中国語になった日本語
平成21年6月度 

 1日 幾何 劉徳有という中国人の著作「日本語と中国語」(講談社)がある。その第三章「中国人は日本製の漢字文字が大好き」の中から従来「国字」に関しての私の色々な論述と関係が深く、中国人の立場からのものでありここに披露し考えてみたい。 幾何(きか)」という文字は、数量や程度の意味を表し「いくばく」とも読めるため、日本では漠然と数学と関係のある日本製文字として認識されているようだ。
実際は「幾何」は中国で翻訳され、それが日本に伝わった語彙(ごい)なのである。
 2日 幾何は中国製 「幾何」の語源がギリシャ語のgeometria=英語のgeometry(ジョー・ミトリー)から来ていることは読者も周知の通りだが、中国はこの言葉を翻訳かる際、geoの音訳に、幾何(じーほー)の二次を当てた。 それが日本に伝わり「幾何(きか)」と読まれるようになったのである。この話をある日本人に話したところ、「私はてつきり「幾何」は明治時代の訳語でそれが中国に伝わったものと思っていました」と大変驚いていた。
 3日 清朝末期の新語 確かに明治維新後、西洋の学問の吸収に力を注いできた日本は、哲学や社会科学や自然科学に関する膨大な数の「新語」を創り出した。その中の多くの日本製の漢字語彙が次第に中国に伝わって、使用されるようになったのは紛れも無い事実である。 だが、当然のことながら、中国も清朝末期には大量の洋書を翻訳し、多くの「新語」を創りだしていた。そしてそのような「新語」を創るにあたり、中国では原則的に自国の古典から語句を捜し求めるという方法が取られることになった。
 4日 新概念を古概念に求めて失敗した中国 すなわち、economicsは「計学」、「資生学」に、philosophyは「理学」、「智学」に、sociologyは「群学」に、physicsを「格致学」といった具合に古典の語句を訳語に当てはめていったのである。だが、新しい事物に見合うものすべて古典の中から探し求 めるという手法は、新しい概念に古い概念を当てはめることになるという点で最初から無理なところがあった。そのせいなのか、上記の中国製の「新語」は一般に広まることなく、いつしか日本で翻訳された「経済学」、「哲学」、「社会科学」、「物理学」などに取って代わられていったのである。
 5日 日本の訳語 もっとも、中国で使われるようになった日本製の翻訳漢字語彙も、元を正せば中国の古典から材を取っているものが多い。例えば、economyの日本語訳である「経済」がそうだ。
経済(じんじー)」は元々中国の古典にある言葉で、世を治め民を救う「経世済民」の意味がある。

唐代の詩人、杜甫の詩には「古来経済の才、何事か独り(まれ)に有らんや」の一節があるが、この「経済」は国を治める才能を指している。日本はそうした意味を持つ中国の古語「経済」を、economyの訳語に当てたのである。
(徳永所見−漢字は中国にあっても、現在の意味に使用した日本人の閃きと、深き考窮により確立した概念見識が違う)

 6日 同様ケースと劉氏は言うが、それは見当違いの手前味噌 organizationの訳語である「組織」も同様である。元代の末に著されたた史書「遼史」の中の「食貨志」(食糧、通貨の政策を記した巻)には「桑麻を樹え、組織を習う」と記されており、この二字を借用して現在の「組織」が創られた。なお引用文にある「組織」は、紡織=「機織」の意味である。 同じくconstitutionの日本語訳である「憲法」も、「国語」(古代・春秋時代を扱った歴史書)の「晋語」―「善を賞し、姦を罰す。国の憲法なり」から取ったものである。ここで言われている「憲法」は国家の根本法としての法令ではなく、国の掟という程の意味である。
(徳永所見−漢字は中国にあっても、現在の意味に使用した日本人の閃きと深き思考により確立した概念見識が全く異なる)
 7日 何をか況やの主張 knowledgeの訳語である「知識」は孔融(魯の人、孔子の二十代目の子孫と称した、152-208)の「盛孝章書を論ず」に「海内知識、零落殆尽」とあり、そこからの借用である。


(徳永所見―含む概念が日本の狙いと異なる)
「文法」は本来は法律の条文の意で、出典となつたのは「史記」と「汲黯伝」にある「弘大体、不拘文法」である。大局に立ち具体的な法律の条文にこだわるな、という意味だが、日本ではgrammarをこの言葉に当て、文章を構成する決まりや組織の学問=「文法」の意味に使用し、現在、中国でも同じく「文法」の意味に使われている。
(徳永所見―西欧文明の東洋普及は日本人の深い考究と感性に基づいていることが明白)
 8日 ヨウカン この他、外国語からの翻訳ではないが、中国の古語を日本で現在も使っているケースがある。例えば、私も大好きな「羊羹(ようかん)」がそれである。 中国の古語である「羊羹」は読んで字の如く「ひつじの(あつもの)」つまり、羊肉の入ったスープを意味する。
(徳永所見ー漢字があっても、その利用の仕方の哲学が中国には無く、劉氏は牽回付強である。)
 9日 出典となったのは「戦国策」の中の「中山策」−「中山君饗都士大夫、司馬子期在焉、羊羹不遍、司馬子期怒而走於楚」という一節だ。意味は中山国の王が手下の官僚に、羊羹を振舞ったが、数が足りないため、 みんなに行き渡らず、部下の司馬子期は怒って楚の国に走ったというもの。ご馳走にありつけなかった高級官僚が憤慨してよその国に行ってしまうほどなのだから、余程の美味であったに違いない。
10日 羊羹

然し、この羊羹がどうして同じ食べ物の中でも、似ても似つかぬ和菓子になったのか? ものの本によれば、中国で日本の「羊羹」と似た食べ物には、羊の肝に似せた小豆と砂糖で作る蒸し餅の「羊肝こう」、「羊肝餅」があり、羊肝こうが日本に伝来した際、

「肝」と「羹」の音が似ていたことから混同され「羊羹」の文字が使われるようになったということのようだ。いずれにしても日本の人たちが、羊羹を「おいしい、おいしい」と云って食べる時、羊肉のスープを思い浮かべることは百パーセントないだろう。

11日ー

14日
中国は日本製の漢字語彙の大量輸入国 前述したように、日本は明治維新後、西洋の事物を意訳によって大量に日本語に翻訳した。そして中国は19世紀末から、これらの日本創作の漢字語彙を大量に移入するようになっていく。具体例をまず、意味の反する言葉から挙げていこう。肯定―否定、左翼―右翼、積極―消極、絶対―相対、主体―客体、主観―客観、必然―偶然、直接―間接、理性―感性、広義―狭義、暖流、寒流、熱帯―寒帯、高温―低温、高圧―低圧、予算―決算。可決―否決、進化―退化、動脈―静脈、長波―短波、優勢―劣勢、具体―抽象、権利―義務、固体―液体、上水道―下水道、重工業―軽工業、高周波―低周波、流動資本―固定資本、可変資本―不変資本、財団法人―社団法人。 

これらは全て、日本製中国語として、中国人の間に定着している。それ以外の専門用語と一般用語でも、中国ではざつとこれだけの翻訳日本語が中国語として流通している。

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作用、重点、象徴、原子、電子、量子、批判、批評、劇場、演奏、演説、講演、漫談、典型、動員、電話。

15日ー

20日
中国定着の日本国字

日本製文字には深い考察がある。
電波、電流、連絡、連携、連繋、系統、調整、活動、例会、派遣、現金、関係、促進、進展、温度、温室、動機、動議、時効、理論、理念、理想、論戦、会談、指導、同盟、協会、学会、学位、学歴、意識、常識。

ー方式、方針、保険、栄養、細胞、心理、結核、神経、侵略、侵犯、立場、広場、手続、場合、場所、但書。所得税、展覧会、博覧会、図書館、単行本、所有権、伝染病、運動場、百貨店、交響曲、紫外線、高利貸、仮想敵、予備役、弁証法、血色素、生産手段、生産関係、神経過敏、神経衰弱、防空演習、灯火管制などなど枚挙にいとまがない。
また、以上の訳語の中にある「演説」、「社会」、「理論」、「法則」、は中国の古典を使った造語で、うち「演説」については、朝日新聞の天声人語にこんな一文が載ったことがある。「1873年、明治六年、福沢諭吉は慶応義塾の有志と演説の練習をし、翌年、弁論会を開いた。これが日本の演説の始まりらしい。スピーチを演説と訳したのも福沢だ。最初は「演舌」としたが、「舌」では俗っぽいので「説」に改めたという。この演説は、「尚書」「周書」「北史」などで、しばしば目にすることができる。なお、「尚書・洪範」に見られる「更に此の九類をもって、而して之を演説す」の演説の意は、原意に基づいて道理や意義などを述べることであり、いまの様に公衆の前に立つ「演説」とは違っていることを付け加えよう。
(
徳永所見―ここにも明治日本人の深き考窮がある。)
近代中国では、外国の新思想、新事物を吸収する初期段階において、英語を音訳して言葉を創るというケースが多かった。然し、語学の普及していない時代に、この方法は余りに強引であり、結果、折角の造語も普及しないことになった。

(徳永所見―現代でも中国はその通りで、日本の如き深い考究と探求心が欠けている。海賊、模倣国家中国なのである)。そのような例には、scienceをそのまま漢字に置き換えた「賽因斯(さいいんす)、democracyの置き換えである「徳莫克拉(でもこら)西(しー)などがある。国民にしてみれば、ただでさえ馴染みのない外国語を、いきなり漢字の形で読まされるのだから中々口が回らない。それもあってか、この二つの熟語はいつしか「(さい)先生」と「()先生」と略されて流通するようになった。

中国で1919年に起こった「五四運動」の最中、中国共産党の創始者の一人で新文化革命を唱えた陳独秀氏は「徳先生を支持し、賽先生を支持しようとするのならば、国粋と旧文学に反対せざるを得まい」と語ったことで知られる。

だが、この「賽先生」と「徳先生」は、やがて日本の訳語である「科学」、「民主」に席を譲り、現在では「賽因斯(さいいんす)徳莫克拉(でもこら)西(しー)を知っている中国はごく一部の人間だけになってしまった。(徳永所見―当然であろう、幼稚すぎる)。

このように中国製の音訳語が日本製の造語に取って代わられた例をいくつか挙げておこう。

中国に電話が入ってきた時、当初はテレフォンの音訳である、「()律風(りゆいふぉん)」が名称として使われたが、後に日本人の訳語「電話」に駆逐されることとになった。

インスピレーションも中国では「梱士被(いえんしー)(びり)(ちゅん)」と訳されたが、後に日本製の「霊感」が市民権を獲得した。梱士被(いえんしー)(びり)(ちゅん)」では読みづらく、覚え難い上に、字面から本来のインスピレーションの意味が全く伝わらないという欠点があったから、これは当然の結果なのかも知れない。 

21日 表面的な模倣

勿論、中国人が作り出して普及した音訳語もある。マイクロフォンは当初、音訳の「麦克風(マイコーフォン)」、略して「(マイ)(コー)」が使われ、
(徳永−中国人の下手な翻訳。)
拡音器(クオーインチー)」と併用される時期もあった。

然し、新中国になつてからは、次第に「(ホア)(トン)」に取って代わられ、「話筒」が主流占めるようになったが、カラオケが流行りだしてからは、「麦克」が再復活し、今では両方使われている。(徳永−表面的な模倣に過ぎない事と、日本のようなカタカナが無いことからレベルの低い訳語となっている)
22日 例外

文化代革命時代、二派に分かれた群集が自分たちの主張を宣伝するため演壇のマイクを奪い合いする光景がよく見られたものだが、このマイクの奪い合いを、中国語で「(チャン)(ホア)(トン)」と言ったものである。

尤も、こり言葉は今では「死語」になってしまった。
一方、中国に持ち込まれはしたが、結局、根付かなかった日本製の漢語もある。外来語に日本人が音訳の漢字を当てたものがそうで、現在では殆どが中国語に言い換えられてしまつている。
23日 倶楽部は
傑作の日本製

例えば、瓦斯(ガス)窒扶斯(チフス)虎列(コレ)()、などがそうで、中国では、夫々、「煤気」、「傷寒」、「霍乱」が取って代わり人口に膾炙している。これらの文字が普及しなかつた理由は、やはりその字面が私たち中国人にアピールしなかったからだろう。

今尚、中国で生き残っている日本製音訳語と言えば、
倶楽部(くらぶ)混凝土(コンクリート)淋巴(リンパ)あたりであろうか。
ただし「倶楽部」の訳は大変な傑作で、いまも使われているのは当然に思える。
24日 混凝土(コンクリート)

倶楽部は字面を見ただけで、みんなが楽しく遊ぶ所だと分かる仕組みになっているし、混凝土(コンクリート)は「混」、「凝り」「土」の三字を巧みに組み合わせてコンクリートの音に近づけ、

セメント、砂、砂利、水の混合物を凝縮した強力な建築材料であることを見事に示しているからだ。もっとも、今では、この言葉を作った日本人の大半が「混凝土(コンクリート)」をどう読むかわからないのが現状であろう。 
暫く休憩中