「清貧」に就いての考察 その二
平成22年6月度 岫雲斎圀典「清貧に関する考察」索引
1日 | 釈尊の最後の言葉とは、「バヤダンマー、サンカーラー、アッパマデーナ、サンパーデートワ」。である。 「バヤダンマー」は全てのもの。「サンカーラー」は、うつろいゆく。「アッパマデーナ」は、おこたらず。 「サンパーデートワ」は、つとめよ。 まとめると「全てのものは 移ろいゆく 怠らず 努めよ」である。 |
2日 |
「捨は 空といってよい 無といってよい 菩薩の若さ 菩薩の美しさ みなそれは 空からきている 無からきている 捨からきている」。 「また捨は まかせることである 木が美しいのも 花が匂うのも この捨からきている」。 |
3日 |
「歴史を見てみるがよい。民族も国家も個人も みな繁栄のために滅んでいる 持たなくてもよいものを持ったがゆえに自滅した わたくしが釈尊の教えに心ひかれるのは 捨の実践者だからである 国を捨て 位を捨て 妻を捨て 子を捨て 己を捨て 糞 |
4日 |
日本の芸道の特色はやはり「捨」だと言われる。茶道、華道、短歌、俳句、みな究極は「捨」の一字にある。例えば短歌、捨てて、捨てて三十一文字にする。 |
5日 |
人間もどうやら、必要のないものを随分と持ち歩いているということになる。心とて同じと言う。一遍さんは品物だけではなかったのだ。ああ、これで清々しくなった、やっとあの世へ行ける軽い身体になると、物と心を火中に投じられたのであろう。 |
6日 |
幻住庵記に芭蕉の句がある、「いずれか幻のすみかならずやとおもひ捨てて臥しぬ」。どうにもならぬ時はサッと寝てしまうがいいと云う。「おもひ捨てて臥しぬ」とは良い言葉ではある。どうにもならぬ事は受け入れて諦めるしかない。 |
7日 |
最後に、一遍上人語録の中から、華の中の華と言える、興願僧都に示された手紙の一節。「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に最もかなひ候へ」。凛々しい捨である、中々我々凡人には到底叶わぬことである。 |
8日 |
まだある、「万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいうより、生ぜしもひとりなり。死するも独なり。されば人と共に住するも独なり。そひはつべき人なき故なり」。朗々とした捨である。 |
9日 |
このような修業的な追及となると思案に苦しむ。清貧とはとても叶わぬ生き方である。凡人には到底及ばぬものの印象である。このような徹底した在り方を現代人が実行するには聊か問題がある。私は、物の溢れた現代、そこまでしなくても、より清貧な生き方を模索してみたいのである。 |
10日 |
そこで、難しいことを考えないで、清貧とは「心の内なる律を尊ぶ」としたらどうであろうか。心の内なる律とはどういうものか、本阿弥光悦のいい話題があり考えさせられるものがあるので長いが引用してみる。 |
11日 |
本阿弥光悦は書と黒楽赤楽の茶碗と、舟橋の蒔絵ばかりでなく、生涯に亘り最も好んだのが茶道であった。灰屋紹益は、千利休亡き後、茶の心を深く知る者は太虚庵光悦くらいだと言った程である。だが利休の茶とは大違いと言う。その光悦の道具執着に就いてのエピソードがある。 |
12日 |
光悦まだ若かりし時、小袖屋の宗是と言う者が持っている瀬戸肩衝の茶入れを一目見て是非共入手したいと惚れ込んだ。大金であり金策の目途も立たぬ、然し、道具というものは一度欲しいとなると執着が募るものである。何が何でも欲しいと苦慮した。 |
13日 |
光悦の金策と執着で苦慮する姿を見た宗是は気の毒に思った。まけてあげようとなったが光悦は光悦たる処がありまけて貰うのは嫌だと断った。この瀬戸肩衝の茶入れは天下の宝で黄金三十枚の価値はあった。それをまけて貰うのは嫌と断り、取り敢えず住む家を黄金十枚で売り払い、更に人から二十枚借りて初めの言い値通りの値段で遂にそれを手に入れた。 |
14日 |
当時は織田信長、豊臣秀吉と茶道具を尊び、茶道具を知行にする時代だから宝物である。また千利休は一品でもよい宝を持ち普段から使うことを奨めるから茶道を志す人々はかなり無理しても好い物を保有しようとした。 |
15日 |
光悦は好い物を手に入れて同好の士に見せたかつたのである。光悦は、この小袖の茶入れに良い茶を入れて前田の殿様にお目にかかりに行くのであった。前田利家とは縁が深く父親の時代から扶持を貰う程の関係で気軽に殿様に自慢の品を見せに行くのであった。 |
16日 |
前田家も茶の道に心を入れることの深い家柄で光悦がその茶入れに茶を入れて茶を点てて進ぜると大いに気に入られて殿様も光悦もご機嫌であった。 |
17日 |
さて、気に入った殿様は、白銀三百枚にてお譲り致せと家老を通じて言うが光悦は断った。家老は代わる代わる叱ったが決して光悦は承知しない。 |
18日 |
夕暮れに親の家に帰って、今日は、これこれしかじかにて殿様のご機嫌よかったと報告、更に帰りがけに家老から、かくかくしかじかと云われたと言いかけた途端、母親の妙秀がキッとなって、そなたその銀を拝領してきたのか、と咎めた。そこで光悦はそうしなかった旨を説明すると妙秀は機嫌を直して言う。 |
19日 |
「よくぞお返し申しあげた。もしその銀子を拝領したならば、折角の茶入れもすたれたものになり、そなたは一生茶の道をたのしむことができなくなったであろう。よくぞお請けしないできた」と大変な悦びようであった。 |
20日 |
この話は「本阿弥行状記」にあり、実に気持ちのいい話で、妙秀という人の、物の考え方や光悦の心持をよく察することができる。要するに、「利得」という念は毛頭なく、専らいい品物を手に入れてただそれ故に喜んでいたのである。 |
21日 |
もし茶道具に利得が絡んだのであれば、その道具も、更には自身の茶の道もすたれる、茶の道も楽しむことが出来なくなると、ひたすら心の在り様だけ重視したのである。 |
22日 |
本阿弥の家は商家であるが、金銭に捉われず、「心の内なる律を尊んだ」ことがこの話から知ることができる。小袖屋の茶入れを宗是がまけると言ったのに断り、光悦が元値で買った話は直ぐに京中に広がり、その話を聞いた殆どの人が「気違い沙汰だ、バカなことをしたものよ」と嘲った中で光悦の所業を誉めたのは徳川家康一人だったと言われる。家康はそのような心情を愛していたのであろう。 |
23日 |
灰屋紹益は幼い頃から光悦の側におり愛された人だが、少し経歴を記す。江戸初期,京に花咲いた豪商灰屋紹益、本名は佐野重孝、佐野家は本阿弥光悦の縁故、薬品のない時代、染めは灰を用い、紺染めに用いる灰を扱うため”灰屋”と号した。巨万の富を築き京の上層町衆を代表する豪商。元禄四年八十二歳の長寿。あの吉野太夫を妻の死後、身請けした。紹益は二十二才、太夫二十六才、年上女房。紹益は文筆家であると共に宗教人。 |
24日 |
光悦について、紹益の言葉「みづから茶をたて、生涯のなぐさみとす、人ののぞみ好む道具など、しぱらくは持ちたる事有けれども、おとすな、うしなはぬようなど言う事、いちむつかしとて、みなそれぞれにとらせて、のち人のほししと思うべくものなかりし」。 |
25日 |
名物は、それが名物なればなる程「やれ落とすな、やの失くすな」とそれに心をとられ、心の平安を失わせる。そんなものに心を乱されるくらいならいっそ持たぬにしかぬと、みな人にやってしまって、おのれはごく普通の雑器で茶そのものを楽しんだというのだ。光悦の心がけがよく分かる話である。 |
26日 |
紹益は更に続けて言う、「光悦は、世を渡るすべ一生さらに知らず、若かりし時より、物の数を合するもののたぐひ、一生我が家の内になし。金銀手にのせたる事、昔、加州の大納言、直に判金を給ければ、手にとり頂きたると覚えたり。其外一度も手に持ちたる事なし」。 |
27日 |
光悦のことに就いて紹益は続いて言う。「身過ぎ世すぎの為に、金を稼ぐようなすべは一生まつたく知らなかった。金勘定をする算盤とか、金銀の目方を計る |
28日 |
本阿弥光悦の家は決して貧しいのではなかった、小さな家に住み、小者1人、飯炊き1人の他は使用人もなく、質素に暮らしていたという。光悦が自ら望んでそういう簡素な生を択んだ、つまり思想からして簡素な生であったのだろう。欲望を支配し得る程、精神の方が優位であったのだろう。 |
29日 |
矢張り光悦の母親、妙秀の影響があると思われる。彼女は何より「慳貪にして富裕なること」を嫌ったという。慳貪とは欲深くして慈しみの心のないこと、むごいこと、貪欲なことである。自分さえ良ければいいという性質である。 |
30日 |
妙秀は富貴なる者は必ずどこか慳貪なるところありはしないかと疑い、貧しい者の多い世に富者であること自体を罪深いことと考えていたという。特に一族の縁組に金銭あるが故に嫁取りを最も忌避した。 |