徳永圀典の「日本歴史」28
平成20年6月度

 1日 国際社会への復帰
日本は、表面的独立と同時に、アメリカの要請で、台湾の中華民国と講和条約を結んだ。また戦後、東南アジアで独立した諸国に対し、戦争被害の賠償を開始した。ソ連は、国後、択捉など北方領土を無断占領したまま日本に返還しないばかりか、日本領土と認めない ので平和条約を締結できないでいる。
だが、1956年、昭和31年、日ソ共同宣言で一応戦争状態は終結し国交回復はした。当時の大国・ソ連も反対しなくなり、日本も昭和31年に国連加盟を果し正式に國際社会に復帰した。
 2日 冷戦 日本が独立を回復し復興に努めている間、アメリカとソ連を中心とした両陣営の冷戦が激化して行く。両国は原子爆弾より大きな破壊力ある水素爆弾を開発し、核兵器開発の核実験を繰り返した。 昭和29年、太平洋ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で日本漁船が被爆した。原爆被爆の生々しい体験を持つ日本人間に原爆禁止運動が盛り上がった。
 3日 東西冷戦の激化 米ソ両国は、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を配置するなど対立は激化し緊迫していった。 冷戦により分断されたドイツのベルリンではソ連側とヨーロッパ側、共産主義と自由主義との対決の壁を築き緊張が一段と高まった。
 4日 キューバ危機 1962年10月、ソ連・フルシチョフ首相は、アメリカの懐にあるキューバに核ミサイル基地を建設しようとした。アメリカ・ケネディ大統領は決断しソ連船舶を阻止し、米ソ間に核戦争が勃発しかけた。 この経験から、米ソは協議の上、互いの核兵器生産や配備を管理する必要を感じ1963年には、アメリカ、イギリス、ソ連間に部分的核実験停止条約が締結された。
 5日 核拡散防止条約 1968年、核保有国を、アメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランスの5ヶ国に限定した。 そして、他の国への核兵器や、その開発技術の移転を禁止する「核拡散防止条約」の推奨決議も採択された。
 6日 アメリカの威信低下 1965年、アメリカは北ベトナムと対立する南ベトナムを支援する為、直接軍隊を派遣した。中国、ソ連は北ベトナムの反政府勢力を支援した。然し、アメリカは勝利を得ることが出来なかった。

アメリカ本国、日本を含む各国でアメリカの軍事介入非難が高まり1973年、アメリカはベトナムから撤退した。2年後、北ベトナムは南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、太平洋戦争後、初めてアメリカの威信は大きく傷ついた。 

7日
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10日
アメリカの威信低下



日米安保条約の改定
1965年、アメリカは北ベトナムと対立する南ベトナムを支援する為、直接軍隊を派遣した。中国、ソ連は北ベトナムの反政府勢力を支援した。然し、アメリカは勝利を得ることが出来なかった。
アメリカ本国、日本を含む各国でアメリカの軍事介入非難が高まり1973年、アメリカはベトナムから撤退した。2年後、北ベトナムは南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、太平洋戦争後、初めてアメリカの威信は大きく傷ついた。
 

ソ連のフルシチョフ第一書記は、1956年、スターリン政策ょ批判し、アメリカとの平和共存を提唱した。「雪解け」と言われる米ソ冷戦緩和が始まりソ連社会も自由化の進展が見られだした。これを受けてポーランドやハンガリーでは自由化の動きがあった。

だがソ連はこれを武力で鎮圧した。1968年にはソ連はチェコスロバキアの自由化を軍事介入で抑圧し世界はソ連に失望した。 日本ではも朝鮮特需の後、昭和29年末から長期の好景気に恵まれた。造船、鉄鋼、電気、機械、石油化学などの産業が成長していった。経済は戦争前の水準に復帰した。人々の生活も漸く安定を戻し、昭和31年、敗戦後10年にして「最早や戦後ではない」と言われるようになった。昭和32年、岸信介首相は、日本の経済復興を背景に日米安保条約の改定を目指し、昭和351月、新しく日米相互協力、と安全保障条約をに調印した。日米経済協力と、日本の防衛力の強化、そしてアメリカの日本防衛義務を明記し、在日米軍の行動に関する両国政府の事前協議などの内容で、これにより日米両国はより対等な関係になった。 
11日 近眼視の革新勢力

共産党や中華人民共和国との関係の深い社会党などの革新勢力は、米ソ冷戦の代弁者であり、日本のアメリカ寄りの安保を強く批判した。

その最中、昭和355月、自民党が新安保の国会承認を強硬採決した為、国会周辺をデモ隊が取り囲むという大きな騒乱となった。ソ連とか中国と深い関係の革新勢力の愚かな行為である。これは歴史的に大成功であったのは事後の歴史で明白である。 
12日

所得倍増計画

新安保条約を見届けた岸信介総理は辞職し池田勇人が総理となる。池田は自民党結党時の課題である憲法改正や防衛力強化を棚上げした。 池田は所得倍増政策を掲げ国民の目先の支持確保に努めた。これが今日までづるづると続き、日本が普通の国家になっていない遠因であり自民党は責められるべきである。
13日 戦後の思想 なんと言っても過去例の無い世界的大戦争を起こしたのだから、思想の世界では、戦争への反省が大きなテーマとなったことは当然であろう。 それは日本歴史の考察ということでもあった。丸山真男、大塚久雄は、戦争原因は日本の近代化の在り方に欠陥があるとして戦後をリードする所謂進歩的文化人の代表格となった。戦後早々の反動である。 
14日 和辻哲郎らは 和辻哲郎や津田左右吉らは天皇制を擁護し大正時代のような正常な日本に復帰すれば良いという至極最もな考え方であった。 丸山真男らは、巨大な社会的出来事の発生した後の視界閉塞による瞬間反応であり、歴史のバブルに過ぎない。事態の平穏化と共に和辻氏のような思考に復元するのが人間性である。
15日 文学

谷崎淳一郎が戦後早々「細雪(ささめゆき)」を発表して、失われた戦前の関西の都市生活を通じて日本人の生活原型を描いて話題となった。

川端康成は日本的な美の探究、野間宏は軍隊生活、椎名麟三は都市労働者、武田泰淳は知識人の重苦しい心を描写した。
16日 推理・歴史小説 西欧文学の影響を独特に消化して理知的な作風の三島由紀夫は「仮面の告白」で芸術家の自意識を、大岡昇平は「俘虜記」で前線の兵士の意識を絶妙にとらえた。1950年代となると石原慎太郎のような行動的作

家も現れた。松本清張は新しい世界の推理小説を開いた。井上靖は歴史小説で真価を発揮して広く読まれた。1960年代となると司馬遼太郎が幕末や日清日露戦争へ新しい見解を示してブームを呼んだ。 

17日

小林秀雄

文芸評論という分野を確立した小林秀雄は注目された。 湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一らはノーベル賞受賞。
18日 文化の大衆化 戦後は大衆文化が一層進んだ。ラジオ、レコードによる歌謡曲は著しく普及した。リンゴの歌、青い山脈、上を向いて歩こうなど、後世まで記憶の残る名曲であった。 美空ひばりは全国民的に親しまれる歌手で早世したが、その歌唱力は抜群のもので今尚どこかで歌われている。だが現在は日本人は一億総白痴化の痴呆である。
19日 映画とテレビ 黒澤明の骨太で雄大な構想、小津安二郎の日本人家族の日常描写、などは国際的にも高い評価を受けた。 昭和28年テレビ放送開始により映画は次第に追いやられテレビは1970年代の普及率は90パーセントに達し現在はバカ番組ばかり。
20日 昭和天皇崩御

昭和天皇、124代天皇が崩御されたのは昭和6417日朝である。その知らせを聞いて、実に多数の国民が皇居前に集まった。広島で被爆して東京に住む68才の或る老婦人は「ずうっーとね、昭和天皇と一緒に苦労してきた、という気持ちがあるんですよ」と語った。これが大多数の国民の気持ちである。

この老婦人を初め、皇居前では、更に全国各地では、若者、老人、主婦、サラリーマンなど、様々な人々が、昭和天皇の時代の持つ意味を静かに思いを巡らせたのである。一時代は去ったと。だが、父親の如き慈愛を抱いた国民が大多数であった。敗戦国だが、戦時中の元首唯一のご長命、日本の繁栄、世界各国元首の葬儀参列の模様は忘れ難い。
21日 昭和天皇のお人柄 昭和天皇は明治34429日、時の皇太子、後の大正天皇の第一子として誕生された。御名(ぎょめい)(みちの)(みや)(ひろ)(ひと)。ご幼少の頃から、極めて真面目で誠実なお人柄であった。即位の後、昭和611月、九州鹿児島から軍艦に乗り帰京される時、天皇が夜になり暗くなった海に向 かい一人挙手の礼をされているのを、お付の者が見つけて不思議に思った。そこで海の彼方を見ると、遠く暗い薩摩半島の海岸に、天皇の軍艦をお見送りする為に住民たちが焚いたと思われる篝火の火の列が見えた。天皇はそれに向かい答礼されていたのである。お付の者が感激し早速、軍艦からサーチライトが点灯され海岸を照らし出した。 
22日

昭和天皇の時代

昭和天皇が即位されたのは、日本かが大変大きな危機を迎えようとした時期であった。昭和天皇は各国との友好と親善を願っておられだが、時代はその希望と異なる方向へ進んでいった。 昭和天皇は立憲君主として、政府や軍部の指導者が決定したことに介入すべきではないとの考え方が基本にあり、ご自身の意に反して、それを認められる場合もあった。
23日 昭和天皇のご決断その一 昭和天皇は、ご自身の考えを強く表明されて事態を収拾された事が二度あった。 一つは、昭和11年、1936年の「二・二六事件」の時であった。この事件で政府や軍部は混乱状態に陥った。そうした中、昭和天皇は反乱を断固として鎮圧すべきであると主張され事件は急速に解決むした。
24日 「終戦ご決断時の御製」

「爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも」

君主としての責任を、ひしと身に感じておられ、ご自身の身はいかなろうとも、と言われた。私は涙なしに詠むことは出来ない。神様のような君主だと思う。 
25日 マッカーサーの感動 昭和天皇の人間性に感動したのがマッカーサー占領軍総司令官であった。昭和天皇がマッカーサー司令部を訪問された。マッカーサーは敗戦国の君主が「戦争犯罪者として起訴されないように、自分の立場を訴えて命乞い」に来たと思ったらしい。
だが、昭和天皇は「私は、戦争遂行にあたり行った総ての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身を、貴方の代表する諸国の裁決に委ねる為にお訪ねした」と表明された。マッカーサーは「大きい感動に揺すぶられた」、「死を伴う程の責任、明らかに天皇の帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした」と回想録に記しているのだ。日本国民は、声涙を以て、有難く貴い君主を奉戴していたと感謝しなけれぱならない。
26日 素朴で真摯なお人柄 その昭和天皇は、敗戦後、日本の国民を励まそうと、日本各地を巡幸され、復興に努め励む人々と親しく言葉を交わされ励まされた。この時、天皇のお言葉は「あっ、そう」という簡単な一語だけという事が多かったが、天皇の素朴で飾り気の無い応対の中に、国民 は昭和天皇の真心をひしと感じた。ある時などは、群衆の中から自然に「天皇陛下万歳」の叫び声が起り、やむことが無かったのである。このように昭和天皇は、激動する昭和の時代の中で、生涯を通して日本国民と共に歩まれたのである。
27日 御製
昭和21 御歳46
 
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ
 松ぞををしき人もかくあれ

敗戦直後マッカ-サーに自分の身はどおなってもいい国民の飢餓を救ってといわれた頃。涙があふれる 。こんな元首は世界にいない。日本人は忘れてはならぬ。

28日 敗戦決断の御製 「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
昭和20年 御歳45敗戦時
伝統の国柄を護り貫かれたお気持ちがひしひしと伝わる。
29日 御製 開戦1年前、 「西ひがしむつみかはして榮-さか-ゆかむ世をこそいのれとしのはじめに」
 昭和15年 御歳40

開戦1年前、世界平和こそ陛下のご真情であったが軍部が親の心、子知らずで日本は敗北した。 

30日

御製 
75歳

「わが庭の宮居に祭る神神に世の平らぎをいのる朝朝」
 昭和50年 御歳75

毎朝国民の平安をのみ祈られている天皇、深く心に刻まれる。浩宮皇太子様!