「(こう)()(ちょう) 第五」

平成28年6月1日--6月28日

原文 読み 現代語訳
1日 一、
子謂公冶(しこうやちょう)(をいう)可妻也(めあわすべきなり)雖在縲紲之中(るいせつのなかにありといえども)非其罪也(そのつみにあらざるなり)以其子妻之(そのこをもってこれにめあわす)
子、公冶長を言う、妻あわすべきなり。縲紲の中に在りと雖もその罪に非ざるなり。その子を以てこれに妻あわす。 孔子が公冶長を評して言われた。「私の娘を嫁にやってもよい。彼が例え、牢獄に入れられたことがあっても、それは冤罪であった」、そして、自らの娘を公冶長に嫁がせた。
2日 二、
子謂(しなんよ)南容(うをいう)(くにに)(みちある)道不廃(ときはいせられず)邦無道免於刑戮(国二みちなきときもけいりくなまぬかる)以其兄之子妻之(そのあにのこをもってこれにめあわす)
子、南容を謂う)、邦に道あるときはいせられず、邦に道なきときも刑戮に免る。その兄の子を以てこれに妻あわす。 孔子は南容を評して言われた。「国家が安定している時、責任ある地位についている。国政が乱れている時、刑罰を科されることはなかった」。そして、自分の兄の娘を南容の嫁にした。
3日

三、
子謂子賤(ししせんをいう)君子(くんしなるか)(なか)若人(くのごときひと)(ろに)無君子者(くんしなくんば)斯焉取斯(これいずくんぞこれをとらん)

子、子賤を謂う、君子なるかな、かくのごとき人。魯に君子なくんば、これいずくんぞ、斯れを取らん。 孔子が子賤を評して言われた。「子賤のような人こそ、君子だ。魯国に君子がいないと言うが、それでは子賤は徳を磨けない」。
4日

四、
子貢問曰(しこうといていわく)賜也何如(しやいかん)子曰(しのたまわく)汝器也(なんじはうつわなり)(のたまわく)何器也(なんのうつわぞや)(のたまわく)瑚連也(ごれんなり)

子貢、問うて曰く、賜や何如。子曰く、汝は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連なり。

子貢が孔子に尋ねた。「私はいかがですか」。孔子は申された、「お前は器じゃ」。子貢言う、「何の器ですか」。孔子が申された、「最高ということなり」。 
註 瑚連
宗廟のお供えを盛り付ける最高の器。

5日 五、
或曰(あるひといわく)雍也仁而不佞(ようやじんなるもねいならず)子曰(しのたまわく)焉用佞(いずくんぞねいをもちいん)禦人以(ひとにあたるにこうきゅ)口給(うをもってすれば)屡憎於人(しばしばひとににくまる)不知其仁也(そのじんをしらず)焉用佞(いずくんぞねいをもちいん)
或るひと曰く、雍や仁なるも佞ならず。子曰く、焉んぞ佞を用いん、人にあたるに口給を以てすれば、しばしば人に憎まる。その仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

ある人が言う、雍という人物は仁徳あるも、弁舌がたたない。
孔子が申された、「どうして弁舌達者の必要があるのか。口先の弁論で人を言い負かせば人から恨まれやすい。雍が仁者である事が分かっていない。弁舌達者は不必要なのだ」。
 

6日 六、
子使漆雕開仕(ししつちょうかいをしてつかえしむ)対曰(こたえていわく)斯之(われこれをこれ)未能(いまだしんある)(あたわず)子説(しよろこぶ)
子、漆雕開をして仕えしむ。対えて曰く、吾は斯をこれ未だ信うる能わず。子説ぶ。

孔子が漆雕開(しつちょうかい)を仕官させようとした。漆雕開は答えた。「私は、仕官に耐えられるか自信ありません」、孔子はこれを聞き喜ばれた。

7日

七、
子曰(しのたまわく)(みち)不行(おこなわれず)乗桴浮於(ふにのりてうみに)(うかばん)(われに)(したがう)者其由也(ものはそれゆうなるか)与、子路聞之喜(しろこれをききてよろこぶ)子曰(しのたまわく)由也好勇過(ゆうやゆうをこのむことわれに)(すぎたり)無所(ざいをとる)取材(ところなし)

子曰く、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由なるか。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なし。

孔子が申された、
「乱世じゃ、筏に乗って東海にでも行くか。ついてくる者は由くらいか」。
子路=由がそれを聞いて喜んだ。
孔子は申された「由は勇敢だから、気力はある。だが筏の材質のような辛抱強さはないな」。
 

8日

八、
(もう)()(はく)(とう)子路仁乎(しろじんなるか)子曰(しのたまわく)不知也(しらざるなり)(また)(とう)子曰(しのたまわく)由也(ゆうや)千乗之国(せんじょうのくに)可使治其賦也(そのふをおさめしむべし)不知其仁也(そのじんをしらざるなり)求也何如(きゅうやいかん)子曰(しのたまわく)求也(きゅうや)千室之邑(せんしつのゆう)百乗之家(ひゃくじょうのいえ)可使為之宰也(これがさいたらしむべし)不知其仁也(そのじんをしらざるなり)赤也何如(せきやいかん)子曰(しのたまわく)赤也(せきや)束帯立於(そくたいしてちょうに)(たち)可使与賓客言也(ひんきゃくといわしむべし)不知其仁也(そのじんをしらざるなり)

孟武伯問う、子路仁なるか。子曰く、知らざるなり。また問う。子曰く、由や、千乗の国、その賦を治めしむべし、その仁を知らざるなり。求や何如。
子曰く、求や、千室の邑、百乗の家、これが宰たらしむべし、その仁を知らざるなり。赤や何如。子曰く、赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべし、その仁を知らざるなり。

孟武伯がお尋ねした、子路は人格者ですか。
孔子申された、「分からない」、更に尋ねたので、孔子は申された、
「由(子路)は、千台の戦車を備えた諸侯の大国でその軍政を担当させることが出来るが、人格者であるかどうかは分からない」。
求はどうですか。
「求(冉有)は、千戸の町や、百台の戦車を備えた大国で執政を務められるが、仁であるかどうかは分からない」。赤(公西華)は?
孔子は申された「赤は、衣冠束帯の礼服で朝廷で官位に就き、客人と応対させることは出来るが仁であるかどうかは分からない」。
 

9日

 

九、子謂子貢曰(ししこうにいいていわく)汝与回也孰(なんじかいといずれか)(まされる)対曰(こたえていわく)賜也(しやなんぞあえて)(かい)(をの)(ぞまん)()回也聞一以(かいやいちをきいて)(もってじゅ)(うをしる)賜也聞一以知二(しやいちをきいてもってにをしるのみ)子曰(しのたまわく)弗如也(しかざるなり)吾与汝弗如也(われとなんじとしかざるなり)

子、子貢に謂いて曰く、汝と回いずれかまされる。対えて曰く、賜何んぞを敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知るのみ。子曰く、如かざるなり。吾とも汝と如かざるなり。

孔子が子貢に向かって言われた。
「お前と回と比べてどうか」、子貢はお答えした。「私ごときが、どうして回(顔淵)と比べることなど望むことができましょう。顔淵は一を聞いて十を悟ります。私などは一を聞いて二を知るくらいです」。
孔子は言われた、「お前は顔淵に及ばない。私もお前と一緒で顔淵には及ばない」。

 

10日

十、
(さいよ)(しんに)昼寝(えがけり)子曰(しのたまわく)朽木不可彫也(きゅうぼくにはえるべからず)糞土之牆不可朽也(ふんどのしょうにはこてぬるべからず)於予与何誅(よにおいてぞやなんぞせめん)子曰(しのたまわく)始吾於人也(はじめわれひとにおけるや)聴其言而(そのげんをききておこ)(ない)(をしん)(ぜり)今吾於人也(いまわれひとにおけるや)聴其言而(そのげんをききても)(おこな)(いを)(みる)於予与改(よにおいてやこれをあら)(ためり)

宰予、寝にえがけり。
子曰く、朽木には彫るべからず、糞土の牆にはこてぬるべからず。予に於てぞやなんぞ誅めん。
子曰く、始め吾、人に於けるや、その言を聴きて行いを信ぜり。今吾、人に於けるや、その言を聴きても行いを観る。予に於いてや、是を改めり。
宰予が自室で絵を彫っていた。
孔子が申された、「ボロボロに朽ちた木には彫刻ができない。泥土の垣根に上塗りはできない。宰予に対し叱っても仕方ない。
孔子が申された、「以前、私は人の言葉を聞くだけでその行いまで信用した。今は、人の言葉を聞いてもその行動まで観察する」。
11日 十一、
子曰(しのたまわく)(われい)未見(まだごうし)剛者(ゃをみず)或対曰(あるひとこたえていわく)(しんと)(うと)(しのたまわく)長也(とうやよ)(くあり)(いずく)(んぞごうた)(るをえん)
子曰く、吾未だ剛者を見ず。或るひと対えて曰く、申長。
子曰く、
(とう)や慾あり。焉んぞ剛たるを得ん。
孔子が申された、
「私はまだ筋を通す強い人物を見たことがない」、或る人が答えた。「お弟子の
(しん)(とう)がいます」、
孔子は申された、「長は欲がある、剛健と言えない」。
12日

十二、
子貢曰(しこういわく)我不欲人之加諸我也(われひとのこれをわれにくわうるをほつせざるや)(われも)(またこ)(れをひ)無加諸人(とにくわうることなからんとほっす)子曰(しのたまわく)賜也非爾所及也(しやなんじのおよぶところにあらざるなり)

子貢曰く、我、人の諸を我に加わうることを欲せざるや、吾もまた諸を人に加うることなからんと欲す。子曰く、賜よ、爾の及ぶ所に非ざるなり。

子貢が言った、「私は、他人が自分に良くないことを押し付けて来るのを望まぬので、私も他人にしかけないようにしたい」。
孔子が申された、
「賜(子貢)よ、お前にはまだまだだ」。
13日 十三、
子貢曰(しこういわく)夫子之(ふうしのぶん)文章(しょうは)可得而聞也(えてきくべし)夫子之(ふうしのせい)言性(とてんどう)(とを)天道(いうは)不可得而聞也(えてきくべからざるなり)
子貢曰く、夫子の文章は得て聞くべし。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。 子貢が言った。先生の詩書礼学等の古典は学ぶことを得た。しかし、先生の人間や物の本質、実体など普遍的なるものは学ぶことが出来なかった。
14日

十四、
(しろ)路有聞(きくことありて)未之(いまだこれをおこなう)(ことあたわず)(んば)唯恐有聞(ただきくことあるをおそる)

子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わずんば、唯、聞くことあるを恐る。

子路は、先生から何かを学び、それを身につけることが出来ないうちは他に学ぶことが出てくるのを恐れた。
15日 十五、
子貢問曰(しこうといていわく)孔文子何以謂之文也(こうぶんしなにをもってこれをぶんというか)子曰(しのたまわく)敏而(びんにして)好学(がくをこのみ)不恥(かもんを)下問(はじず)是以謂之文也(ここをもってこれをぶんという)
子貢問いて曰く、孔文子、何を以てこれを文と謂うか。子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず、是を以てこれを文と謂うなり。 子貢がお尋ねした。孔文子は何故、文という諡を得たのですか。
孔子が申された、「孔文子は、明敏で学問を好み、後輩や目下の者に教えを請うを恥じない。だから、文と諡されたのだ」。
16日

十六、
子謂子産(ししさんにいう)君子之道四焉(くんしのみちしあり)其行己也(それおのれをおこなう)(や、きょう)(その)事上也(かみにつかえるや)(、けい)其養民也(そのたみをやしなう)(や、けい)其使民也(そのたみをつかう)(や、ぎ)

子、子産を謂う、君子の道四あり。その己を行うや、恭、その上に事うるや、敬、その民をつかう、恵、その民を使うや、義。 孔子が私淑された子産について論じられた、「あの人は君子たる四つ道を備えていた。己の身を持するに厳格、君主に仕えるに敬虔、行政では人民に情け深く、人民の使役には公正であった。
17日

十七、
子曰(しのたまわく)(あんぺい)平仲善与人交(ちゅうよくひととまじわる)久而人(ひさしくしてもひと)敬之(これをけいす)

子曰く、晏平仲、善く人と交わる、久しくして人これを敬す。

孔子が申された、「晏平仲人は、誰とでも良く交流するが、長い交際をしても皆からの敬意は失われなかった」。

18日

十八、
(しのたまわく)曰、(ぞう)(ぶん)仲居(ちゅうさいを)(えおき)(せつを)(やまに)(しせつを)(もかきす)何如其知也(いかんぞそれちならん)

子曰く、臧文仲、蔡を居き、節を山にし、税(せつ)に藻かきす。いかんぞ、それ知ならん。

孔子が申された、
「臧文仲は、一族の宗廟に国君並みに祭亀を備え、節は山形に彫り、梁には藻を描いた。僭越な行為である、智者だと言えない」。

19日 十九、
子張問曰(しちょうとうていわく)令尹子文三仕為令尹(れいいんしぶんみたびつかえてれいいとなるも)無喜色(よろこぶいろなし)三已之(みたびこれをやめられるも)無慍(うらむいろ)(なし)旧令尹之(きゅうれいいのまつり)(ごとは)必以告新令尹(かならずもってしんれいいにつぐ)何如(いかん)子曰(しのたまわく)忠矣(ちゅうなり)(いわく)仁矣乎(じんなるか)(いわく)未知(いまだしらず)(いずくん)(ぞじん)(なるをえん)崔子弑(さいしせいの)(きみを)(しいす)(ちんぶんし)文子(うまじゅう)有馬(じょうあり)十乗(じゅうじょう)棄而違之(すててこれをさる)至於他邦(たほうにいたれば)則曰(すなわちいわく)(なおわれが)吾大夫崔子也(たいふさいしのごとし)違之(これをさる)至一邦(いっぽうにゆけば)則又曰(すなわちまたいわく)(なおわが)吾大夫崔子也(たいふさいしのごとし)違之(これをさる)何如(いかん)子曰(しのたまわく)清矣(せいなり)(いわく)仁矣乎(じんなるか)(いわく)未知(いまだしらざるなり)(いずくんぞ)(じんなる)(をえん)
子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび令尹と為るも、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)められるも、慍む色なし。旧き令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如。
子曰く、忠なり。曰く、仁なるか。曰く、いまだ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。崔子、斉君を弑す。陳文子、馬十乗あり、棄ててこれをさる。他邦に至れば、則ちまた曰く、猶、吾が大夫崔子のごとし。これを違る。一邦に至りて、則ちまた曰く、猶吾が大夫崔子がごとし。これを違る。何如。
子曰く、清なり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知らざるなり。いずくんぞ仁なるを得ん。

子張がお尋ねした。楚の高位・令尹に子文は三度就任したが嬉し顔もせず、三度令尹をやめさせられても怨みがましい顔をせず、必ず新しい令尹へと引き継ぎました。これ、いかがですか。
孔子は申された、「それは誠実(忠実)だ。」子張はまたお尋ねした。仁でしょうか。
孔子は申された、
「彼は智者ではない。仁であるといえない」。

更に、子張がお尋ねした。斉の家老の崔子が斉の君主(荘公)を殺した時、家老の陳文子は4頭立ての10台の戦車を持っていたが、それを捨てて斉を立ち去った。他の国に行くと、やはり、ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいると言ってそこを去り、別の国に行くと、また、ここにも同じような人物がいる。と言い去りました。これは、いかがでしょうか。
孔子は申された、
「清潔だ」。子張が尋ねた。仁といえるでしょうか、孔子が申された、「彼は仁者とは言えない」。
 

20日

二十、
季文子三思而後(きぶんしみたびおもいてしかるのちに)(おこなう)子聞之曰(しこれをききてのたまわく)再思斯可矣(ふたたびせばすなわちかなり)

季文子、三たび思いて而る後に行う。子、これを聞きて曰く、再びせば則ち可なり。

季文子は三度考えてから実行した。
孔子、これを聞いて言われた、
「二度考えて、それで良い」。

21日 二十一、
子曰(しのたまわく)(ねい)武子(ぶし)(くにに)(みちあ)道則(ればすな)(わちち)(くにに)無道則(みちなければすな)(わちぐ)其知可及也(そのちはおよぶべきも)(そのぐは)愚不可及也(およぶべからざるなり)
子曰く、寧武子、邦に道あれば則ち知。邦に道なければ則ち愚。その知は及ぶべきも、その愚は及ぶべからざるなり。

孔子が申された、
「寧武子は、国に道のあるときは智者、国に道なき時は愚者となった。その智者ぶりは真似ができるが、その愚か者ぶりは真似ができない」。

22日

二十二、子在陳曰(しちんにありしときのたまわく)(かえ)与帰(らんかかえ)(らんか)吾党之小子狂簡(わがとうのしょうしはきょうかんにして)(ひぜん)(として)(しょうを)(なせども)不知所以裁之也(これをさいするゆえんをしらず)

子、陳に在りし時曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子は狂簡にして、斐然として章を成せども、これを裁する所以を知らず。 孔子が陳の国で申された、
「帰ろうか、帰ろうか。郷里の弟子達はやたら大言壮語するばかりだ。それを切り盛りし役立たせる方法が分かっておらぬ」。
23日

二十三、
子曰(しのたまわく)伯夷叔(はくいしゅく)(せいは)不念(きゅうあくを)旧悪(おもわず)(うらみ)(ここを)(もって)(まれなり)

子曰く、伯夷・叔斉、旧悪を念わず。怨み是をもって希なり。

孔子が申された、
「伝説の忠臣・伯夷・叔斉は、古い悪事をいつまでも気にかけなかった。人を恨むことはほとんどなかった」。

24日

二十四、
子曰(しのたまわく)孰謂微生(だれかびせいこうを)高直(ちょくという)或乞醯焉(あるひとけいをこいいたるに)乞諸其鄰而与之(これをそのとなりにこいてこれにあたえたり)

子曰く、孰か微生高を直と謂う。或るひと醯(けい)を乞いいたるに、これをその鄰りに乞いてこれに与えたり。

孔子が申された、
「誰が微生高を正直だと言ったのだ。ある人が微生高に酢をもらいに来た、彼は隣家から酢を貰ってその人に与えた、そこまでして真っ直ぐな人か」。

25日

二十五、
子曰(しのたまわく)巧言(こうげん)令色(れいしょく)(そくきょう)(なるは)(さき)丘明恥之(ゅうめいこれをはず)丘亦恥之(きゅうもまたこれをはず)匿怨而(うらみをかくして)(そのひ)其人(とをともとするは)(さきゅ)丘明恥之(うめいこれをはず)丘亦恥之(きゅうもまたこれをはず)

子曰く、巧言・令色・足恭なるは、左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。怨みを匿してその人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。 孔子が申された、
「弁舌が巧み・表情が豊か・腰が低い、かかる外見を左丘明は恥じた、丘(孔子)も恥とする。
怨みの気持ちを隠して友人とするのは、左丘明は恥と考えた。私もそうだ」。
26日 二十六、
(がん)(えん)()()(じす)子曰(しのたまわく)(なんぞおのおの)各言(なんじのこころ)爾志(ざしをいわざる)子路曰(しろいわく)願車馬衣裘(ねがわくばくるまうまころもけいきゅう)与朋友共敝之而無憾(ほうゆうとともにしこれをやぶりてもうらむことなけん)顔淵曰(がんえんいわく)願無伐(ねがわくばぜんにほこる)(ことなく)無施労(ろうをほどこすことなけん)子路曰(しろいわく)願聞子之(ねがわくばこのこころ)(ざしをきかん)子曰(しのたまわく)老者安之(ろうしゃこれをやすんじ)朋友信之(ほうゆうこれをしんじ)少者懐之(しょうしゃこれをなつけん)
顔淵・季路侍す。
子曰く、なんぞ、各々爾の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣裘(いきゅう)、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りても憾(うら)むことなけん。顔淵曰く、願わくは善に伐ることなく、労を施すことなけん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者これをやすんじ、朋友これを信じ、少者これを懐けん」。
顔淵と季路とがお側にいた。孔子が申された、
「それぞれお前達の志を話しみなさい」。
子路は言った、車や馬や着物や毛皮の外套を友と一緒に使って、それがいたんだとしても気にしないようにしたい。顔淵は、善い行いを自慢せず、辛いことを人に押し付けないようにしたい。
子路は言った、出来るならば、先生の志望をお聞かせ下さい。
孔子は申された
「老人には安心され、友達には信用され、若者には慕われるようになりたいものだ」。
27日

二十七、
子曰(しのたまわく)已矣乎(やんぬるかな)吾未見能見其過而内自訟(われいまだよくそのあやまちをみてうちにみずからほむる)者也(ものをみざるなり)

子曰く、已んぬるかな。吾未だ能くその過ちを見て内に自ら訟むる者を見ざるなり。

孔子が申された、
「この世も最早ここまでか。私はまだ自分の過ちを認め、内面で自分を責めることができる人物を見たことがない」。

28日 二十八、
子曰(しのたまわく)十室之邑(じっしつのゆうにも)必有忠信如(かならずちゅうしんなること)(きゅうの)者焉(ごときものあらん)不如丘之好学也(きゅうのがくをこのむにはしかざらん)

子曰く、十室の邑にも、必ず忠信ならんこと丘の如き者あらん。丘の学を好むには如かざらん。

孔子が申された、
「10戸程度の村里にも、真心のあること私のような人間もいるであろう。さらに修養を積みたいという点では、丘(私)以上はいないのではないか。
21日

二十三、
子曰(しのたまわく)知者(ちしゃはみず)(をこ)(のみ)仁者(じんしゃはやま)楽山(をこのむ)知者動(ちしゃはどう)仁者(じんしゃは)(せい)知者(ちしゃはた)(のしみ)仁者(じんしゃはいの)寿(ちながし)

子曰く、知者は水をこのみ、仁者は山をこのむ。知者は動、仁者は静。知者は楽しみ、仁者はいのちながし。

孔子が申された、
「知者は水を好み、仁者は山を楽しむ。知者は動的、仁者は静的である。知者は積極的に人生を楽しみ、仁者は静かで、天寿をつつがなく生きる」。