日本人国家としての仁徳王朝
平成27年6月
1日 | 日本人国家としての仁徳王朝 | 江上教授が指摘されたように、前期古墳文化と中・後期古墳文化の質的変化が騎馬民族文化の浸透というような形からで説明できるとすることは、一面的には承認してよいかも知れません。仁徳王朝は騎馬民族文化を残していた国家であるため、そうした面があることを完全に否定することは出来ないと考えるからです。 |
2日 | 騎馬民族日本征服は出来ない |
しかし、私はその変化から江上教授が言われるような「騎馬民族による日本征服」という歴史構成は出来ないと思います。その変化は、あくまで日本国内における地方国家レベルでの抗争から発生した王朝交替劇がもたらしたものと見るべきです。 |
3日 | 侵入というより移住 |
仁徳王朝は確かに騎馬民族文化の伝統を持つ支配層を持ちますが、彼らの祖先である騎馬民族の日本への移動は西暦以前のことで、以来日本に定住していたわけです。日本の国家成立以前のその時期の移動は、若干の先住民に対する征服や懐柔はあったにせよ、侵入というより移住とみなした方がよいかもしれません。 |
4日 | 奴国建国、狗奴国建国を経て、仁徳王朝 |
その移住から奴国建国、狗奴国建国を経て、仁徳王朝にたどりつくまで何百年という歳月が流れ、その間の長期の混血と同化は、騎馬民族としての種族的性格を日本民族の文化の中に馴化させていったはずです。言い換えれば、仁徳王朝の騎馬民族性というものは、いわば生粋の騎馬民族文化ではなく、既に日本化してしまつたた騎馬民族文化とでも言うべきものです。 |
5日 |
従って、いかに仁徳王朝の東遷の時期、つまり前期古墳から中期古墳の境目に文化的隔絶が見られるとは言っても、それは江上教授が言われる騎馬民族文化複合体がそっくりそのまま何人かによって持ち込まれた、つまり、騎馬民族の日本征服があったとするほどの大激震とはなっていないのです。 |
|
6日 | 前期と中期古墳の変化はどう解釈できるか |
江上教授は前期古墳と中・後期古墳の間には、急転的・突発的な文化変化が見られるとするわけですが、果たしてその変化が騎馬民族による日本征服を立証できるほどの変革と言えるのかは大いに疑問です。確かに副葬品などの変化は顕著ですが、前方後円墳とか石室はただ大きくなったと言うだけのことで構造そのものに変化はありません。 |
7日 |
また大陸系の横穴式石室の出現を指摘されるのですが、仁徳王朝の第五世紀においては、九州に横穴式石室は見られても畿内ではまだ前期以来の竪穴式石室が主流といってよい状態です。従って、両古墳文化の間に、一線的つながりが全くないということではないのです。 |
|
8日 |
副葬の変化にしても、必ずしもそれを征服騎馬民族国家の出現として捉える必要はないと思います。 |
|
9日 |
それまで見られなかった馬具や挂甲(かけよろい)が出てくるわけですが、これらの北方系の馬具が大量に出土したことは乗馬の風習が盛行していたことほ示します。 |
|
10日 | 騎馬民族渡来に非ず |
そうした点が、騎馬民族に結びつけられるのですが、馬匹文化の出現は、高句麗との交戦によって仁徳王朝の支配層が乗馬の風習を学び取り、それが実用品の馬具の副葬という結果になったのだと考えます。騎馬民族渡来による変革とは考えません。 |
11日 | 註 |
馬鐙 |
12日 |
騎馬民族征服王朝説を否定する古墳 |
騎馬民族が、第四世紀にしろ、第五世紀にしろ、日本にやってきて征服して国を建てたというのであれば、少なくとも中期、副葬に馬具が出てくるこの時期に、もっと多くの実戦的な馬具・武器類が出てこなければならないと思います。 |
13日 | 騎馬戦 |
例えば馬鐙などは大事なものですが、その馬鐙は紀州以外からは一例も発見されていないのです。馬鐙がなくて騎馬戦が行われたとは考えられません。 |
14日 | 出てくる刀は全部直刀 |
刀もそうです。日本の場合は前期も中期も後期も、古墳から出てくる刀は全部直刀です。ずっと後の時代、鎌倉時代まで直刀です。曲刀がありません。然し、騎馬民族の刀は全部曲刀なのです。 |
15日 | 騎馬民族の存在を否定 |
弓も騎馬民族の存在を否定します。騎馬民族の弓は短弓ですが、日本の古墳から出てくる弓は全部長弓です。長弓だと馬に乗って使えません。歩兵なら長弓でもかまいませんが馬上ではもっと短い弓でなければ使用できないのです。 |
16日 |
また、騎馬民族であれば、当然、騎馬戦を行うわけですが、では当時の日本で騎馬戦が行われたかと言うと、どうみても騎馬戦が行われた様子がありません。 |
|
17日 | 騎馬戦なし |
例えば、壬申の乱を見ても、騎馬戦が行われたということはただ一回しか記述されていず、後は全部歩兵戦です。騎馬民族の伝統がずっと続いているならば、騎馬戦法が日本の戦法の中心になっていたはずです。古墳や史料は、騎馬民族の日本征服を否定しているように思います。 |
第五章 蘇我一族の野望と聖徳太子の謎 |
||
第33講 大伴氏の繁栄と失脚 |
||
18日 |
第六世紀までの古代史概観 |
本章の講義は、おおむね第六世紀から第七世紀初頭を中心とした古代史、王朝で言えば継体王朝の創成期とでも言うべき時期を扱うのですが、その前に、これまでの講義を整理して第六世紀までの流れを把握しておきましょう。 |
19日 |
先ず第一章において、私達は「記紀」の記す歴代天皇の中に架空の天皇が配置されていたり、創作された伝承があることを見ました。 |
|
20日 | 架空の天皇 |
神武天皇から九代天皇までは架空の天皇であり、真に初代天皇とみなすべき大十代崇神天皇から後にも何人もの架空天皇がつくられていたのでした。 |
21日 | 神聖化・権威化 |
何ゆえに架空の天皇や創作された伝承・伝説があるのかと言えば、記録なき古い時代のことである為に正確な史実がわからなかったと言うこともあるでしょうが、「記紀」編集期の思想(中国の数理論)や天皇家を神聖化・権威化しようという思惑から創作がなされたからでした。 |
22日 | 「記紀」の記述に信憑性 |
一般に「記紀」の記述に信憑性が認められるのは、文字の記録が次第に普及し始めたとみられる仁徳天皇以降のことで、継体天皇以降の記事になると概ね信頼してよいものといえます。 |
23日 | 弥生時代の統一運動 |
それでは、仁徳天皇以前の時代、即ち崇神王朝やそれ以前の時代はどうなつていたかと言えば、主に中国の文献や考古学的な知見から、第二章で見たような情勢が考えられるわけです。 |
24日 |
つまり、縄文時代の原日本人の文化の上へ移住してきた騎馬民族を初めとする他民族の文化が加わって弥生文化が営まれるようになり、小国家が発生し、次第に統一への運動が起こって戦乱の時代が続いたとみられるのです。 |
|
25日 | 狗奴国による九州統一 | 九州では、倭奴国や邪馬台国・女王連合、そして騎馬民族出身者を支配層とする狗奴国などが興り、最終的には狗奴国による九州統一が行われたとみられます。 |
26日 |
また、本州島西半分においては原大和国家が勢力を伸張し、やがて吉備や出雲の地方国家をも飲み込んで崇神王朝を樹立するまでに発展したと見られます。 |
|
27日 | 狗奴国と崇神王朝 | 総じて、弥生時代は、クニの発生から九州統一国家と本州西半の統一国家、即ち狗奴国と崇神王朝である原大和国家の対決までを準備した時代だとみることができます。 |
28日- 30日 |
原大和国家 |
その間、九州においては、大陸の文化を積極的に取り入れ、また朝鮮に植民地を確保かるなどして先進文化の移入につとめていたのでした。 |