても絶えざる努力を続けておれば進歩してくるものである。

11日 122.         

名利は悪いか

名利(めいり)は、()と悪しき物に非ず。但だ()()(わずら)わす所と為る可からず。之を愛好すと雖も、亦自ら格好の(ちゅう)を得る処有り。即ち天理の当然なり。凡そ人情は愛好す可き者何ぞ限らむ。而れども其の間にも亦小大(しょうだい)有り。軽重有り。能く之れを(けん)(こう)して、(ここ)に其の中を得るは、即ち天理の在る所なり。人只だ己私の累を為すを(おそ)るるのみ。名利(あに)に果して人を累せんや。 

岫雲斎

名や利はもとより悪いものではない。自分の為にしてはいけないのである。誰も名誉や利益を愛するものではあるが、自分に適したほどほどの処が良い、それが天の道理に叶うのである。人情として名利を愛するには限りがないものだ。だが、それにも大小があり、軽重がある。これらの釣合いをよく考え中庸を得たものであれば天の理に適うと思われる。人によれば、ただ名利が自分に災いするのを恐れているが、名利がどうして災いを人に及ぼすものであろうか。

12日 123.         

山と水の用

山は実を以て体と為して、而も其の用は虚なり。水は虚を以て体と為して、而も其の用は実なり。 

岫雲斎
山は岩石や樹木などの実体があるが山の働きというものは別に無い。水はこれが実体というものはないが、その作用は色々と広く正に実がある。

13日 124.       

  
山岳も昼夜をおかず

山岳も亦昼夜を()かず。川流(せんりゅう)も亦寂然(じゃくぜん)として動かず。 

岫雲斎
どっしりとしている山岳も昼夜を問わず作用している。川の流れは昼夜を問わず動いているようだが、川自体は寂然として動かない。静中の動、動中の静の教えであろう。

14日 125.

感と(せき)

感を寂に(おさ)むるは、是れ性の情なり。寂を感に存するは、是れ情の性なり。 

岫雲斎
これも静と動二面の修養の謂いであろう。動いてやまぬ心の感情、これを静寂不動に収斂するのが性からくる情の作用、反対に静寂を感情の中に持つは情の作用の中の性の現出と見る。

15日 126.         

胸中物無きは

胸中に物無きは、虚にして実なるなり。万物皆備わるは、実にして虚なるなり。 

岫雲斎
胸中に物が少しも無いのは、そこに真理が満ちていることであり虚にして実と言える。万物皆我に備わるとは孟子の言葉だが、これは実にして虚の謂いである。「無一物中無尽蔵」のことか。

16日 127.         

知と行

知は是れ行の主宰にして、(けん)(どう)なり。(こう)は是れ地の流行にして、(こん)(どう)なり。合して以て体躯を成せば則ち知行(ちこう)なり。是れ二にして一、一にして二なり。 

岫雲斎
人間は知と行の二つ作用を持つ。知は行を司るから天道である。行は知から出たものであるから地道と言える。この二つが合して我々の体を形成している。知って行われなければ理に適った行ではない。行っても知を検証しなくては本当に知ったことにならぬ。知と行は二つにして一つなのである。

17日 128.         

静坐の工夫

孔子の九思(きゅうし)曾子(そうし)三省(さんせい)、事有る時は是れを以て省察し、事無き時は是れを以て存養し、以て静坐の工夫と為す可し。 

岫雲斎
精神修養に孔子は九思、曾子は三省を挙げた。我々もこれらにより事ある時は省察し、事無き時は静心を失うことの無きよう、自己の本性を養生し静坐の工夫をすべきである。

閑話休題

孔子の九思について

論語季氏篇、君子は自己反省の九つの思があるとしている。
@視るには明らかなることを。外物に覆われていても明察すべし。
A聴くには聡明さを。耳を塞ぐことなく聞き逃すことなく。
B色は穏やかがよい。顔色は激しいのはよくない。C容貌、風貌は常に恭しいのが宜しい、怒りはよくない。

D言葉は、心を尽くした真実により行き届いておるべし。
E全ての事の根本は「敬」であり慎み深く過ちのないようにすべし。
F疑いあれば先ず師にそして友に問い解決すべし。G憤怒は身を忘れることとなり困難を招来する。怒るのはよくない。
H得ることがあれば、それは義に適うか、不義かを斟酌して義を執るべし。
曾子の三省に就いて

論語の学而篇、我れ日に三たび、我が身を省みるとしている。
「人の為に謀って忠ならざるか」、
「朋友と交際して信ならざるか」、
「伝えて習わざるか」である。

人の為にして心底を尽くしているか。
朋友には背くことはないか。
師の教えを真に自得することを得たか、
の反省のことである。
18日 129.         

仏教徒は仏書を尊奉(そんぽう)
(じく)()は仏書を尊奉(そんぽう)す。(はなは)だ好し。我が学を為す者、(かえ)って或は経書を褻漫(せつまん)す。()ず可く戒む可し。 

岫雲斎
仏教徒は仏書を尊び大切にしている。甚だ結構なことだ。だが我が聖賢の学徒は却って経書を侮りけなしている。これは恥しいことであり戒めるべきだ。

19日 130.         

読書は心を引き締めよ

精神を収斂(しゅうれん)して、以て聖賢の書を読み、聖賢の書を読みて、以て精神を収斂す。 

岫雲斎
心を引き締めて読書し、聖賢の書を読んで心を引き締める。これが修養の最高の方法である。

20日

131

()ならず、(そう)ならず

静を好み動を厭う、之を()と謂い、動を好み静を厭う、之を(そう)と謂う。躁は物を(しず)むる能わず。懦は事を了する能わず。唯だ敬以て動静を貫き、躁ならず懦ならず。然る後能く物を鎮める事を了す。 

岫雲斎
静を好み動を厭う者を臆病者と云う。動を好み静を嫌う者は慌て者のことである。慌て者の軽躁な人間は事態の鎮定は出来ない。臆病者には事を成し遂げられない。唯だ、慎み深くして動にも静にも偏らず、躁でも()でも無い人物が事態の鎮定を成し遂げられる。

21日 132.

気と精と形
(しん)(そん)の感を気と為し、坎離(かんり)の交を精と為し、艮兌(ごんだ)(ごう)を形と為す。是れ男女精を構うるの理なり。 

岫雲斎
(しん)(そん)、震は易では雷で動、男性の気を示す。(そん)は風であり女性の従順さを示す。この二つが感応し男女の気となる。(かん)は水、離は火、これらが相交わり男女の精を為す。(ごん)は山、()は沢、これらが相合いて形を為す。これが男女が精を構える天理である。易理による自然の法則で性の本能を説明したもの。

22日 133.

水火凝って体躯を為す

人物は水火を凝聚(ぎょうしゅう)して此の体躯を成す。故に水火に非ざれば生活せず。好む所も亦水火に在り。但だ宜しく適中して偏勝せざらしむべし。水勝てば則ち火滅し、火勝てば則ち水()れ、体躯も亦保つ能わず。 

岫雲斎
人間の身体は、水と火の凝集したものである。だから水と火がなくては生活不能である。人間の好むのも又、水と火である。ただそのバランスを良くとり偏らないようにしなくてはならぬ。水が勝てば火が消える、火が勝てば水が涸れてなくなる。
身体はこの二つの調和がなければ保身できない。

23日 134

嗜好品について
酒は是れ水火の合わせるものにて、其の形を水にして、其の気を火にせるなり。故に体躯之れを喜ぶ。(えん)、茶は近代に起れり。然るに人も多く之れを好む。茶は能く水の味を発し、烟は能く火の味を和するを以てなり。然れども多く服す可からず。多く服すれば則ち人を害す。(いわん)や酒に於てをや。害尤も甚し。余は烟、茶(たしな)めり。故に書して以て自ら戒む。 

岫雲斎
酒は水と火との合作物、形は水、気は火のようなものである。だから人間の身体は酒を喜ぶ。煙草や茶は近代に用いられるようになったが、人はこれを好む。茶は水の味を現し、煙草は火の味と和す。然し、多く飲んではよくない、多く飲めば必ず人間を害す、酒が一番は甚だしい。自分は煙草や茶をのけ、だから沢山飲まないように上述を記して戒めとしている。 

24日 135

読書と作文

書を読むには、宜しく(ちょう)(しん)端坐(たんざ)して(ゆる)く意思を()くべし。(すなわ)ち得ることの有りと為す。五行並び下るとは、何ぞ其の心の忙なるや。文を作るには、宜しく意を命じ言を立て、一字も(かりそめ)にせざるべし。乃ち(きず)無しと為す。千言立ちどころに成るとは、何ぞ其の言の()なるや。学者其れ徒らに(ひん)に才人に(なら)いて以て忙と()とに陥ること勿れ。 陥ってはいけない

岫雲斎
読書には心を澄ませ正座して、ゆったたりとした思考態度を持つがよい。さすれば得るものがあろう。世間では一度に五行も読み下すとか言う人がいるがナンセンスで心せわしい人間だ。作文には、よく想を練ってから文字にし、一字でもおろそかにしないことだ。そうすれば欠点の無い文章が書ける。千字の作文を瞬時に出来るとはいい加減な発言だ。学問する者は、徒らに才人の真似をして忙しい読書をしたり、千字の文章なんて容易なものだなどと云う弊害に

25日 136

儒教の静坐
静坐の功は、気を定め(しん)を凝らし、以て「小学」の一段の工夫を補うに在り。要は須らく気の(かたち)は粛、口の容は()、頭の容は直、手の容は恭にして、(しん)を背に()ましめ、厳然として敬を持し、(かなわ)ち自ら胸中多少の雑念、客慮(かくりょ)()(しょく)、名利等の病根の(ふく)(ぞう)せるをそうして、以て之を掃蕩(そうとう)すべし。然らずして徒爾(とじ)兀坐瞑(こつざめい)(もく)して、(がん)(くう)を養い成さば、気を定め(しん)を凝らすに似たりと雖も、(そもそも)(つい)に何の益あらむ。 

岫雲斎
静坐の効能は、気持ちを落ち着かせて精神を凝集して小学(日常の起居動作の学問)の一段の工夫を凝らすにある。要するに呼吸を整え、口元は締め、頭の姿勢を正しく、手の形は恭しくし、精神を背中に置き、厳かに敬虔の念で以て、胸中の様々な雑念など外からの妄想、金銭、名誉、利益等の内心の病根を摘出、除去しなければならぬ。そうしないで徒らに坐って、目を瞑り、頑固な石のような空虚な心でやるのであれば、それは気を定め、心を凝らすに似ているが遂に何の益にもならぬことになる。

 

26日 137

有益な学問
仁義礼智、種々の名色(めいしょく)は、皆是れ本心(てい)()の標目にて、子称(ししょう)有り。処に随いて指点し、(つい)に一()の心体を(かたち)するに過ぎず。即ち是れ我が見在(けんざい)の活物なり。今此の言を()すも、亦此れ()の物なり。故に書を読む時は、当に認めて我が物を構ずと做すべし。事に臨む時に至りては、(かえ)って当に認めて活書を読むと做すべし。是くの如く互に看れば学に於て益有り。  

岫雲斎
仁、義とか礼、智とかの様々な名は、みな人間の心を表現した名目である。部分的な名を示したものや全体を示したものもある。これは所により指摘したり、自分の心の本体を形容したもので、心の活動状態の姿である。このように言ってるのも我が心そのものである。だから書物を読む時には、常に自分の心に在るものが講話していると考えたらよい。何か事を成す場合には、活きた書物を読んでいると思うのが宜しい。このように互いに見てこそ学問が有益なのである。

27日 138

無字の書を読め

学は自得するを貴ぶ。人徒に目を以て字有るの書を読む。故に字に局して、(つう)(とお)するを得ず。当に心を以て字無きの書を読むべし。乃ち(ただ)して自得する有らん。 

岫雲斎
学問は自ら得ることが大事である。だが世間の人は、目で徒に文字ある書物を読むのみであるから、文字にのみ拘束されて眼光紙背に徹して背後にある道理を洞察することが出来ない。心眼を開き、字の無い書、即ち自然・社会・人間現象の本質を見抜かねばならぬ。さすれば、自得することができよう。 

28日 139

自己主張をし過ぎるな

学人は各々力を得る処有り。挙げて人に与えて()しむるは(もと)より可なり。但だ主張(はなは)だ過ぎ、(ひょう)して以て宗旨と為せば、則ち後必ず弊有り。(おそ)る可きなり。 

岫雲斎
学者は夫々勉強して得た力量があるのだからそれを全部、人に与えるのは良いことである。だが、余りにその主張の度が過ぎ一種の宗派となるようになると将来には必ず弊害が生ずるから恐れなくてはならぬ。

29日 140.

月、花を()るは
月を看るは、精気を観るなり。円欠(えんけつ)(せい)(えい)の間に在らず。花を看るは、生意を観るなり。(こう)()(こう)(しゆう)の外に存す。 

岫雲斎
月の鑑賞の目的は清らかな気である。月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、(かげ)ったりするのを観るのではない。花は花の心の観賞である。紅とか紫などの色彩、或は香りの如く外に現れたものの外に観るべきものがあるのだ。

30日 141.         

精神修養が第一の薬

(しょうやく)は是れ草根木皮、大薬(だいやく)は是れ飲食、衣服、(やく)(げん)は是れ心を治め、身を修むるなり。 

岫雲斎
小さな薬は、草の根や木皮、大きな薬は日常の飲食や衣服である。薬の根源は、心を治め、身を修めることであろう。