日本、あれやこれや その50
平成20年6月度
1日 | バジル・ホール・チェンバレン |
イギリス人だが、日本の学者、東大で日本語学の教授であった。ラフカディオ・ハーンと深い交流があり、日本研究に励み、万葉集などに造詣が深かった。 |
彼は、日本にはよい本が沢山あり、またよい人が多い。良い本を見て、良い人の魂に触れるということは良いことである。万葉集の「よき人のよしと見てよしと言いし」の歌のようだと。 |
2日 | 勉学と教育の国・日本 |
日本は古来から、本を読み、勉学にいそしんだ。連綿たるその流れは途切れることなく、平安期には女流文学隆盛となり、世界初の女流小説である紫式部の「源氏物語」を生んだ。今年はその1000年期となる。古い国の中国もそしてヨー |
ロッパにも無かった時代にである。 江戸時代は、武士は「藩校」で深い教育を受け、庶民は「寺子屋」で勉強した。このように脈々と勉学をして然も高いレベルであり識字率も文盲率も世界最高であった。 |
3日 | 急成長ではない近代日本 |
世界を驚かした明治維新は、何もない所から急に出来たものでもない。古くから学問・教育を連綿と続け、過去にしっかりと根を張った土台が国民にあったからである。だから革命のような大変革にも耐えることが出来たのである。 |
然も新しいものに直面しても、それを回避するのでなくて、取り入れでアレンジし日本風に変貌させるという日本システムが卓越している。「輸入文明同化作用」とチェンバレンと言う。 |
4日 | 日本の女性 |
明治時代に来日した外国人で、日本女性を賞賛する人は大勢いた・チェンバレンも、「日本の婦人は極めて女性的である。親切で、優しく、誠実で、愛らしい」と。 |
ペリー提督の、日本遠征記では「人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心である。教育は至る所に普及しており、又、日本婦人は、中国の婦人と異なり男と同じく知識が進歩している。女性独特の芸事にも熟達しておるばかりでなく、日本固有の文学にもよく通じている。」 |
5日 | 日本と西欧との対比 |
チェンバレンは、日本と西欧との相違は「西洋を旅行したことのある日本人は、我々西洋の著しい特徴として、「汚いこと」「怠け者」であること「迷信的」であることの三点を挙げる。 |
西洋は不潔で、「汚い」と自ら認めているのである。また、日本人の働き好きの人種の目から見て欧米人は余程の「怠け者」で、仕事をしない民族と映ったのであろうとしている。 |
6日 | 働き好きは神代から |
日本人の働き好きは神様の時代からである。天照大神が「機を織っている」ことが古事記、日本書記に書かれている。偉い神様が自ら働いているのである。 |
西欧キリスト教では、アダムとイヴが禁断の林檎を食べた罪により、罰として与えられたのが労働なのである。日本では、勤労は美徳であり、西欧では労働は罰なのである。連綿たる学問教育と勤労が日本人を勤勉実直な国民に育ててあげたのだ。 |
7日 ーー 10日 |
日本人の美徳 野蛮な欧米人の驚き |
外国人が迷信的であると捕えたのは面白い。これは外国旅行をした日本人が、西欧の機械産業の素晴らしさに驚嘆した一方、汚い、怠け者、などよくない事も目の当たりにした。 だから逆に、日本人の美徳をよく認識し「日本人旅行者は、一般に考えられている程、欧米を素晴らしい国だとは思わないのであった。外国に行き、自分の国の素晴らしさを感じて帰国するのは現在も明治時代も同じなのである。 ポルトガルの宣教師で秀吉の時代に日本に伝導に来た。彼は長崎二十六聖人の殉教を目撃している。筆まめな男で日本の当時の政治、経済状況、文化、思想、生活、風俗などを記録している。 |
日本人の文化やレベルの高さが信じられないフロイスであったのだ。日本文明は平安時代には既に源氏物語を女性が書いていたのであり、お尻を紙で拭いていたのである。西欧のそれは500年後であり大いに文化程度は日本が高かったのである。 日本では、家の入口で靴を脱ぐ、ヨーロッパ人は靴を脱がない。文字の書き方は、右から縦に書く日本人、それに対して欧米人は左から横に書く。 箸を使う日本人、手でつかむ欧米人、野蛮なのは欧米人である。欧米人がフォークなど使うようになったのは、17世紀になさつてからである。野蛮なものだ。 |
11日 | 優秀な 日本人の子供の観察 |
ヨーロッパの子供はも青年になっても決して、口上一つ伝えることが出来ない。だが、日本の子供は、十歳でも、それを伝える判断と思慮に於いて五十歳にも見受けられる。と驚いている。レベルは低い欧米人である。 |
ヨーロッパ人の間では、四歳の子供でも、自分の手を使って食べることを知らない。日本の子供は三才で箸を使い自分で食べると驚いている。 |
12日 | レベルの高い日本の子供 |
ヨーロッパ人の子供は、立ち居振舞いに落ち着きがなく、優雅を重んじない。 |
日本の子供は、その点、非常に完全で全く賞賛に値いする。なんという賢明な子供であるとフロイスは記録している。 |
13日 | フロイスの信長観察 1 |
私を最も驚嘆させたのは、この王・信長がいかに異常な仕方で、また驚くべき用意を以て、家臣団に奉仕され畏敬されていたかである。即ち、信長が手でちょっと合図するだけでも、家臣は極めて凶暴な獅子の前から逃げるように直ちに消え去り、また大慌てした。 |
信長の一報告を伝達する者は、それが徒歩であれ馬であれ、飛ぶか、花火が散るように行かねばならない。都で大いに評価される公家最大の寵臣のように殿も、信長と語る際には顔を地につけて行い、信長の前で眼を上げるような者は誰もいなかった。 |
14日 | フロイスの信長観察 2 |
一方で信長は、「寛大、かつ才略に長け、生来の叡智により日本の人心を支配する術を心得ていた」 |
それは、楽市楽座により税を免除したり、内裏の邸宅費を再建したりして「平和と安静を回復するように努めた」 |
15日 | フロイスの信長観察 3 |
信長が、直情径行でない、大胆さ、性格の激しさ、計算された行動などを窺うことができる。また、信長の食事に呼ばれた時 |
「汁をこぼさぬように」とフロイスに丁寧な注意をしたので、幼い信長の子らは、父が自分たちにもしたことがないような特別な遇し方を見て驚いてじっと見つめたいたという。 |
16日 | レザノフ |
ニコライ・レザノフとはロシアの実業家、外交官である。1804年、通商交渉のため長崎に来た。 |
彼は、長崎で、役人たちの常識を弁えた対応を見て、通訳や、警護の役人は優しく世話をしてくれたので「本当に満足した」と述べている。 |
17日 |
当時の日ロの状況 |
1782年、伊勢の船頭・大黒屋光太夫が漂流し、ロシア領のアリューシャン列島に着いた。彼はペテルブルグに連れて行かれ、皇帝エカテリーナ二世に謁見した。皇帝に「ベンヤシコーー可哀想に」と声をかけられている。 |
1792年、ラクスマンが通商交渉の為に日本に行く際に、光太夫も伴われ、根室に到着し帰国が叶う。然し、ラスクマンは日本に通商を拒否され帰国した。 |
18日 | 緊迫する日ロ |
1800年、レザノフが、ラスクマンの持ち帰っ長崎入港許可証で長崎に来航した。レザノフも通商交渉が不調で引き上げたが植民地域の食糧確保を急ぐ為、樺 |
太、えとろふ島襲撃命令を出す。襲撃に驚いた幕府は、ロシア対策を強化、探索を行い、間宮林蔵の「間宮海峡」を発見する。 |
19日 | ロシア正式来航 |
日本は襲撃の報復として、1811年国後島にいたロシア船艦長ゴロウニンを捕え幽囚する。 ロシアも対抗し、国後沖で大商人・高田屋嘉兵衛を |
捕え幽閉した。嘉兵衛は帰国しゴロウニンの釈放に尽力する。1813年、ゴロウニンは釈放、その後三回目の正式来航としてプチャーチンが1853年長崎に来航した。 |
20日 | 川路聖謨 |
プチャーチン来航時には、高名な作家・ゴンチャロフが航海記録秘書として乗船していた。そして、日本 の全権大使・川路聖謨に感服し絶賛しているのである。 |
「この川路聖謨をみな好いていた。彼は非常に聡明であった。彼は私達に反駁する巧妙な論法を以て、その知力をし示すのであった。だが、それでもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった」としている。 |
21日 | 川路聖謨 2 |
「川路聖謨の一語一語が、その眼差し一つが、そして身振りまでがすべて常識とウイットと炯敏と練達を示していた。 |
「明知」はどこへ行っては同じである。 民族、服装、言語、宗教が違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」と云っている。 |
22日 | 川路聖謨 3 |
川路聖謨は、外国からガラス瓶や魚などを持ってくるなどして通商しようと持ちかけられた際、贈呈された時計を例にとり、こう述べている。 |
「手前どもは眼も眩んでしまうので、あんなのを外国から持って来るようになったら、日本人は何もかも渡して素っ裸になってしまうでしよう」、開国したらいいようにされ丸裸にされる、うまそうな話のその手には乗りませんと皮肉ったのである。 |
23日 | ゴンチャロフの長崎絶賛 |
「これは何ということだ!飾ったのか、それとも本物か、何という所であろうか。杉や、その他、何とも見分けのつかぬ多数の樹木に蔽われた、遠近の山々が濃淡様々な緑色を呈して、円形劇場のように層々と重なりあっている。少しも怖ろしいところはない。総ては微笑む自然である」と。 |
「それが総て本物とは思われぬ位に調和が取れていて絵のようであるから、この景色は全部絵に描いたのではないか、魔法のバレーからそっくり持って来たのではないかと疑う程である。どこを見ても、一場の絶景であり、一幅の絵である。さながら名匠の思いを凝らした趣向である。」と日本の風景美の素晴らしさをひしと感じたのである。 |
24日 | ロシアの印象 |
ロシアに連れて行かれた大黒屋光太夫は、ロシアの大地を見て次のように言っている。ツンドラ、ステップ、永久凍土など、ロシアの大地は生活には余りに厳しく景色もよくないと感じていた。 |
「国中、多くは広漠にて不毛なり。山は、みな平山にて高山なし。林も榛荊叢雑なるのみにて甚だ喬木まれなり」と。 |
25日 | 日本を欧州に知らせた男 |
マルコポーロである。 「ジパングは、東海にある大きな島で、大陸から2400キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資に恵まれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。 |
黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまり訪れず、そのため黄金が想像できぬ程豊富なのだ。」 |
26日 | クビライに会った男 |
マルコポーロはイタリア人1275年、蒙古のクビライ・ハーンに謁見し重用された。東方見聞録を書いたが、その中に黄金の国・ジパングとして名を残した。 |
このポーロにより黄金の国・日本が欧州に知られ、大航海時代の刺激となるのである。また、「日本は、どこにも属せず」と言いきっている。どこの文化圏にも属さないと認識していたのである。 |
27日 | 八十日間世界一周 |
フランスの作家ジュール・ヴェルヌは、80日間の中で、日本の横浜からサンフランシスコまでの旅程は22日間と最長である。これはとりもなおさず、横浜が長期航海の出港地として。 |
最良だったと言うことである明治維新後僅か5年にして横浜は最良の重要港として認識されていたのである。食糧、燃料、船員の体調管理に相応しい港と認識されていたのだ。 |
28日 | 江戸は世界一の大都市 |
江戸の人口は、100万を越すもので、明治維新でいきなり日本が世界に頭角を現したものでもない。日本が世界舞台に出たら世界がそう感じただけである。 |
武士は藩校、庶民は寺子屋で世界一の識字率だったのである。文明度の高い日本を世界が知らなかったのである。 |
29日 | 大英断の国・日本 |
当時は、日本は危急存亡の時代、切実に国家のことを考えた武士は、廃藩置県をして、門閥より実力ある人材を登用した。これは他国には中々不可能なことであった。 |
韓国、中国などは百年以上遅れてしまったのである。私利私欲、汚職の中世的隣国ばかりであったのだ。古代から優秀な日本ならではのものがある。 |
30日 |
詩人・ホイットマンの感動 |
勝海舟が咸臨丸で1860年、米国に渡り、日米修好条約を締結した。その時の行列を見てホイットマンは感動した。武士たちの毅然とした姿にである。 |
「西の海を越えて遥か日本から渡来した、頬が日焼けし、刀を二本手挟んだ礼儀正しい使節たち、無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、今日マンハッタンの街頭を行く」。颯爽とした、然も凛とした魂を感じているのだ。 |