吾、終に得たり  岫雲斎圀典
      
--釈迦の言葉=法句経に挑む

多年に亘り、仏教に就いて大いなる疑問を抱き呻吟してきた私である。それは「仏教は生の哲学」でなくてはならぬと言う私の心からの悲痛な叫びから発したものであった。
平成25年6月1日

1日 日本仏教への疑問

人間救済に値しない宗教だ

それは、現代僧侶たちへの疑問であり、権威主義的仏教伽藍、葬式仏教への反感でもある。僧服は道元禅師の如く墨染めの衣でよいと思うものであり、得々と僧侶が説教する極楽=お浄土信仰への疑問である。それは恰も日本仏教の開祖時代の、無知な大衆救済の一心称名に似た、進歩無き仏教と見えるのである。鎌倉時代の仏教揺籃期の如く、僧侶が草鞋や裸足でこの21世紀の末期に街頭進出し愚民救済の姿を見れば私も納得したかもしれないがそのような姿はついぞ現代僧侶に期待できない。通常人と全く同じ生活をしていて葬式・法要の読経のみでは到底宗教者と言えず、人間救済なぞ不可能である。また、末世の今こそ、情熱を以て社会に敢然と打って出ぬ、立ちあがらぬ僧侶に「人間救済」など到底期待出来ず、宗教者と呼べない。

2日 色んな仏様出現の時期に疑問

どの家の仏壇でも真ん中には宗祖の仏像が鎮座し、阿弥陀様や観音様が中心なのも不可解であった。釈迦像は大きなお寺のみに存在する印象である。檀那寺はみな阿弥陀様である。奇妙なことだと気づいたのは70才代であった。或る日、ふとした事から、知ったのは、観音様とか阿弥陀如来とか、毘沙門様とか不動妙王の仏様が出現されたのはお釈迦様が入寂されてから数百年後と知り、はたと気づいた。そして、これらの仏様とは、釈迦の教えの、一つの思想の表現であると分った。釈迦の臨終の言葉は、大宇宙の法を守りなさい、自分をしっかりしなさい。即ち法燈明、自燈明であると知る。これらは実に納得できる。さもあらんと確信した。「一切は心より生ず」、「心如(しんにょう)(こう)画師(がし)」などを真言と思ってきた私には葬式仏教では納得し得ない過去あった。

3日 大自然には、「恣意は無い」

さらに、この大自然には、「恣意は無い」と気づいたからでもあった。特定の人間に、特定の恩恵などを神仏は与えられる筈はないと思うからでもあった。
第一、死んでから極楽浄土に行くなど理解不能である。生きて、この世こそ、心の浄土にする。それこそが宗教のあるべき姿ではないかと永年思っていたからだ。そこへ、お釈迦さまの言葉を集めたものが「法句経」であると知った。ここにある言葉は、私がこの82歳になるまで、人生経験から肌で感じていたことばかりである。高名な友松円諦師の「法句経」を読み、改めて感動的に諸手を挙げて同感した。

4日 因果則こそ
釈迦の仏教理


現代人の知性に適った真理

突き詰めると釈迦の仏教理の核心は、宇宙の原理に沿ったもの即ち「原因があって結果がある」のだから、良い結果を得るには、良い結果を発生する良い原因を創ることであろう。当に、因果応報、因果則そのものである。それは大自然の掟でもある。大乗仏教の地獄とかではないのだ。迷信など無用である。これは現代人の知性に適った真理である。その真理・悟りを得ても人間は、否、大自然の存在は全て朽ち果てて行く。大自然の法燈明に従っても朽ち果てる。人間は、自燈明で、死の直前まで、確りと自己を支えて生きて行くしか他の道は皆無なのである。 

5日 自分を変えることで生の苦を緩和

それは要するに、自分を変えることで生の苦を緩和する事であろう。それ以外に現世の人間苦から逃れられる道はない。これは厳然たる事実である。大乗仏教は、それを神秘な呪文で逃れさせようとしているらしい。ただが、論理的に科学的に釈迦は真正面からこの非情な現実を受けて悟道を得られたのである。

6日 これこそ私の希求していたもの

これこそ私の希求していたものズバリであった。これこそがお釈迦様なのだが、どうして日本では主流とならぬのか、その理由も明快に分かった。中国から到来した大乗仏教は日本に定着した。大乗仏教はお釈迦様滅後500年当時の新興宗教でありお釈迦様の厳しい修行について行けない大衆の参じた仏教であると知る。般若心経はその中心的お経であることも理解した。だから日本の仏教では仏壇の中心に釈迦像が無いのであろう。
私は、この大乗的仏教に組し得ないものがある。直にお釈迦様の教えである「自燈明、法燈明」が現実的で、「生の哲学」としてこの世の修行に相応しいと確信する。
その釈迦の「真理の言葉」である法句経の翻訳をされた友松諦師ま経をお示しし、明日から、その愚生の口語訳に挑戦する。愚生畢生の大仕事となるであろう。稚拙、且つ、ゆっくりと挑むこととする。     平成256月 82歳岫雲斎圀典

法句経 
(真理の言葉)
 法句経(真理の言葉) 二十六品 423
7日

第一品 

双要(ひとくみ)の教訓

     1.

原文

  岫雲斎訳

(おもい)諸法(すべて)にさき立ち 諸法は意に成る 意こそは諸法を()ぶ けがれたる意にて かつ行わば ()くものの跡を追う かの車輪のごとく くるしみ彼にしたがわん。

もろもろの現象は心によって発生する。
事柄は心が支配者であり作者である。
不純な心で語り、行動すれば必ず苦しみが伴い続ける。
それは車を引く者の足跡を追う車輪のようなものだ。

8日     2.       

(おもい)は諸法にさき立ち 諸法は意に成る 意こそし諸法を統ぶ きよらなる意にて かつ語り かつ行わば 形に影のそうごとく たのしみ彼にしたがわん

もろもろの現象は心により起る。それらは心が支配者であり作者だ。
純粋な心で語り、行えば、必ず楽しみが後をつけてくる。影が離れないようなものだ。

9日        3. 

「彼 われをののしり彼 われをうちたり
彼 われをうちまかし彼 われをうばえり」かくのごとく こころ執する人々に うらみはついに ()むことなし

「彼は私を罵った。私を殴った、打ち負かし奪った」。
このような心の人には怨みは終わることはない。

10日        4

「彼 われをののしり彼、われをうちたり
彼、われをうちまかし

彼、われをうばえり」かくのごとく、こころ執せざる人々こそついにうらみの()(そく)を見ん

「彼は私を罵った。私を殴り
負けさせ、私から奪った」。

こうした考えに執着の無い人
々にこそ怨みは消えうせる。

11日     5

まこと 怨みごころはいかなるすべをもつとも怨みを(いだ)くその日までひとの世にはやみがたし
うらみなさによりてのみうらみついに消ゆるべし こは(かわ)らざるなり

本当に、他人を怨む心ではその怨みを完全に溶くことはできないものだ。

怨みを持たない心によってのみ解消できるのだ。

これは永久の真理のようである。

12日        6

「われらはここ死の領域(さかい)にあり」道を異にする人々は このことわりを知らず このことわりを知る人々こそ かくていさかいは()まん

「私達はここで、いずれ死ぬ」。
この事に気づかないでいる人々がいる。
この事を実感したならば争いと言うものは無くなるであろう。

13日        7

世のことすべて(うるわ)しと()諸根(こころね)ただおもむくにまかせ 口にするもの節度(はかり)なく こころはよわく はげみ少なし 誘惑者(まよわし)はかかる人を その魔手()にはとらえん まことに、かのつよ風の 力よわき樹木()を吹き倒すごと

世の中を謳歌して暮し、官能のままに過ごし、食べ物に慎みが欠け、その努力無き人々は誘惑者に負けてしまう。

それは、あの風がか弱い樹木を吹き倒してしまうようなものだ。

14日        8

世のことすべて(うるわ)しとは見ず 諸根(こころ)はよくととのえられ 口にするもの 定量(ほど)をこえず (こころ)(しん)に はげみはつよし 誘惑者(まよわし)もかかる人を その魔手()にはとらうすべなし まこと つよ風に 微動(さゆる)がぬ岩山のごと

外の世界の美しさに迷わされることなく実態を良く見、官能を抑制した生活、食べ物も慎み、務める人々は誘惑されることはない。
それは岩山が吹きつける風に微動だにしないようなものだ。

15日        9

心なお けがれを去らずただ袈裟(きいろ)()をまとわんとす されど 心ととのわずば (わざ)真理(まこと)にそわずば 袈裟(きいろき)を身にまとわんに 彼はげにそのあたえあらず

心の穢れを捨てずに、ただ修行者の衣服を着たいと願っても、もし自制と誠実に欠けておれば既にその衣服を身につける資格はない。

16日        10

心すでにけがれを去り心よくいましめに住し自らおのれをととのえ(わざ)真理(まこと)にそわば袈裟(きいろき)をまとわんに彼こそは げにそのあたえあり

既に色々の穢れを捨て去り道徳でよく自らを固めて自制と誠に適っておれば、そのような人々こそ修行者の衣を着る資格がある。

17日        11

()(こと)きものに ()(こと)ありと思い ()(こと)あるものを(あだ)と見る人は いつわりの 思いにさまよいついに真実(まこと)に (いた)りがたし

本質でないものを本質と(とら)える、反対に本質を本質でないとする様な人々は決して本質に到着できない。過った思想をさまようであろう。

18日        12

()(こと)あるものを ()(こと)ありと知り ()(こと)なきものを(あだ)と見る人は 正真(すぐ)なる思いに たどりすすみ ついに真実(まこと)(いた)るべし

本質を本質とし、本質でないものは本質としない、こう正しく認識する人々は必ず本質に至ることが出来て正しい思想圏内に住むことができる。

19日        13

そあらに ()かれたる 屋舎(いえ)に 雨ふれば 漏れやぶるべし かくのごとく 心ととのえざれば貪欲これを破らん

(あら)く葺いた屋根は雨が漏れるように、よく反省されない精神ではこれと同じ様に本能愛欲で破れ穿(うが)たれてしまう。

20日        14

心をこめて 葺かれたる屋舎(いえ)に 雨はふるとも洩れやぶることなし かくのごとく よくととのえし心は 貪欲も破るすべなし

丁寧によく葺いた屋根は決して雨が漏れない。
よく反省した精神では愛欲本能の為に破れたり穿たれることはない。

21日        15

悪しきことを()す者はここに憂い かしこに憂い ふたつながらともに憂う おのれのけがれたる(ふるまい)を見て 彼は憂い彼はなやむ

悪いことをしたら現在でも未来でも心をいためる。
彼は二つの世界に亘り心を傷め慄く、己の穢れた行いの結果を見て。

22日        16

善きことを()す者はここによろこび かしこによろこび ふたつながらによろこぶ おのれのきよらなる(わざ)を見て 彼はたのしみ 彼はよろこぶ

善いことをした者は現在も未来もの己れの喜びとなる。
己れのなせる清らかな行いの結果である。

23日        17

あしきを()す者はいまにくるしみのちにくるしみ ふたつながらにくるしむ「あしきをわれなせり」と かく思いてくるしむかくて なやましき行路(みち)を歩めば いよいよ心くるしむなり

悪をなしたら現在の心を悩ますばかりでなく、未来も苦しむ 「自分は悪いことをした」と考えて悩む。
それは更に悩まし未来が待ち受けることだ。

24日        18

善きことを()す者は いまによろこび のちによろこび ふたつながらによろこぶ 「善きことをわれはなせり」と かく思いてよろこぶ かくて(さち)ある行路(みち)を歩めば いよいよこころたのしむなり

善行をすれば現在も未来も、二つの居所で自分の心を喜ばせることが出来る。
自分は本当に善いことをしたのだと考え、自分の心を喜ばせて幸い多い人生行路となる。

25日        19

意味深き経文(みおしえ)を いくそたび口に()すとも 身にもしこれを行わず 心、放逸(おこたり)にふけらば 沙門(ひじり) とよばん そのあたえはあらず まこと、むなしく 他人(ひと)の牛をかぞうる かの牧牛者(うしかい)にたとうべし

意味深い経文を何度読んだところで、その教えを実行しないで安逸を貪っている人々は、あの牧者が他人の牛の数を数えているのと同じ、そうした人々は修行しても何も得るものはない。

26日        20

経文(みおしえ)を口にそらんずる まこと少分(わずか)なりとも 身に行うこと法にかない(むさぼり)と怒と(おろかさ)とをすて智慧は正しく 心よくほどけとき この世にも着せず かの世にも執せざるもの 彼こそ沙門(しゃもん)(みち)に入らん

有り難い経文は少ししか読まなくても、正しいことを実行し、貪欲も、怒りも、愚かさも捨てて本当の智慧に到達し精神の自由を得た人こそ、この世も未来も賢者である。

27日 第二品

不放逸(はげみ)
      
      21

精進(はげみ)こそ不死の道 放逸(おこたり)こそは死の(みち)なり いそしみはげむ者は 死することなく 放逸(おこたり)にふける者は 生命(いのち)ありとも すでに死せるにひとし

励みこそ死なない道である。

安逸は死の道である。

勤しみ励む者は死ぬことはない。
安逸を貪れば生ける屍のようなものだ。

28日       22

明らかに この(ことわり)を知りて いそしみはげむ (かしこ)く人らは 精進(はげみ)の中に こころはよろこび 聖者(ひじり)心境(さかい)に こころはたのしむ

賢い人々は励むことの真理を自覚していることは明らか。そして更に勤しんで心を充たしている。その人々は聖人の境地を楽しんでいる。

29日       23 

こころは(しず)まり 忍ぶことにつよく つねに ちから(たけ)くはげむもの かかる勇健者(ちからあるもの)こそ この上もなき 安穏(やすらか)なる 涅槃(さとり)には到らん

思慮深く、忍耐力あり、いつも勇健、聡明であれば、こよない平安を得ることができる。

30日       24

こころはふるい立ち 思いつつましく こころを用い (ふるまい)をきよくし おのれをととのえ (のり)(したが)いて生活す かくはげみある人に ()(まれ)は高からん

心を奮い立たせ、慎ましく、自覚して清らかに、教えに従って努める人々は賞賛されるであろう。