神話に隠されている出雲古代史

平成25年6月

1日 神話に隠されている出雲古代史 このような風土記神話の体系と神話関係地の分布状況は、出雲の古代民族の勢力圏やその盛衰と密接な関係にあるはずです。私はそうした観点から出雲の古代史族群の構成を考え、杵築(きつき)須佐(すさ)意宇(おう)野城(のぎ)(能義)などの各地域に割拠した豪族に分類し、同時にその活動状況も推測しました。それを纏めると次ぎのようになります。
2日 出雲統合の歴史 一.杵築(きつき)
八束(やつか)(みず)(おみ)津野(つの)(みこと)神魂(かもすの)(みこと)を氏神とする集団-出雲(ふる)()のとき滅亡 
二 須佐
・・・須佐袁(すさのをの)(みこと)を氏神とする集団--後の須佐氏 
三 意宇(おう)
   (めの)()(ひの)(みこと)の子、(たけ)()()(てるの)(みこと)を氏神とする集団?後の出雲国造氏、   一時野城に移動し再び大庭に還る。 

私はこのように出雲国内での氏族間の勢力抗争を想定し、そこへ原大和国家の勢力が介入してくる過程を通して、出雲の統合という歴史を考えます。 

激動の出雲古代史
3日 須佐氏族の出雲古代史 古代出雲の杵築(きつき)、須佐、意宇(おう)の各氏族はどのような抗争の歴史を経て原大和国家に吸収されていったのか、私が構築する出雲古代史は次ぎのようなものです。
杵築(きつき)の勢力は出雲郡から島根郡に及ぶ現島根半島部を占有し、出雲郡を中心とする西部を根拠地とし、東方に勢力を伸張した海上部族の国です。第一世紀ごろには、意宇郡をも領有していました。
その頃、意宇郡方面は、後に出雲国造になる出雲氏族が占拠していましたが、彼らの勢力はまだそれほどに強大なものではありませんでした。
4日 新羅系帰化人

飯石郡須佐郷を本貫


大よそ、杵築(きつき)の勢力が優勢だった出雲地方に変動が起り始めるのは、第一世紀ころからです。その頃、朝鮮の東海岸から新羅系帰化人の集団が移住してきて、(かん)門川(どがわ)斐伊川(ひいがわ)の流域沿いに定着しはじめたのです。新羅系帰化人たちは、それまで鉄を求めて中国山地帯と交易していた水人部族を駆逐し、出雲の砂鉄地帯を占有していき、韓鍛冶系鉄の文化を背景に強大化していきました。彼らは飯石郡須佐郷を本貫とし、須佐袁(すさのをの)(みこと)を氏神とすることから、須佐氏族とでも名付けるべき人々です。

5日 須佐氏族と合流した土着の出雲氏

須佐氏族は勢力が増強するにつれ凡そ第二世紀のころから飯石郡より東へ移動し、大原郡を経て意宇郡方面に進出し杵築(きつき)の勢力下にあった意宇の地域をも領有しました。こうして杵築(きつき)・意宇両勢力の対立時代が到来します。意宇を領有した須佐氏族は、土着勢力であった大庭の出雲氏と姻戚関係を結び出雲氏族は能義郡方面に分かれて須佐氏族と連合して杵築(きつき)の勢力と対決したのです。 

6日

原大和国家の西進がもたらした波紋

第三世紀の末期から第四世紀の初頭にかけて、出雲の各勢力は、丹波と吉備を抑えて西日本の北と南の両道より西進を企ててきた大和勢力との対決を余儀なくされることとになります。然し、その頃になっても尚、全出雲の統一は行われていず、杵築(きつき)と意宇の二勢力の対立・抗争が続いていました。
7日 労せずして出雲の各勢力を帰伏

西進してきた原大和国家は、出雲の氏族同士の対立状態に乗じ、神魂命を氏神とする杵築(きつき)氏族、須佐袁(すさのをの)(みこと)を氏神とする意宇の須佐氏族、(たけ)()()(てるの)(みこと)を氏神とする大庭の出雲氏族などの祭祀集団に対し、その神宝の検校(けんぎょう)を要求しました。神宝の検校を通じ、労せずして出雲の各勢力を帰伏させようとしたのです。

8日 杵築

須佐氏族や出雲氏族の意宇の勢力はこの要求に屈服し、原大和国家になびきます。然し、杵築(きつき)の氏族は要求に従いませんでした。杵築(きつき)は大和と対立する道を選び武力対決をも覚悟したわけです。杵築(きつき)の氏族は、原大和国家が意宇の勢力と連合して攻撃してくることを恐れ、対抗手段としてまず筑紫と同盟します。

9日 出雲振

ちなみに「日本書紀」の「()(じん)()」に出雲振(いずもふり)()(日本書紀では出雲国造の祖先とされているが、実は杵築(きつき)の氏族の族長とみられる)が筑紫に赴いて不在の間に、飯入(いいいり)()(日本書紀では振根の弟とされているが、実は須佐氏族の長とみられる)が神宝を朝廷に献上してしまつたとあるのは、こうした杵築(きつき)と筑紫の政治的交渉関係を示唆していると考えます。

10日 意宇へ先制攻撃

杵築(きつき)の氏族は、筑紫との連合で背後を固めた上で、意宇と大和の合体が完成しないうちに意宇へ先制攻撃を加え、意宇の勢力を撃退してしまいます。そのため、須佐袁(すさのをの)(みこと)をあがめる須佐氏族は、再び本貫の地、飯石郡須佐方面に追われ、山間地帯に封入されてしまったのです。

出雲と大和の戦い
11日 出雲を征討 意宇の須佐氏族の族長・飯入根が出雲振根に滅ぼされると、須佐氏族と同盟していた出雲氏族の甘美韓日狭(日本書紀では飯入根の弟とされている)は、飯入根の子・濡渟(ろぬのじょう)と共に大和に走り、出雲の騒乱を報じて救援を要請しました。これを受けて、原大和国家は直ちに軍隊を出動させて杵築(きつき)の討伐を敢行し、ここに筑紫・杵築(きつき)連合対大和・意宇連合の戦争が起ったのです。「日本書紀」によれば、原大和国家は、吉備津彦と武渟(たけぬな)川別(かわわけ)を将軍とする軍隊を主力として出雲を征討したとありますから、山陰・山陽両道から杵築を挟撃する作戦をとったものとみられます。
12日 須佐氏族の諸勢力を合体

吉備津彦は、「古事記」では吉備上道(かみつみち)臣の祖である大吉備津(おおきびつ)日子(ひこの)(みこと)(別名、比古伊佐勢理毘(ひこいさせりび)(この)(みこと))か、(わか)日子(ひこ)(たけ)吉備津(きびつ)日子(びこの)(みこと)(吉備下道(しもつみち)臣・笠臣の祖)かのどちらかですが、とにかく吉備を平定し、支配していた吉備の勢力です。そうであれば、恐らく吉備から中国脊梁山脈を越えて仁多郡から飯石郡に入り、そこの須佐氏族の諸勢力を合体したとみられます、そしても須佐氏族の諸勢力を合体したとみられます。そして、須佐氏族の本貫の地である飯石郡を前進基地として北進し杵築を攻めたと考えられます。

13日 杵築の出雲振根を屈服させた

一方、四道将軍の一人として東方12ヶ国を平定したとされる(たけ)(ぬま)(かわ)別命(わけ)(武渟(たけぬな)川別(かわわけ))は山陰道を西進して意宇郡方面より杵築を攻撃したとみられます。
こうして、両道から進撃した原大和国家の軍は、ついに杵築の出雲振根を屈服させ、出雲を統一するのです。この出雲征服は、原大和国家の征西途上に起る必然的な出来事ですから、原大和国家が仲哀天皇の時に杵築に遠征しているのが第世紀の中葉であることからすると、それ以前のことでなければならず、恐らく第四世紀の初頭のことだつたと考えられます。

14日

神宝
 神殿に奉安された宝物。また、神聖な宝物。神服・(へい)・鈴・鏡・剣・(げき)(せん)・琴などが多い。
 

筑紫

 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。

原大和国家の大事業
15日 出雲国統一 かくして、原大和国家の征西の過程において、その軍事力に支えられ、初めて出雲国の統一が完成したわけです。それ故、原大和国家にいち早く帰伏してその援助を受けた意宇の勢力である能義の出雲氏族は、原大和国家の庇護のもとで須佐氏族に代って意宇郡に復帰し東出雲の領有を許されました。そして、杵築を征服した原大和国民は、その直接支配の本拠地として出雲、神門二郡の西出雲地方を直接支配したのです。
16日 古墳の分布 出雲の古墳分布を見ますと、古墳時代前期から方墳系の特殊な古墳が、意宇郡を中心として東出雲に濃密に分布します、処が、西出雲では後期になるに従って大和系の円墳系が主として分布しているのです。こうした、古墳の分布状態は、方墳系の古墳を築いた出雲の氏族の中に、後から大和の勢力が進入したという歴史を反映していると言えましょう。いずれにせよ、意宇・杵築の抗争は、意宇の勢力を懐柔してその軍事力を投下した原大和国家の介入により、ついに杵築の滅亡という事実をもって第四世紀の初頭、終止符が打たれたのでした。
17日 雲を統監 原大和国家は杵築の征服後、その地を直轄化すると共に、物部(もののべの)大連(おおむらじ)十千(とち)()を出雲に派遣して神宝を検校(けんぎょう)せしめています。つまり、原大和国家の天皇の親衛軍指揮官である物部氏の祭祀的・軍事的権力を用いて出雲を統監させたわけです。
18日 物部氏の武力を畏敬 意宇の出雲氏族は、その権威に屈服したばかりか、伝統的な祭祀も停止するほど物部氏の武力を畏敬したようです。それが「日本書紀」の「崇神記」に「出雲臣ら是事を畏れ、大神を祭らず」という伝説史的記述が発生した原因と推測してよいでしょう。ちなみに、出雲臣とは出雲国造で、今まで述べてきた出雲氏族の族長がそれに当てられました。私は、以上のように原大和国家に統合されていった出雲の歴史を考えます。
19日 神国出雲の征服の意味 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、いみじくも「神国出雲」として世界に紹介した出雲国は、確かに日本の中でも神秘に富んだ古くから開けた国です。 
また、それ故に、日本古代史の上でも様々な点で重要です。第四世紀初頭、出雲は原大和国家の西進運動によって、吉備に次いでその勢力圏に統合されたわけですが、「日本書紀」が年代的にはかけ離れている筈の崇神天皇の末年に出雲統合の物語を伝えるのは初代天皇である崇神天皇を称える為の功績として、その時代に該当させようとしたからでしょう。
20日 統一国家を形成
初代天皇の功績
出雲国の統合は、吉備国の統合を終えていたその頃、原大和国家にとって、最大かつ最終の大事業であり。その成功によって原大和国家は初めて本周島西半分の統一を完成させて強大な統一国家を形成することが出来たのです。大和国家の歴史の中で、この功績は初代天皇にこそ相応しいものだったと言えましょう。
21日 方墳
 古墳時代の墳墓形式。平面形か方形をなし、方錐台形につくられたもの。
 
円墳

 古墳時代の墳墓形式。墳丘の平面形が円形をなす。
 
小泉八雲

 文学者。もとイギリス人でギリシャに生まれ、1890年、明治23年来日。松江の人、小泉節子と結婚。後に帰化。心、怪談、霊の日本、など日本に関する英文の印象記・随筆・物語を発表。
第十九講 出雲文化が語る古代日本の勢力図
遺跡から見る古代出雲の全体像
22日 出雲古代文化の源流 前講では、「出雲国風土記」の神話や「記紀」などのの文献史料を基にして古代出雲の歴史を考えましたが、果してそこで述べたような出雲の古代史は考古学的な立場からも傍証できるでしょうか。本講では、そうした観点から見てみましょう。
23日 遺跡・遺物の分布 まず、遺跡・遺物の分布の概要をみてみましょう。出雲では今のところ、旧石器時代や、それに続く中石器時代の文化の存在は殆ど確認されていません。従って、日本列島の他地域に比べて出雲文化の古さを特記することは出来ない状態です。
24日 縄文時代から、漸く若干の遺跡・遺物がみられるようになります。遺跡は、島根半島の海岸から南部及び西部の山地の奥、中国脊梁山脈の分水嶺まで、出雲国内全般に亘って分布しています。      
25日 立証するのは困難 弥生文化についても、その初期の遺跡・遺物は顕著ではありませんが多少は知られているという状態です。しかも、それらは北九州や大和の同時代の文化に比して特に優れていたり、また異質のものとも言えません。この為、弥生時代の500年間を通じて出雲独自の文化が存在したことを考古学的に立証するのは困難とされてきました。
26日 よく問題になる青銅器と出土例も出雲では極めてまれで、出雲大社のクリス型銅剣、即ち銅戈(どうか)と、仁多郡横田町の横田八幡宮の銅剣とが、僅かに出雲も銅剣・銅鉾文化圏に含まれることほ示唆するに過ぎない状態でした。また、その一方、不確実な所伝ですか、出雲国内の出土と伝えられる一、二の銅鐸の出土例があり、西隣の石見国と共に銅鐸文化圏の西限の地帯であるとも見られました。
27日 出雲は、銅剣・銅鉾文化 そこで出雲は、銅剣・銅鉾文化圏と、銅鐸文化圏の接触地帯であったと解され、その時代あたりでどうやら出雲国の、日本古代史上における役割の芽がふき出した、という程度に観考えられてきたのです。
28日 358本の銅剣 然し、周知のように最近になって、荒神谷遺跡から一挙に358本の銅剣が突如として発見されました。而も、銅剣と銅鉾とが伴出され、在来の多くの研究成果を一挙に変更させるような結果をもたらしました。 
29日 クリス型銅剣
 弥生時代の青銅器。銅矛の旧称。南洋マレー民族の短剣クリスに似た形をしているので、こう呼ばれた。
30日 銅矛
 弥生時代の青銅利器。長い柄に対して身を直角に着装する。