両陛下の祈り 「なぜか」への至上の答え
文芸評論家・竹本忠雄 産経2011.5.9
4月28日付の本紙1面に私は大きな衝撃を喫した。
天皇皇后両陛下が、畳なわる瓦礫に向かって黙祷されるお姿に−。
衝撃は、写真の左側に載った「迷惑をかけない日本人」という記事とのコントラストで倍加した。
ソウル支局長、黒田勝弘氏のリポートで、そこで投げられたある問いに対して両陛下のご姿勢以上に絶妙の答えはありえないと思われたからである。
黒田氏は、いま外地でも評判の、なぜ被災地の日本人はかくまでも「冷静で秩序正しい」のかとの疑問を取りあげ、韓国人の間では「諦念」「遠慮」といった評語まで飛びかっていると伝えている。
これまでにもメディアは諸外国でのこの「なぜか」を報じてきた。そのつど私は、このようなメンタリティについて下される種々の憶測を興味深く思ったが、同時に、本当の理由がどこにも指摘されていないことにもどかしさを禁じえなかった。その「なぜか」への至上の答えを写真は黙示していると思われたのである。
このことは私に忘れられないある対話を思いださせる。
昭和49年5月、アンドレ・マルロー(仏の作家、政治家)が出光佐三氏(出光興産の創業者)をその美術館に訪ねたときのことである。
「日本人は精神の高貴さを持っています。なぜですか。仏教も、その理由の一つではないでしょうか」との単刀直入のマルローの問いに、間髪を容れず出光翁はこう答えたのだ。
「そうじゃありませんね。二千六百年続いてきた皇室が原因ですよ」と。
たしかに、国難のいま、私たちを斉しく打つものは、皇室、
何よりも両陛下の、あの同床同高とも申しあぐべきご姿勢に表れた何かである。
祈りである。今回だけではない。これまでの日本中の被災地めぐりだけでもない。
先の戦災地、さらには南冥の島々まで、慰霊の旅をも、お二人は重ねてこられた。
しかも史上、「恤民」すなわち民を哀れむは、皇道の第一義として歴代天皇の最も実践してこられたところであった。
であればこそ、国民も常にそれに感じ、「民を思い、倹を守る」お姿以上に頭を高くすることを慎んできたのだ。
被災地で命を救われたおばあさんが「すみません」とお礼を言って美談となったそうだが、このような国なればこそ、自ずと培われてきた節度なのである。
大震災は、しかし、大地の亀裂だけでなく、これほどの国柄にもかかわらず日本人の心に生じていた分裂をも露わにした。
国安かれとの天皇の日夜の祈りを踏みにじるような、
現政権担当者たちの無知、厚顔、専横の数々は、「3・11」を待たずして既に別のツナミをもって国を水没させつつあったのではないか。
御在位二十年記念の折、皇居の宮殿でのことを私は忘れもしない。
事もあろうに、両陛下お招きの祝宴で最後に鳩山首相の発声もあらばこそ、片隅で、蚊のなくような幸夫人の声で辛うじて「…ばんざい」と一言、拍手もまばらだった。
戦後66年、憲法の一行をも変ええず、民主主義を盾に政治家の皇室軽視の言動が昂ずる一方で来ただけに、大天災の中で却って強められた君民の絆は、なお尊く、真に日本の未来を照らす光ではなかろうか。
政治家は「一寸先は闇だ」というが、祈りを通じて天皇皇后は国の全体を見透しておられる。
でなくして、皇后美智子さまが、
『岬みな海照らさむと点るとき弓なして明かるこの国ならむ』
とお詠みになることはなかったであろう。
天皇皇后の祈りとは何か−−これを考えるべき時が来た。
昭和天皇が、崩御に先立って翌年の歌会始のために遺されたお題は、『晴』だった。
来年のお題は、『岸』だ。
まだ東日本沿岸がそよとも揺れなかった今年1月、どこから、陛下のみ胸に、このヴィジョンが
生まれたのであろうか。(寄稿)
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【プロフィル】竹本忠雄
たけもと・ただお 昭和7年生まれ。文芸評論家、筑波大名誉教授。霊性文化の次元から日本の理解と復権を目指して多年、日欧間で講演と評論活動に従事。コレージュ・ド・フランス招聘(しょうへい)教授として『マルローと那智滝』連続講義及び出版、皇后美智子さまの御撰歌集『セオト せせらぎの歌』の仏訳を刊行。著書に『皇后美智子さま 祈りの御歌』『天皇 霊性の時代』など多数。